2018年10月23日

道灌紀行ニュースNO.13

第1回日暮里道灌まつり
平成30年10月20日(土)21日(日)(於・東京都荒川区JR日暮里駅前)
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(日暮里道灌まつりのポスター)
去る10月13日(土)14日に伊勢原市で、恒例の「第51回伊勢原観光道灌まつり」が盛大の行われ、その一週間後に、JR日暮里駅前のイベント広場で「第1回の日暮里道灌まつり」がにぎやかに開催されました。第51回と第1回とは、面白い数字のめぐりあわせでありました。
JR山手線の日暮里駅で降り、東口の通称「道灌口」から出ると、駅前で太田道灌騎馬像と山吹の女の像が迎えてくれます。
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(回天一枝の像)
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(山吹の花一枝の像)
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(イベント広場・お祭り会場)
21日の朝10時からは、お祭り広場の舞台でセレモニーがおこなわれました。最初に西川太一郎荒川区長(東京23区・特別区長会会長)から主催者あいさつがあり、つづいて太田道灌顕彰会の太田資暁理事長から祝福のあいさつがありました。
諸関係者のあいさつのあと、伊勢原、越生、太田酒造、福島県などから販売品等のアピールがありました。
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(西川太一郎荒川区長)
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(太田資暁理事長)
圧巻は伊勢原甲冑隊の「太田道灌そろい踏み」と小倉恵子さんの熱唱「ああ太田道灌」でした。甲冑隊は演技のあと見物人とともに勝どきを挙げて、会場を練り歩きました。
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(伊勢原手造り甲冑隊)
引きつづき「古今亭駿菊」の青空落語などが披露され、さらに芸人が次々と登場して会場はおおいに盛り上がりました。
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(古今亭駿菊の青空落語)
この日会場では、「太田道灌の大河ドラマ」実現を目指す署名活動が行われました。また荒川区の観光ボランティアにより、道灌ゆかりの本行寺、江戸城の出城址であった道灌山や夕焼けだんだん、繊維街などのウオーキングツアーも行われました。
私はこの日、久しぶりに会った道灌友達から、かつて俳人の正岡子規が道灌山をたびたび訪れてたくさんの俳句を作った、という話を聞きました。子規の句にいう、
    柿くふや 道灌山の 婆が茶屋
この日は、晴天、温暖、無風に恵まれたので、多くの人が訪れて各店舗も繁昌し「第一回日暮里道灌まつり」は大成功でありました。

 尚、今年10月27日(土)には、静岡県の熱川温泉で恒例の「第6回石曳き道灌まつり」が行われました。これは太田道灌が江戸城の石垣の石を、この辺りから切り出して船で運んだという故事に因みます。

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2018年09月30日

「塩売原」で考える「地名は言葉の化石」

2018年9月、台風24号が近づいて小雨が降る中、前橋市富士見町の『太田道灌状』にかかわる史跡調査に出かけました。国道17号線を北上し、前橋市で荒牧町を過ぎてから291号線に入ります。萩原朔太郎ゆかりの政淳寺入り口で右折します。しばらく進んで政淳寺を過ぎて右の方へ行くと「横室古墳公園」へきます。公園の入口の説明板の表題に「陣場・庄司原」と地名が記されています。この地が、1477年(文明9年)10月11日に上杉方・大田道灌軍と古河公方方・長尾景春軍が小競り合いをした古戦場の庄司原(塩売原)であったことを物語っています。
案内してくれた地元の郷土史家長谷川氏の解説は次の様でした。
「この近くに荒牧(道灌状では「荒巻」)という地名があるように、この辺りには古来牧がたくさんあり、多数の馬が放牧されていました。馬には塩を与えなければならなかったので、この地で塩の売買が行われました。したがってこの地が「塩売原」(しおうりはら)といわれ、やがてなまって「庄司原」(しょうじっぱら)と呼ばれるようになりました。そして「庄司原」の西南に字「陣場」があり、この地が古戦場であったことを物語っています」
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(横室古墳公園)
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(陣場・庄司原古墳群の説明板)
『太田道灌状』16段にいう、
「十月二日道灌は荒巻へ上り、並びに引田辺の陣場等を見て廻り、其の心当に候処、案の如く結城、両那須、佐々木、横瀬、其他彼の国の諸勢申し請い、景春並びに同名六郎多勢を以って寄せ来り候。兼て覚悟の前に候の間、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前に当てて陣取り、天子の御旗を出され候ば、其の時合戦に及ぶべき旨存候処、聊示の趣で異見申される方共候か。其義なく候の処、十一月十四日御敵退散せしめ候」
(10月2日に道灌は荒巻へ上り、すぐに引田辺りの陣場等を見て廻り、其の地での作戦を練っていたところ案の定、結城、両那須、佐々木、横瀬、其の他彼の国の諸勢が申し合わせ、景春並に同名六郎等多勢で寄せて来ました。(道灌は)兼ねて予想をしていたので、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前にして陣取り、(顕定が)天子の御旗を出されれば、その時合戦に及ぶだろうと考えていました。ところが、思いつきの考えで意見をする人がいたのでしょうか、その作戦は実行されないまま、十一月十四日に敵は退散しました)
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(引田)
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(横室古墳)
長谷川氏の案内ですぐ近くの引田という所へ行ってみると、そこはやや高くなっていて横室との間に窪地があるので、道灌はそこを切所と考えたと思われます。切所とは、勝敗のきめてとなる厳しい地形のことです。全てが『太田道灌状』の記述と合致する地名と地形であるので、いつもながら感動します。私は10年ほど前にこの近辺を廻りましたが、今回は長谷川氏の案内で地名と地形と両軍の動きを詳しく検証しました。言語学では「地名は言葉の化石である」といわれています。そのことが間違いないことがよくわかります。
この地に道灌軍と景春方の結城氏など関東八家の大軍が軍旗をなびかせて押し寄せました。古墳の頂上に登ってみると、前橋市街や周囲に広がるブロッコリー畑がよく見えるので、ここは最初に太田道灌がそのあと長尾景春も登って物見をしただろうと想像されて面白くなってきます。上州の山々が見えないのが少々残念です。
さあ台風が日本列島に近づいているので、帰らねばなりません。



