2020年12月22日

太田道灌銅像の除幕式(道灌紀行ニュースNO.16)

2020年12月21日(月)埼玉県のJR八高線越生駅の西口で「道灌おもてなしプラザ」の竣工式と太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。新井雄啓越生町長の挨拶、NPO法人太田道灌顕彰会の太田資暁理事長のスピーチなどの後、テープカットと除幕が行われました。
IMG_0801.JPG

IMG_0817.JPG
(文武両道の太田道灌銅像)
今回除幕された銅像は、1975年(昭和50年)4代目慶事丹長(けいじたんちょう)が制作した銅像です。神奈川県伊勢原市役所前に立つ「太田道灌公銅像」と同じ鋳型で造られた双子の兄弟像の一方です。この銅像は長い年月の間、日の目を見ずに埋もれていましたが今回、晴天温暖無風の冬至の日に堂々と、越生駅前広場に登場しました。台座正面には、新井越生町長の揮毫による「文武両道」の文字が刻まれています。この銅像は今後「文武両道」の道灌像と呼ばれることでありましょう。
この銅像は、駅舎から出てくる人たちを迎えるため、西を向いています。夕日に照らされると、覇気あふれる道灌の表情には、苦労人の自信と余裕がにじんでいて、訪れる人々や通学の子供たちをさりげなく勇気づけてくれます。
IMG_0803.JPG
(台座に「文武両道」)
IMG_0785.JPG
(竣工式)
今回の竣工式と除幕式にちなみ越生駅の西口は「道灌口」と呼ばれ、東口は「山吹の里歴史公園」にちなみ「山吹口」呼ばれることになり、さらに駅前の休憩広場には「道灌パーク」と命名されました。またこの日、「太田道灌の里」という、詩吟入りの新しい歌も披露されました。
今回の竣工式と除幕式はコロナ禍の中で人数を制限して行われたものの、各地の道灌まつりや道灌ウォーキングが全面的に中止になった今年、唯一つの記念すべき道灌イべントとなりました。また越生町では、龍穏寺の山吹の枝を持つ太田道灌像、役場玄関ロビーの躍動する太田道灌像につぎ三つ目の太田道灌像となりました。
伊勢原市太田道灌銅像.JPG
(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

2020年11月03日

太田道灌有縁・三つの八幡宮

東京都江東区の富賀岡八幡宮と富岡八幡宮、神奈川県伊勢原市の西富岡八幡宮に共通する伝承は、太田道灌が崇敬したと伝えられる八幡像に由来します。

1.富賀岡八幡宮
地下鉄東西線の南砂町駅東口より徒歩10分程の所に、富賀岡八幡宮があります。駅周辺にこの八幡の案内板はありませんが、元八幡通りを目指して行けば見つかります。
当宮は深川の富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られています。その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、749年(天平勝宝元年)に創立された区内屈指の古社であります。
富賀岡八幡宮.JPG 
(富賀岡八幡宮)
ご由緒によると、当宮に奉祭されていた「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。
由緒書き.JPG
(ご由緒に太田道灌のこと)
広重の『江戸名所百景』を見ると、かつて当宮は海の近くにあり、桜並木の参詣道をもっていましたが、今はその面影もありません。
富賀岡八幡宮=東京都江東区南砂7-14-18

2.富岡八幡宮
地下鉄東西線の門前仲町駅を出ると、目の前に富岡八幡と深川不動の門前町が一気に広がり、江戸の下町の雰囲気に包まれます。
富岡八幡.JPG
(富岡八幡宮)
富岡八幡宮は、深川八幡宮とも称され、天平宝字年間(757〜765)の創建と伝えられます。『江戸名所図会』には富岡八幡の八幡像について「源三位頼政が尊崇した神像を千葉・足利両氏が伝え、のち太田道灌の守護神になる」とあります。現在当宮の境内に、そのことが書かれた由緒書きが見つかりません。
当宮は1627年(寛永4)に永代島に再建、江戸下町の繁盛につれて特に深川木場の尊崇を集めました。8月15日が例祭で、神田祭、山王祭とともに江戸三大祭りの一つです。
鳥居をくぐると左右に、かつてこのあたりに住んでいた伊能忠敬の銅像と大関力士碑があります。
I伊能忠敬像.JPG
(伊能忠敬の銅像)
IMG_0622.JPG
(大関力士碑)
富岡八幡宮=東京都江東区富岡1-20-3