2018年08月18日

太田家軍旗

2018年7月14日(土)から9月2日(日)まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館で「企画展・古文書大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」が開催中です。
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(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
この展示に「太田家軍旗」(日の丸に鏑矢紋絹地旗印)が展示されています。これは、15世紀に合戦の最中に使用された軍旗です。絹地に「日の丸」と太田家の替紋「違い鏑矢紋」を配した軍旗は、太田家の歴史を記した「太田家譜」にも記されています。軍旗の大きさは、よこ約250cmm、たて約40cmmで、先端はちぎれたようになっています。残念ながら撮影禁止ですのでやむを得ず私は、その軍旗をスケッチしてきました。
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(私がスケッチした「太田家軍旗」)
展示の説明によると、この軍旗は東大阪市の専宗寺に伝わる岩付太田氏関係資料で、太田道灌の曽孫太田資正の三男資武の末裔にあたる子女が、専宗寺の兄弟寺河内の慈明寺に嫁いだ縁から、同寺に伝わったということです。東大阪市の専宗寺のブログを見ると、確かに「太田道灌と専宗寺は親戚である」旨が記されています。
この軍旗は、今回初めて博物館で展示されたそうです。
昨日、知人より「太田家軍旗」の写真が送られてきました。ネット上で出回っているそうです。写真を見ると確かに現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されているものと同じ旗です。どこでいつ撮影されたものかわかりませんがその写真を掲載します。
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(太田家軍旗、撮影場所不祥)
岩槻系の太田道灌曽孫太田資正の許には、道灌使用の軍配、道灌遺愛の琵琶「千鳥」、香木「蘭奢待」、そして多分「太田道灌状」など貴重な道灌遺品が伝わっていました。そのことを考えると、この軍旗は、太田道灌が実戦に使ったもので太田資正が所持していたものである蓋然性は極めて高いと思います。

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2018年07月16日

道灌紀行ニュースNO.12

1.第19回「太田道灌の集い」平成30年7月29日(日)(伊勢原市)
太田道灌大河ドラマ推進実行委員会は、道灌の大河ドラマ要望の署名が、5月末に15万2千筆を越えたと発表しました。その盛り上がりの中で、恒例の太田道灌の集いは、平成30年7月29日(日)伊勢原市市民文化会館ホールで、開催されます。
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(「道灌の集い」チラシ)
第1部 午後1時より・文化・芸能発表
尺八演奏
成瀬児童合唱団
民謡踊り・友遊庭
伊勢原手作り甲冑隊
第2部 午後2時より・あいさつと報告
太田資暁 道灌の集い会長
伊勢原市長(予定)
伊勢原市議会議長(予定)
衆議院議員(予定)
他県市町自治体の報告
第3部 午後3時より・芸能発表
歌手 小倉恵子さん
舞踊 五条詠寿郎さん
落語 三遊亭遊吉師匠
三上利栄実行委員長は「多くの人々が、お気軽に来場してくれるよう望んでいます」と語っています。

2.伊勢原市議会「太田道灌大河ドラマNHKへ要望」を決議
7月29日の第19回「太田道灌の集い」を間近にして、伊勢原議会6月定例会において「太田道灌をテーマしたNHK大河ドラマ誘致についての決議」を満場一致で可決しました。
決議は、道灌の墓所が市内にある経緯に触れ、「道灌の活躍の足跡は、関東各地に残され、ゆかりのある各地の自治体にとって地方創生の観光資源となる」と述べています。
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(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

3.太田図書の墓前祭(佐倉市)
2018年7月14日(土)午前11時より、佐倉市の臼井城址公園で太田図書の墓の墓前祭が行われました。主催した臼井文化懇話会の岡野敦会長、中野英樹相談役、吉田とく名誉理事また太田家から太田資暁氏、太田盛明氏、佐倉市教育委員会の関係者など約20名が参列して、厳粛に執り行われました。
太田道灌の弟、太田図書之助資忠は、1479年(文明11年)7月15日、臼井城の合戦で壮烈な最期とげ、その場所に葬られました。
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(太田図書の墓)
法要のあと、市内で懇話会が行われ、太田図書の墓建立の経緯や太田道灌大河ドラマへの期待など、話が盛り上がりました。

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2018年07月01日

西武球場の真ん前に「太田道灌の御神木」

先日知人から西武球場の真ん前の寺に、「太田道灌の御神木」があると聞きました。「えー」と私はびっくり仰天です。そこは、東大和市の我が家から車で10分のところです。私は道灌の史跡調査で越生、秩父方面へ行くため、多摩湖を横断し、月に数回西武球場前を通っています。行ってみると、確かに「太田道灌の御神木」がありました。「灯台もとくらし」とはこのことです。
西部鉄道狭山線の西武球場前駅は野球ファン専用の駅です。西武球場正面(南側)に狭山山不動寺があり、その山門右手に「太田道灌御神木」と説明板があります。
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(御神木の説明板)
説明板にいう「御神木、この銀杏の大木は、江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城跡にあったものである。徳川時代から今日まで御神木として崇敬された。関東大震災の時は、大勢の人がこの大樹の下に寄って難をまぬかれ、神験のあらたかさを喧伝されたものです。その後区画整理の際、樹齢五百年のこの大木を切るに忍びず、当境内に移植して造化の神秘をしのぶよすがとし、社会科の教材として保存することにしたものです」
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(太田道灌の御神木・大銀杏)
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(御神木の幹)
狭山山不動寺は、埼玉県所沢市上山口にある天台宗別格本山の寺院です。山号は狭山山、寺号は不動寺、本尊は不動明王、埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られています。
1975年(昭和50年) 西武グループが各地にプリンスホテルを建設した際に、東京プリンスホテルの近くの芝増上寺をはじめ隣接する各地の文化財を、西武鉄道終点のこの地に集めました。そして西武鉄道が、当時のオーナーであった堤義明氏と親しかった寛永寺の助力を得て、天台宗別格本山として不動寺をこの地に建立し、集めた文化財を境内に設置しました。
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(不動寺の勅額門・)
不動寺にある文化財は次のようなものです。
勅額門=(ちょくがくもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。後水尾天皇の筆による『勅額』門とされ、国指定重要文化財です、
御成門=(おなりもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。
総門=長州藩主、毛利家の江戸屋敷に建てられた門で、素材はすべてケヤキです。
その他各地の由緒ある建造物やたくさんの石灯篭があります。
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(本堂と江戸時代の石灯篭)
さてところで、道灌の御神木の説明板にある「城山城跡」とはどこでしょうか。私は、いろいろな人に聞きまわり、ようやくわかってきました。
東京都港区の東京プリンスホテルの周辺には、亀塚公園、愛宕山、仙石山など太田道灌が出城を築いた場所がいくつかあります。仙石山には道灌の時代に、江戸城の出城として番神山城(太田道灌塁)が築かれ、その城域は現在の城山トラストタワーやホテルオークラのあたりまでつづいていたと思われます。城山を開発するとき、道灌の御神木と伝えられる樹齢500年の大銀杏は、伐採するには忍びがたく、プリンスホテル社長堤義明氏の英断で不動寺に移植されたもの思われます。堤氏は、とかくの非難を浴びながらも都市開発のため、その他多くの歴史的な建造物を所沢の田舎の寺の境内へ次々と移動させました。日本の高度成長時代の財界の巨魁の剛腕と財力には、唯々驚くばかりです。
おかげで、おそらくは道灌手植えの大銀杏は、都塵をはなれた静かな山里で、涼風に吹かれて蘇生し、年々美しい若芽を伸ばしています。不動寺の境内は広く起伏に富み、そこには一基の墓もなく祈祷所が一か所あるだけです。したがってそこはまるで文化財の展示場のようです。
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(東京プリンスホテルと東京タワー)
東京都の港区立郷土資料館で職員に訊くと「東京プリンスホテルができた頃に、多くの文化財等が所沢に移動されたことは承知しています。しかし当時は、東京オリンピック(1964年)もあったので、この地域の再開発のどさくさで、どれだけの文化財が移動されたかを記録にとってはありません」とのことであります。
所沢に移動された文化財等は、歴史的にまた美術的にも一見の価値があります。ここは、道灌の御神木の説明板にあるように、社会科の勉強のためにも一度は来るべきところです。

2018年06月06日

道灌紀行ニュース N0.11 

日暮里駅前に「山吹の花一枝」の像
東京都荒川区は、2018年5月23日(水)JR日暮里駅前に、荒川区ゆかりの武将太田道灌に山吹の枝を差し出す女性をモチーフにした「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)と題する女性の像を設置しました。同じ場所に、太田道灌の騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)が設置してあり、荒川区は新たな観光スポットとしてPRしたい考えです。
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(ほぼ等身大の「山吹の花一枝」像)
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(山吹の花一枝を持つ像)
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(台座の銘板)
「山吹の花一枝」の像は、彫刻家で荒川区顧問の平野千里氏が制作し、東京荒川ライオンズクラブより寄贈されました。
除幕式に出席した西川太一郎区長は「素晴らしい彫刻です。日暮里は成田空港からの便が良く、海外から多くの来客を見込めます。区の新たなシンボルになってほしい」と語りました。
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(説明板)
説明板には、太田道灌の山吹伝説、道灌略伝、道灌山や本行寺の道灌丘碑のことなどが記されています。
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 (制作者 平野千里)
平野千里氏は、1948年東京生まれ、彩色木彫の第一人者。1998年に荒川区ふるさと文化館の「芭蕉旅立ち」の像を制作。現在、荒川区顧問、荒川区地域振興公社理事、太平洋美術会理事、荒川区美術連盟顧問。
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(」「回天一枝「」の像、中央下方に「山吹の花一枝」の像)
「山吹の花一枝」の像は、太田道灌の騎馬像からやや離れたところに、山吹の花一枝をもって、道灌の方を見つめて立っています。その清楚な姿から、ほどなく道灌とのロマンス話が、まことしやかに伝えられるようになるでありましょう。どこから聞いたのか、この像を見にきて、写真を撮る人の姿が絶えません。
posted by otadoukan at 10:35| Comment(0) | 道灌紀行ニュース N.11

2018年06月01日

道灌愛用の「古天明霰釜」

さいたま市の大宮で東武野田線に乗り換えて、岩槻の一つ手前の七里(ななさと)で下車します。線路沿いに大和田方面へ10分も歩くと、曹洞宗の鷲嶽山大園寺(だいえんじ)という古刹にきます。駅から近いものの入り口がわかりにくいので、住民に訊かなければなりません。
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(大円寺)
大円寺の縁起によると、1525年(大永5年)、岩槻城主太田持資の曽孫太田資正の奥室、陽光院殿が開基となり、栄春禅師が開山となり、武蔵野の風渡野(ふっとの)台地に大円寺が建立されました。
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(大円寺法因縁起)
今年、5月24日、開基450回忌の法恩授戒會が行われ、これに因み3日間のみ特別に、太田道灌愛用の「古天明霰釜」が公開されました。私は、絶好のチャンスと思い、早速出かけて説明を聞き、写真を撮らせていただきました。
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(ガラスケースに入った道灌愛用の古天明霰釜)
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(同上、霰無地の茶釜)
寺の山門脇にあるさいたま市教育委員会の説明板にいう。
「さいたま市指定文化財工芸品
大円寺古天明霰釜(だいえんじこてんみょうあられがま)
大円寺は室町時代の創建で、その頃このあたりは岩槻太田氏の領地に組み入れられていました。太田氏と大円寺とのかかわりは深く、この窯は太田道灌が茶の湯に愛用していたと伝えられ、後に大円寺に寄贈されたものです。寄贈者は陽光院殿で、同寺に参詣するときは、この釜で茶をたて、道灌の位牌に供えたと言われています。
天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は室町時代後期までにつくられたものの総称です。西の芦屋、東の天明と言われ、茶の湯釜の双璧と称されました。
大円寺釜は古天明としてはめずらしく霰文(あられもん)ですが、他に文様を入れない霰無地で、その気品ある形とともに、古天明の味わいを持つ貴重な釜と言えます」。
太田道灌愛用の茶釜は、資家、資頼、資正と伝えられ、資正の奥室陽光院が所持していたものと思われます。
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2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
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(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。

2018年04月10日

「太田道灌状」の久下と久下氏

1.久下氏の出自
「太田道灌状」第24段にいわく「(前略)(文明11年)十二月十日金谷談所へ着陣仕り候処、忍城の雑説候由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下(くげ)へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候ば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」と。
*金谷談所=本庄市児玉町金谷の寺の学問所
*成田下総守=成田親泰、忍城主
 1479年(文明11年)12月に、道灌軍が陣を寄せた久下という所と国人領主久下氏を調べます。国道17号線を北上して熊谷市に入ると、中山道の久下という交差点にきます。そこを左折して荒川の方へ入った地域が久下です。
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治著)によると次のようです。私市(きさい)党の久下為家は大里郡久下村に住み久下氏の祖となりました。重家、則氏と伝えて代々久下太郎と称しました。則氏の二子憲重の子久下権守直光は石橋合戦以来源頼朝に従い、一の谷その他の戦いに参加して武功がありました。
2.久下氏の菩提寺・東竹院
熊谷市久下の曹洞宗東竹院久杉寺は、久下直光が開基した久下氏の菩提寺です。境内には「久下権守直光公 次郎重光公墓所」という墓標があり、その奥に2基の五輪塔があります。東竹院は久下次郎重光(法名は東竹院)が開基で、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基となりました。
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(墓所の標)
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(久下氏の墓所)
頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主久下重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けました。したがって久下氏の家紋も東竹院の家紋も「丸に横一文字」です。
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(東竹院の寺紋「丸に横一文字」は久下氏の家紋「一番」に因む)
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしています。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕ええました。
成田氏が熊谷市上之から忍(おし)へ来て忍城を堅固にして行田町を整備しました。成田氏は築城に際し近隣の一族、別府、玉の井、奈良氏はもちろん、酒巻、須賀、中條、久下、吉見の各氏の助力を得て、水路を開き、良田を整備し農地をひらき勢力を増しました。この頃、成田氏に雑説(謀反のうわさ)が起こったので、道灌は文明11年の年末に、久下館の近隣に陣を寄せて成田氏と会い、成田氏の成氏側への寝返りを防いだのでした。おそらくは道灌が久下氏を信頼していたので、その館近くに陣を取ったと思われます。
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(久下古城の荒川河川敷)
熊谷市教育委員会の郷土史編纂室によると、太田道灌が訪れた久下氏の居館の跡は、現在の東竹院からすこし南方の、荒川河川敷の中と思われるものの、発掘調査の結果は何も出なかった、ということであります。荒川は昔から名にし負う暴れ川であるので、私が「荒川の氾濫で遺構も遺物もすべて流されたかもしれませんね」と余計なことをいうと担当者は黙っていました。返事のしようがなかったのでしょう。
久下氏居館跡と推測される所は今、灌木が茂り野の花が咲き、風が通るだけのだだっ広い河川敷となっています。