3.西富岡八幡宮 
小田急線の伊勢原駅より、県道63号線を北へ車で10分も走ると、分かれ道の手前の西富岡八幡神社にきます。
富岡八幡宮.JPG 
  (西富岡八幡神社)
IMG_0572.JPG 
   (由緒書きの碑)
 この八幡神社の創立は詳(つまびらか)ではないものの、由緒には「当地草創に当り氏子庶民の天神を奉斎したに始まると言う。即ち当社の例祭に当り神事草分け祭りを奉行し、祖先の此の地を開いた功に報い生存の喜びを祝ったものである。
文明年間(1469〜87年)に関東管領上杉定正の臣大田道灌が下総国葛飾郡の富岡八幡宮を此の地に遷座し、厚く尊信し、これより富岡村と呼び、元亀年間(1570〜73年)に西富岡村と呼ぶとも伝える。」とあります。
 東京の江東区と伊勢原が、「富岡」という地名でつながっていることに、不思議な因縁を感じます。
西富岡八幡神社=神奈川県伊勢原市西富岡890
posted by 道灌紀行 at 14:16| Comment(0) | 太田道灌有縁・三つの八幡宮

2020年10月02日

『太田道灌状』第25段の「大谷」とはどこか。

『太田道灌状』第25段には、長尾景春が太田道灌に敗れ、武蔵で最後の抵抗を試みてから秩父の峠を越える直前の、各勢力の複雑な動きが記されています。その中に次のような一節があります。
167-6 高原牧場ポピー.jpg
(秩父の峠のポピー)
本文
正月四日、景春児玉へ令蜂起候之間、同六日塚田へ罷越、其儘諸勢お相集、修理太夫大谷へ寄陣、同十三日沓掛へ相進。
読み下し文
正月四日、景春は児玉へ蜂起せし候の間、同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相い集め、修理太夫は大谷へ陣を寄せ、同十三日沓掛へ相い進む。
現代語訳
(文明十二年)正月四日、景春は児玉で蜂起したので、(道灌は)同六日塚田へ出陣し、其のまま諸勢を結集し、修理太夫(しゅりだいぶ)は大谷(おおや)へ陣を寄せ、同十三日沓掛(くつかけ)へ進軍しました。
*修理大夫=上杉定正

『太田道灌状』には遠征や野戦が多く記されているため、「参陣(7回)」「張陣(6回)」「寄陣(6回)」「取陣(5回)」「着陣(4回)」「出陣、立陣、払陣、逃陣(各1回)」という具合に陣にかかわる言葉が多く、それぞれ使い分けられています。
そのうち「寄陣」という言葉は、移動先の陣所のようなところに自軍の軍勢を寄せる、という意味で使われています。
第20段では二宮城に寄陣、また砦のような村山の真福寺に寄陣、第21段では青鳥城へ寄陣、第22段では臼井城に寄陣、第24段では久下氏の館に寄陣と記されています。さて第25段には「修理太夫大谷へ寄陣」と記されいます。修理太夫・上杉定正が道灌と行動を共にするため、陣を寄せた「大谷(おおや)」とは一体どこの陣所でしょうか。「大谷」という地名は現在、深谷市と東松山市にあります。