2018年03月19日

太田資正の軍資金か

1.遺跡で大量の埋蔵銭(メディアの報道)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は9日、中世武士の館跡とされる同県蓮田市の「新井堀の内遺跡」から、大きな甕(かめ)に納められた埋蔵銭が見つかったと発表した。10万〜20数万枚の銭が入っていると想定され、1つの甕から見つかった量としては国内最大級という。銭のほかに墨で文字が書かれた木簡も見つかった14〜18日に熊谷市の県文化財収蔵施設で特別公開する。
 県道の建設工事に伴う事前の緊急発掘中に館跡の一角から出土した。15世紀前半に焼かれた「常滑焼」の大甕で容量は約280リットル。一定数の銭がひもでつづられた状態で納められ、石蓋が閉まっていた。甕の中からは墨で文字が書かれた木簡も見つかり、判明した文字から銭の枚数は約26万枚の可能性があるという。
 これまでに19種類の銭種を確認した。中国・明の「永楽通宝」が多いことから、同事業団は「最終的な埋設時期は少なくとも15世紀以降と考えられる」と指摘。さらに分析を進め、詳細を明らかにする方針だ。(日本経済新聞電子版2018/3/9)
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 (熊谷市の埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.特別公開「国内最大級の埋蔵銭」
 私は早速、埼玉県埋蔵文化財調査事業団へ出向き、この世紀の大発見物を見ることにしました。川越市より国道254号で北上し、柏崎という三叉路で国道407号に入り、しばらく走って東平で右折して県道66号に入ります。少し走ると「文化財調査事業団」の表示が見えます。事業団の門へは、次々と車が入って大盛況だったので、職員総出で来訪者を迎えてくれました。本棟とは別棟の展示場に、発掘された埋蔵銭の大甕と説明板がありました。
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(特別公開「国内最大級の埋蔵銭」と標示)
 「新井堀の内遺跡」(埼玉県蓮田市黒浜地内)で発見された大甕の埋蔵銭の量は国内最大級です。常滑焼の甕には精巧な蓋がつき、甕の中には、墨で書かれた木簡も発見されました
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(埋蔵金・ノーフラシュで撮影OK)
 中国製の銭はわらのひもを通され、ズシリと積み重なっています。現在甕は、掘り出されたままで、中の方がどうなっているかわからない、ということです。
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(甕を覆っていた蓋)
甕の蓋は、秩父の山から切り出したような、緑泥片岩でできています。
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(大甕をのぞき込む見学者)
このような埋蔵金をみると、見学者は必ず「現代のお金にするとどれくらいですか」と尋ねます。すると説明員は必ず、やや困惑した表情を見せます。中世の貫高制は変動相場制なので、使われた時と所でその値打ちは相当違ってくるからです。この日の説明員の答えは「当時の京都で、家2軒半を買える値打ちのようです」というものでした。私は「じゃあ、1憶円くらいですね」と横から口を出しました。しかし「これは20憶円くらいにはなりますよ」と言う人もいて、ロマンが広がります。
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(木簡の写真・右は赤外線写真)
 甕から出た木簡には「三」「いのとし」「二百六十」と書かれています。これは「3(月)」「いの(しし)年」「二百六十(貫)」の意味と説明されています。したがって古銭の束は、260個あると推測されています。
説明員からさらに面白い説明がありました。「今回の埋蔵金は、地下2メートルで発見されたが、その上に同様の二つの甕を掘り出して埋めた痕がありました。したがって『新井堀の内遺跡』には、三つの甕の埋蔵金があったに違いありません。舘の主はなにかの事情で一番深い所に埋めた一つを、忘れてしまったようです」という話でありました。
展示場でいただいた説明書には、次のように記されています。
「(埋蔵金が見つかった)『新井堀の内遺跡』の南東約52Kmには、太田氏が治めていた岩付城があります。また、谷を挟んで北東約1.8Kmには、江の埼城が位置しています。
 周辺には、いくつかの舘跡が分布しています。『新井堀の内遺跡』にあった舘の主が仕えていたとされる、太田資正は、1564年に岩付城を追われています。常陸の国に逃れ、城を奪い返そうとしましたが失敗に終わっています。そのため、『新井掘の内遺跡にあった舘跡』もその後、武士の舘としての役割を終えたと考えられます」。
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(発掘の様子を展示)
この説明書には、舘の主は岩槻城主太田資正(すけまさ)の家臣野口多門であったと伝わっているとし、「太田氏略系図」も添えられています。この埋蔵金が、太田資正の家臣野口多門が隠匿した、太田氏の軍資金であることが強く暗示されています。「岩槻巷談」によると、太田資正の配下に野口多門という足軽隊長がいました。
3.私の推測と石原太田氏の埋蔵金
1565年(永禄8年)太田道灌の曽孫・太田資正は、後北条方の陰謀に引っかかった長男氏資のクーデターにより岩槻城を追われ、常陸の佐竹氏の客将となりました。そのとき城内にいた足軽隊長野口多門は、城の藏から軍資金をもちだし、配下の足軽兵数十人に分散して持たせ、水濠に作ってあった秘密の浅瀬から脱出して野口舘へ運び、土中の甕に隠しました。多門は後に、大甕二つの軍資金を資正に届け、大甕1個の軍資金を後々のために土中に保管しておきました。資正は常陸で活躍したものの後北条方から岩槻城を取り戻せず、1591年(天正19年)片野城(石岡市)で69年間の波乱万丈の生涯を終えました。やがて多門も老いていわゆる認知症になり、軍資金のことは忘れて子孫にも伝えられませんでした。16世紀の武蔵でこれほどの軍資金を持てる実力者は、太田資正しか考えられません。
蓮田市「新井堀の内遺跡」の近くの五庵橋には、太田道灌手植えの松の子松と伝えられる見事な松があり、そのあたりは往時から太田家有縁の地域でした。
実は、このようなことが東京都調布市の石原太田氏の太田塚近くでもありました。1995年(平成5年)太田塚近くの道路工事現場から、壺に入った約1万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は唐銭でした。調布市立郷土博物館でその古銭の山を見て、私はびっくり仰天しました。近くに住んでいる石原太田氏の前当主は「あれはうちのものだが、証明する証拠がない」と語っていました。
4.40万個の埋蔵物・古代人のメッセージ
埋蔵銭の展示場を出ると、埋蔵文化財の展示場に案内されます。本館2階の展示場に入って、再びびっくりしました。この展示場のおびただしい数の収納ケースのなかに、40万個の土器や埴輪がぎっしりつまっていました。私は今まで、土器や埴輪は、博物館にあるだけと思っていました。それが大きな間違いであることに気づきました。埼玉県の各地に、昔からたくさんの人が住み、日常的にたくさんの土器をつくって使っていたのです。これらの様々な土器や埴輪を見ていると、それを作って使った人々の生活や性格や考えが想像されてきます。土器は古代人のレガシ―(遺産)でありメッセージでもあるからです。
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(収納ケースの埴輪)
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(同じものが二つとない土器の山)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員はみな、降って湧いたような突然の来訪者に戸惑いながらも、親切で一生懸命でした。なによりも有難かったのは、一般の博物館と違って、写真を撮り放題に取らせてくれたことです。
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2018年02月14日

道灌紀行ニュースNO.10 太田道灌イベント2題

1.講談「太田道灌」を聴く会(東京都北区赤羽・静勝寺)
2018年1月26日(金)東京都北区赤羽西の自得山静勝寺の本堂で講談「太田道灌」を聞く会が催されました。これは、江戸東京博物館友の会の「道灌倶楽部」の企画と静勝寺の協力で行われました。
まだ路傍に雪が残り、冷たい空っ風が吹く晴れた日に、一行約50名が赤羽駅に集まりました。最初に太田道灌が社殿を再興したと伝えられる赤羽八幡神社や道観山稲荷社などを見学し、稲付城址すなわち静勝寺の階段53段を上りました。
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(赤羽八幡神社)
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(静勝寺・道灌堂)
この日は、太田道灌の命日にちなむ26日であったので、静勝寺の道灌堂が開扉されていました。一行は、道灌堂の太田道灌像を参拝したあと、本堂に集まりました。最初に静勝寺の高崎住職より、太田道灌と静勝寺のゆかりについて解説がありました。ここは太田道灌の砦址で、道灌没後に道灌寺が建てられ、江戸時代には道灌の子孫の掛川城主太田資宗が境内を整備し、太田家の菩提寺となりました。
そのあと前座の田辺凌天につづき、真打田辺凌鶴の講談「太田道灌」が演ぜられました。これを聞けば太田道灌の一生がわかるという内容の熱演でした。
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     (真打田辺凌鶴)

2.講演会「太田道灌小机城を攻める」(横浜市鶴見区・鶴見川流域センター)
2018年2月12日(月)、横浜市の小机城址近くの鶴見川流域センターで「篠原城と緑を守る会」の企画で、講演会「太田道灌小机城を攻める」が行われました。この日もまた、冷たい風が吹きすさぶ好天の日でした。JR横浜線の小机駅から流域センターへ向かって歩いていると、往時はたしかにこのあたりは低湿地で、小机城の防御線になっていたことが実感できます。
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    (小机城址の空堀)
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   (鶴見川流域センター遠望)
流域センターは、鶴見川縁に立つ立派な公共施設です。この日の講演会には約50名が集まり、3人の講師が太田道灌と小机城を語りました。地元の研究者でなければわからない貴重な調査や面白い伝承が聞けて、貴重な研修でした。
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  (小机城をバックにしている案内書)
文明10年4月11日、太田道灌が小机城を攻めたとき、陣を張った亀の甲山とは正反対の方向にある篠原城を経由して、羽沢の硯松のあたりから一気に奇襲攻撃をかけたという説は、まことに興味深く新鮮なものでした。

2018年01月18日

道灌紀行ニュースNO.9

      「太田道灌と江戸」・国立公文書館の企画展、盛況
2018年1月13日(土)より3月10日(土)まで、東京都千代田区の国立公文書館で「企画展 太田道灌と江戸」が行われています。1月17日(水)には、イベントギャラリートークと称して、企画者の解説があったので、私は早速いってきました。
東京メトロの竹橋駅で降り、毎日新聞社側の地上に出るとすぐ竹橋があります。橋をわたって右側の東京国立近代美術館を過ぎると国立公文書館です。ちょうど江戸城の北はね橋門の前あたりです。
国立公文書館1階にコの字型の展示スペースがあり、その約半分が今回の展示スペースです。私が行ったときは、約100人の入館者が熱心に説明を聞きながら展示ケースの中に見入っていました。この日は解説日であったためか、予想外の大盛況でした。次回の解説日は、2月21日(水)です。この展示は、入場無料です。
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(国立公文書館)
解説の企画員は開口一番「最近、応仁の乱や享徳の乱の書物がベストセラーになっているので、それに呼応して、私たちも中世関東の戦国時代の幕開けに活躍した太田道灌の展示を企画しました、(趣意)」と語り、説明にはいりました。
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(企画員の解説を聞く来館者)
総計30点の文書が、次の4グループに分けられて展示・解説されています。
T道灌の誕生と伝説 
U道灌と関東の戦乱 
V道灌と江戸 
W戦乱の終結と晩年
その中には、普段聞くことのない珍しい道灌関連文書がいくつかありました。
「太田道灌兵書」(昌平坂学問所)というものを、私は初めて見ました。江戸時代のものだそうですが、30連戦無敗の太田道灌の兵書の現物を、私は日を改めて是非拝見したいと思っています。
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(太田資長書状写) 

この展示に関連して、2月1日(木)19:00、千代田区立図書文化館で「太田道灌と江戸」と題する江戸歴史講座が行われます。講師は、国立公文書館の上席公文書専門官である小宮山敏和氏です。詳細については、日比谷図書文化館のHPをご覧ください。
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2017年12月09日

太田資康の最期を追う

1.新井城址(三浦市)と衣笠城址(横須賀市)、三浦氏滅亡の地
三浦半島の国道134号を南下し、城ケ島の手前引橋のあたりで海岸へ向かうと有名な油壷があります。油壷湾と小網代湾の間の半島が新井城址です。新井城址二の丸址がマリンパークとなっています。本丸址の一番いい所には、東京大学臨海実験場の建物があり、門のところに「関係者以外の立ち入りを禁止する」と書いてあります。私は、実験場の事務所へ行って特別の許可を得て地図や資料もいただき、周辺の土塁と堀をしらべました。遺構はやや崩れてはいるものの、良好に残っています。
1513年(永正10年)三浦義同(よしあつ)、義意(よしおき)父子は北条早雲の軍勢に追われ、ついに最後の拠点新井城に籠城しました。このとき太田道灌の嫡男資康の一隊は、舅の三浦義同に加勢するために衣笠城のあたりで、圧倒的な大軍である北条軍と果敢に戦って敗れたと思われます。墓碑銘によると、資康45歳でありました。
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(衣笠城址・桜の名所)
新井城は海上に突き出たような要害であったので、さすがの北条軍も攻め込むことはできず、兵糧攻め作戦で包囲しつづけました。やがて三浦水軍の海上補給も絶たれ、城兵が3年間も籠城したあと終に新井城の兵糧は尽きました。1513年(永正13年)7月10日夜半に全城兵で酒宴を催し、翌日早暁に千数百人の城兵は全員切って出て激戦を繰り広げました。21歳の嫡男三浦義意は、羅刹の如く戦って北条兵を恐れさせたものの衆寡敵せず、三浦父子は自刃して名族三浦氏はここで滅亡しました。三浦氏の墓は、二の丸址にあります。
新井城址の土塁を静かに歩くと、今も城兵の壮烈と悲愁の気がただよい、戦国の栄枯盛衰の非情に打たれます。「落城を前に、城中の7人が夜中に小舟で脱出したそうです。その人たちの子孫が先日ここへきました」と臨海実験場の職員が語っていました。おそらくはその人たちが、衣笠城近くの大明寺に、武運拙く討ち死にした太田資康の墓を建てたのでありましょう。衣笠城址は衣笠駅から徒歩20分です。