1.深谷市の大谷
深谷市役所教育委員会で尋ねると、『深谷中世文書集』第2集(深谷上杉・郷土史研究会編集)により、深谷市大谷の堀之内を教えてくれました。
IMG_0615.JPG
 (深谷市大谷の堀之内)
早速に深谷市大谷396番地の堀之内へ行ってみました。深谷市の「大谷」は、現在広大な畑地で民家が点在しています。農作業をしていた人に尋ねると、近所の古老の家まで車で案内してくれました。古老は87歳で、深谷・上杉の郷土史研究に携わり、このあたりでの太田道灌と長尾景春との戦について熟知していました。古老は身辺から文献を引っ張り出しながら、次のように話してくれました。
『このあたりには「堀之内」「館野」という小字が残っていますが、土塁や堀の跡は認められません。地名から考えて、ここに領主が居住したことは間違いないが、その人物の名前はわかりません。
そして結論として『太田道灌状』に記されている「大谷」は、「塚田(寄居町の赤濱)」「大谷(深谷市の堀之内)」「沓掛(深谷市)」「児玉(本庄市)」と、鎌倉街道上道の支道で結ばれるので、深谷市であったと考えられます。
しかし定正が、なにかの事情で東松山市の「大谷」へ陣を寄せた可能性も否定はできません。』
 この古老の話は、深谷市教育委員会で示された『深谷中世文書集』157頁の内容と一致しています。
<122-3 川越岩と渡河地点.JPG
(塚田の赤濱・荒川の獅子岩)
155-3  雉が丘城土塁.JPG
(児玉・雉が岡城址)      
*後日わかりましたが、私がたまたま「堀之内」でお会いした古老は、『深谷中世文書集』の編集委員のお一人、吉橋孝治氏でした。

2.東松山市の大谷
『新編 埼玉県史』(2)431頁には、次のように記されています。
「道灌は、六日、塚田(寄居町赤濱)を通り兵を集め定正のいる大谷の陣(東松山市大谷)に合流した。」
『埼玉県史』では、「修理太夫大谷へ寄陣」を「(道灌は)定正のいる大谷の陣へ合流した)と解釈しています。また、「大谷」を東松山市としながらも、その陣所がどこか具体的には記していません。
東松山市の大谷も畑作地帯ですが、隣接する森林公園(滑川町)に山田城址があります。私は、国営武蔵丘陵森林公園の中にある山田城址と鎌倉街道を訪ねました。
東松山市大谷.JPG     
(東松山市大谷)         
  
鎌倉街道.JPG  
 (山田城址近くの鎌倉街道)
森林公園南口の右手の丘陵が山田城址です。南口から入り土塁を一気に登ると、9100平米の広大な廓が広がります。小学校のグラウンドくらいの廓の周囲の土塁と空堀は、ほぼ原形のまま保存されています。これだけの広さがあると相当数の軍勢が寄陣できます。

山田城堀跡.JPG 
  (山田城址の空堀)     
山田城説明版.JPG
  (山田城址説明版)
城跡の説明版には伝承記録として「創築年代は不明ですが、忍の成田氏の被官、小高大和守父子及び贄田摂津守等が居住し、平山城として城郭を整えていたものと思われます。(後略)」とあります。
『太田道灌状』第24段には、文明11年末、太田道灌は急遽久下へ行き、成田下総守に会い激励した旨記されています。それにより、定正の山田城すなわち大谷の陣への寄陣が安泰になったと考えることができます。
山田城址の近くに、踏み固められた鎌倉街道がまっすぐに通り、昔日のにぎわいを伝えています。
私が訪問した夏の終わりには、コロナ騒動のためか人影もまばらなので、城址入口で大ぶりのヤマカガシに出会ってしまいました。森林公園の職員にそのことを告げると「また出ましたか、今日の日報に書いておきます」と語っていました。

3.私の推測
深谷市の「大谷」から「沓掛」へは、直線距離で約8キロしかなく、少し迂回しても約10キロ程度です。
一方東松山市の「大谷」近くの山田城跡から「沓掛」までは、直線距離で約24キロあり、少し迂回しても約30キロとなり、一日で行軍できる距離です。
また、川越城から東松山市の「大谷」までは、直線距離で約24キロで一日の移動距離です。
私も深谷市堀之内の古老と同じように、『太田道灌状』の「大谷」が深谷市か東松山市か大いに迷うところですが、敢えて推測してみます。
深谷市の堀之内には、土塁や堀跡の遺構が全くありません。そのことから推測すると、そこに居住した領主の館は小規模なもので、厳寒の頃、定正の軍勢数百名が寄陣するのは無理だったかもしれません。
定正が河越城から移動した可能性と陣所(山田城)の遺構の規模を考慮すると、私は、『埼玉県史』の「大谷」東松山市説の方がやや蓋然性が高いと考えます。
それにしても『太田道灌状』の中にただ一度だけでてくる「大谷」という地名に、私はずいぶんとこだわり、方々駆けずり回ってしまったものです。