2.大明寺(横須賀市)、太田資康の墓
 JR横須賀線の衣笠駅から三浦学園という学校を目指して10分も歩くと、学校のとなりに金谷山大明寺という日蓮宗の古刹があります。参道を上ると広い境内に本堂や日蓮像があります。
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(大明寺境内)
本堂裏手の墓域には太田資康の墓という標示があり、その場所はすぐにわかります。広い墓所に五輪塔が立ち、そばに墓碑銘があります。となりに土まんじゅうと碑が立っています。
寺の由緒に次のように記されています。「(前略)寺内の裏山には、太田道灌の子、太田資康の墓であるといわれる土まんじゅうがあります。太田資康は、三浦道寸義同の娘を妻としていましたので、三浦氏が北条早雲に攻められたとき、途中で北条軍を迎え撃って戦死しました。永正10年(1513)9月29日のことです」。
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(案内板)
「墓碑銘」にいわく「五輪の塔墓誌 太田資康の墓 江戸城主太田道灌の嫡子、源六郎資康法名法恩斉、日恵、妻は相模の三浦義同(道寸)の娘。永正十年(一五九三)北条早雲の軍と戦い九月二十九日討ち死にした。大明寺に葬られた。元服の年を文明十年(一四七八)とすると四十五歳であったと推定される。三浦義村の末孫・三浦重一の妻 三浦妙光 八十歳」と。
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(墓碑銘)
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(太田資康の五輪塔)
 「太田家記」(1714年)にいう「三浦大明寺は御葬送、是は三浦党御縁者故、尊骸を江戸まで送らずして、其の所に於て葬たるものなり」と。
大明寺の住職の話によると、この寺は明治初年に火災に会って文書を全て焼失したので、太田資康にかかわる記録は全く無くて伝承のみが伝えられているとのことであります。
太田資康の最期については異説があります。「太田家記」には、立川原合戦での戦死説も併記してあり、「赤城神社年代記録」には「1498年(明応7年)太田源六生涯」とあります。太田資康の墓があるのは、大明寺のみです。

3.女子(おなご)は門を開く
 古諺に「女子は門を開く」とあります。昔は系図に名も残らぬ女性が、実は人のネットワークを広げて一家一族繁栄の要となるということです。
太田資康の曽孫於勝の方は、徳川家康の側室となり一子を設けたものの夭折したため、家康の側室於万の方が生んだ第11子頼房の養母となりました。そして頼房は水戸徳川家の祖となり、於勝は英勝院と号して英勝寺の開基となりました。於勝の甥太田正重は水戸徳川家家老として、もう一人の甥大田資宗は掛川城主五万三千石として栄えました。
一方於万の方は安房勝浦城主の正木氏の娘であり、正木氏の祖は三浦義意の弟時綱と伝えられています。於万が生んだ、家康の第10子頼宣は紀州徳川家の祖となり、於万は養珠院と号し、その実兄三浦為春は紀州徳川家家老として栄えました。
太田道灌と三浦道寸の絆が、連綿として江戸時代まで続き、女子が一族繁栄の要となっている感がします。
posted by otadoukan at 16:47| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2017年10月17日

道灌紀行ニュース NO.8

    川越まつりと伊勢原観光道灌まつりの太田道灌
2017年10月14日(土)と15日(日)の両日に、川越まつりと伊勢原観光道灌まつりが同時に行われました。私は、14日に川越を、15日に伊勢原を訪れてまつりを楽しみました。両日とも空模様はあいにくで、一部行事が中止になったものの大勢の老若男女が押しかけて大賑わいでありました。

川越まつりは、1646年(慶安元年)川越城主松平信綱の時代に始まった伝統的なまつりで、ユネスコ文化遺産に指定されています。
14日(土)、川越市連雀町の大田道灌の山車は、覆いをかけたまま会所前で止まり、晴天を待っていました。曳っかわせのとき、山車の囃子台では、笛、太鼓、鉦で天狐が踊りつづけていました。貴重な山車と人形を、雨で濡らすわけにはいきません。多くのファンが待ち続けたものの、この日終に空は晴れず、道灌さんは立ち上がることができませんでした。
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 (覆いをかけた大田道灌山車)
参考に昨年の川越まつりの道灌山車と道灌さんの写真を掲載します。
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残念がった道灌ファンの観光客は、祭り会館へ行って別の太田道灌人形を見て心を慰めました。 
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 (祭り会館の道灌さん)

第50回伊勢原観光道灌まつりでは、伊勢原駅周辺の各地で、数多くのイベントが行われました。
15(日)日には、天候が心配であったものの、辛うじて太田道灌鷹狩り行列が実施され、俳優の北村有起哉演ずる太田道灌と高野志穂演ずる北条政子がパレードを行い、最終地点まつり広場の舞台の紹介式に登場しました。北村有起哉は太田道灌の子孫でもあるので、黒岩神奈川県知事など多くの来賓が駆けつけ大いに盛り上がりました。  
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 (太田道灌・北村有起哉と北条政子・高野志穂、左は高山伊勢原市長)
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 (トークショーの北村有起哉と高野志穂夫妻)
★北村有起哉プロフィール
1974年生まれ、東京都出身。98年舞台「春のめざめ」映画「カンゾー先生」でデビュー。その後、各種の賞を多数授賞。映画「太陽の蓋」で初主演。出演作は舞台「道元の冒険」映画「関ケ原」など多数。2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」大山格之助で出演予定。
☆高野志穂プロフィール
1979年生まれ、東京都出身。幼少女期をバーレーン、シンガポール。ロンドンで過ごす。2002年、NHK朝の連続ドラマ「さくら」でデビュー。以後、数々のテレビドラマ、映画、舞台、コマーシャルにし出演。映画「Music Of My Life」が今秋公開予定。
(佐藤哲男さんから写真の提供を受けました。)
posted by otadoukan at 08:21| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.8

2017年09月28日

道灌軍と戦った村山党金子氏の故地 

本年9月24日に私は、武蔵村山市民会館での郷土史講演会で太田道灌と村山の陣について話をさせていただきました。その際、参加者の中に金子さんという方がおられて、終了後に懇談をしました。私はふと気が付いて「もしや、太田道灌が村山の陣から奥三保へ攻め込んだとき戦った、小沢城(愛川町)の金子掃部助の子孫ですか」ときくと「そうです」とおっしゃったので、いっそう話が弾みました。金子氏は、この地で「武士団村山党の会」の甲冑隊のリーダーとして活躍されています。
後日私には、太田道灌に二度も小沢城攻めをさせた、景春与党の勇猛な金子一族の出自と故地を調べてみようという気が、急に強く湧いてきたのであります。「武蔵武士」(渡辺世裕・八代国治 著)の中に「(村山党の金子氏は)武勇を以って最も著はる。(中略)各地に転戦して軍功多し」と記されています。

1.武蔵武士村山党のふるさと
旧青梅街道を西へ走り、武蔵村山市を過ぎて瑞穂町にはいるとすぐに殿ヶ谷というところへきます。そのあたりで山側へ右折すると村山氏の菩提寺福正寺という古刹があります。福正寺には村山一族の墓があり、村山土佐守の位牌があります。福正寺の近くに玉林寺公園があり、その中に村山土佐守の銅像が立っています。土佐守は笠をかぶっているので、残念ながら表情は見えないものの、はるか遠くを指さしてなにかを見つめています。台座の説明板に次のように記されています。
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(村山土佐守の像・玉林寺公園)
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(福正寺本堂)
     村山土佐守
平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任(よりとう)を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山市最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
 この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。  
      平成25年3月吉日      瑞穂町
『新編武蔵国風土記稿』(1830年)には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とあります。

2.金子氏の本貫地
JR八高線の拝島より電車に乗ると、二つめが金子駅(埼玉県入間市)です。瑞穂町からは車で15分も走ると隣接する入間市の金子につきます。このあたりは、村山党金子氏の本貫地で、今も町を歩くと狭山茶の看板と「金子〇〇」の看板がいたるところで目につき、今も金子一族が住んでいることがわかります。
金子駅から、車で5分も行くと金子氏の居館跡すなわち金龍山木蓮寺瑞泉禅寺跡があり、丘の中腹に金子氏の先祖墓があります。
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(金子十郎家忠の墓碑)
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(金子一族墓所)
村山頼任の孫家範は平安時代末より入間郡金子村を本貫地とし、金子十郎を名乗りました。家範の子家忠は、保元の乱、平治の乱で活躍しました。その後金子氏は、武蔵国の国人として山内上杉氏に属しました。

3.勇猛な金子一族に道灌軍も大苦戦
1477年(文明9年)3月、金子掃部助(かもんのすけ)が長尾景春に与して相模国小沢城(愛川町)に籠り、上杉方の太田道灌と戦いました。山内上杉氏に従っていた金子氏は、長尾景春が白井長尾氏の嫡流でその父祖、景信、景仲に恩顧があったので、景春に味方して道灌軍と戦いました。
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(相模川縁の小沢城址)
小沢城は相模川縁の絶壁の上にある要害であったので、城を囲んだ道灌軍は大苦戦をし、一か月後の4月18日にようやく落城させました。しかしながら道灌軍が移動すると、金子勢は再び小沢城を占拠し、翌年の4月に道灌軍が小机城をせめたとき後詰めとして背後を脅かしました。小机城落城とともに小沢城は、再び自落しました。そしてさらに翌年1478年(文明10年)道灌軍が相模の奥三保をせめたとき、金子勢は三度太田資忠軍の行く手に立ちはだかりしぶとく抵抗したもののやがて敗れました。けだし金子氏は、多摩の国人衆として各地に転戦し、最も顕著な武勇を著わし続けた、なにし負う武蔵武士村山党の一族でありました。

2017年08月04日

道灌紀行ニュース NO.7

   大河ドラマを目指す「道灌の集い」(伊勢原市)
2017年7月22日、伊勢原市民文化会館で「第18回太田道灌の集い」が開催され、約800人が参加しました。午前には「道灌サミット」が開催され、太田道灌大河ドラマ実現を目指す各自治体(千代田区、荒川区、伊勢原市、川越市、越生町等)の代表者が参加し、挨拶と報告がありました。午後には、大ホールで「道灌の集い」が賑々しく開催されました。
第1部:
文化発表、伊勢原甲冑隊のパフォーマンス、小倉恵子さんの「ああ太田道灌」熱唱等。
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   (伊勢原甲冑隊のパフォーマンス)
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   (花手毬)
第 2部:
式典、高山伊勢原市長等の挨拶、三上会長よりの、さる7月11日太田道灌大河ドラマ!推進実行委員会がNHKを訪れ、11万151筆を提出して陳情したことなどの報告等。
第 3部:
松沢成文さんの講演「大河ドラマへ!江戸城天守再建の展望」と三遊亭遊吉さんの落語。
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  (講演する松沢成文さん)
最後は、山口甲冑隊長の音頭で「大河ドラマをみんなで頑張ろう」と勝どきをして終わりました。
(写真は、伊勢原観光ボランティア&ウォーク協会HPより転載)
  

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2017年07月25日

伊勢原の立原(たてっぱら)探訪

1.地名に秘められた歴史
伊勢原市上粕谷の産業能率大学の周辺を土地の人は「たてっぱら」と呼び、そこには気になる地相と地名がたくさんあります。元々このあたりは、古代人の遺跡や上杉舘があったところといわれ、産能大学のキャンパスの説明板には「この地はかつて扇谷上杉氏の館があった地であり、太田道灌が非業の最期を遂げた所である」と記されています。しかしこの広大かつ複雑な形状の台地原には、なにかもっといろいろな歴史が秘められているような気がして、以前より私は気にかけていました。ときあたかも、新東名高速道路の建設がこの台地に進み、巨大な橋げたが方々に見えはじめています。この地の歴史を今のうちに、しっかり調べておかなければ、開発が進んで史跡は破壊され、その痕跡も消えてしまうにちがいありません。
変貌する立原.JPG    
   (変貌する立原)
ちょうど今年7月5日、伊勢原観光ボランティアガイド&ウォーク協会の企画で「太田道灌コース、道灌ゆかりの史跡、上杉舘をめぐる」という史跡探訪ツアーが行われました。しかも案内人は、この地を隅々まで知り尽くしている、地元の山口氏でありました。私は、絶好のチャンスと思ってツアーに参加し、山口氏から懇切な説明をうけました。地名等はいずれも、今も残っていて使われている名称です。地名は埋蔵物と同様に、歴史を語る証拠です。
@五霊神社(スタート地点)
道灌没後1494年(明応3年)に北条早雲が、旧友であった道灌の菩提を弔うため、家臣の山田伊賀守に命じ、道灌の冑を五霊神社に納め、太田三徳命として合祀しました。三徳とは、智、仁、勇です。山田伊賀守の子孫は今も隣接地に住み、庭にご先祖の供養塔があります。
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  (出発地の五霊神社)
五霊神社から、大山道を通って東へ行くと、立原の台地へきます。
A西の大手門跡
立原の台地は、北西が山地につづき、他の三方は急に谷となり、自然の城塞となっています。ここは西の上り口で、上杉舘の大手門と推定されています。
西の大手門跡.JPG   
    (西の大手門跡の道祖神)
B打出(うちで)
太田道灌の足軽隊が出撃する前に、駐屯した所と考えられます。1477年(文明9年)3月18日に、道灌の足軽隊は、ここから出撃して溝呂木城、小磯城、小沢城を攻略したと思われます。道灌は、相州勢を率いて、当初豊島氏を攻める予定であったものの、大雨で多摩川や相模川が越えられなくなったので、急遽作戦を変更し、相模の3城攻略に向かったのです。
打出.JPG  
   (打出・足軽隊の駐屯地))
「太田道灌状」第11段にいわく「相州勢を密つ密つ途中へ召し越し、3月24日(豊島氏を)夜詰め致すべくてあて候之処、大雨降り候て、多破河調議相違せしめ候」と。
C大門跡
大門の周囲には、土塁がせりあがり、一応の防備となっています。今「大門跡」の石碑は、椎の古木の陰にあります。ちなみに秩父市上影森の上杉氏の大森御陣跡にも、「大門町」「神(陣)原」という地名が残っています。
大門跡.JPG
(大門跡の土塁)
D的場(まとば)
立原の東側の小字は的場です。往時ここで、道灌の足軽隊は弓の訓練をしたと思われます。道灌の心友万里集九は「梅花無尽蔵」(1508年)の中で、江戸城の足軽訓練について「弓場を築く、毎日幕下の士数百人を駆りその弓手を試む、上中下に分かつ、その令甚だ厳なり」と記しました。
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(的場、足軽隊の訓練場)
E立原(舘原)(たてっぱら)
立原とは、柳田国男の「地名の研究」によると、尾根の先の平地のことで、その地名は方々にあります。伊勢原の立原は東西約1000メートル南北約500メートル(甲子園球場38個分)です。その平地の北端の段丘に上杉舘があったので、舘原とも記されました。
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    (立原、かなたに産能大)
F上杉舘址(産能大学)
ここは、上杉氏の根小屋すなわち平時における居住地があったところと思われます。三段丘の上であるので見晴らしもよく、領主の舘の地としてふさわしい所です。現在は、産能大学の校舎が林立しています。
23章:上杉館址に建つ産業能率大学.JPG
    (上杉舘址・産能大学)
G馬防口(ませぐち)
産能大学の裏、県道の北側一帯を土地の人は「ませぐち」と呼んでいます。上杉舘のからめ手口と推測されます。
H湯殿入り
産能大学の北側の谷をさかのぼった、秋山川源流地点のことです。湯殿とは普通、浴室のことです。なぜ、こんな名前がついたのかよくわかりません。
I千石せき
上杉舘が攻撃を受けたとき、巨大な空堀に水を通すための水路で、その後、灌漑用水として利用されました。
J空堀
自然の谷に人手を加えた巨大な防御施設であり、今は、堀の底が産能大学のテニスコートや洋弓場となっています。
空堀.JPG   
    (空堀の発掘調査)
K洞昌院・道灌の墓(ゴール地点)
空堀から山王神社と七人塚を過ぎ、ゴール地点、洞昌院の道灌墓所にきて少々驚きました。道路際の樹木は、治安維持のためすべて伐採され、墓域はあっけらかんとした雰囲気になっていました。
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 (洞昌院・道灌墓所での説明)

2.私の大胆な推測・太田舘の所在地
1351年(観応2年)扇谷上杉藤成が相模糟屋庄の政所の職にあったことが確認されます(円覚寺文書)。また太田道真が光明寺(相模原市)に出した文書の封紙に「かすやより東しん」とあります。したがって、扇谷上杉氏も家宰の太田氏もまた糟屋庄に舘を持っていたと思われます。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられています。扇谷家の家宰・相模守護代であった太田道真も、時により糟屋で政務をとったと思われます。現在は、上粕谷と下糟屋「かすや」の漢字が違っているものの土地の古老に聞くと、往時はどちらも「糟屋」の文字であったそうです。
大手門とか大門という地名が残っていることは、この地に武将の舘があったということです。そして打出とか的場という地名があるということは、この地に軍勢が駐屯し、軍事訓練を受け、時に出撃したということです。
それにしてもこの広大な高台は不思議なところです。要塞状の高台とはいえ戦闘の城というほどの厳しい防備はありません。どちらかというと、ゆるい防備を備えた、いわゆる根小屋と称する、平時の居住地のようです。そしてなお風変わりなことは、的場のような兵の訓練場や打出のような兵の駐屯地があることです。
私の大胆な推測としては、今の産能大学のキャンパスの地には、相模守護上杉氏の根小屋があり、立原と的場の境には守護代太田氏の根小屋があり、的場は道灌の足軽隊の弓の訓練場であったということです。上杉氏と太田氏によりこの広い立原の高台は、多目的に活用されたと考えるべきです。そして厳しい戦闘が予想される場合は、防備が固い相模守護所すなわち丸山城へ立て籠もったと考えられます。 
発掘調査現場.JPG
  (立原の発掘調査現場)
現在、新東名の工事予定地数か所で、大規模な発掘調査が行われています。このあたりの台地は、南向きの山の根で湧き水もあるので、古代から条件の良い居住地でありました。発掘現場から何が出るかはこれからのお楽しみです。太田氏の舘の遺構などが出るのではないか、と私は期待しています。

2017年06月02日

下総の八幡と天神

関八州には、太田道灌ゆかりといわれる神社仏閣が、私が現在掌握しているだけで107か所あります。古文書に明記されている場合あるいは寺社自らの由緒書きにその旨記されている場合に、道灌ゆかりとしてカウントしています。歴史的事実は定かではないものの、文化人類学的にはたいへん面白いことです。おそらくは道灌が、民衆に人気があったので、寺社の格を上げるため道灌ゆかりとしたこともあったと思います。今回は、市川市の八幡と天神を訪問します。
◎太田道灌修復の葛飾八幡宮
日暮里駅で京成本線に乗ると、約20分で京成八幡駅につきます。駅から線路に沿って約100メートルも東へ歩くと左側に葛飾八幡宮の鳥居が見えます。広い境内の随神門を経て直進すると、奥に本殿があり「下総国総鎮守葛飾八幡宮の御由緒」が記されています。
総鎮守とは、俗な表現をすると神社の総元締めみたいなもので、境内を歩いてもなんとなくその威勢を感じます。1479年(文明11)に道灌はまずここで、源氏の氏神たる八幡へ戦勝祈願をして千葉氏との激戦へ臨みました。
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  (随神門)
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  (本殿)
境内にある市川市教育委員会の説明板に、この神社の歴史がわかりやすく記されているので、その説明文の前半を以下に転載します。
「寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自らも参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には、千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。
また文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行いました。さらに天正11年(1591)徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。
明治維新の神仏分離の時までは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は、往時を物語る貴重な遺物です。
また、山門には、仁王像が行徳の徳願寺に移されて、その後に左右両大臣が置かれ、随神門と呼ばれるようになりました。この随神門は、市指定有形文化財です。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また。寛政5年(1793)に発掘された、元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定有形文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます(後略)」
「江戸名所図会」(1836)にも、葛飾八幡宮として、海辺から本殿への長い参道が描かれています。
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  (千本公孫樹)
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  (鐘楼)
境内の鐘楼を見ると、神仏習合の証拠を見たような気がします。また当宮の祭礼は9月15日から6日間行われ、俗に「八幡のボロ市」とよばれる農具市が立ちます。
17世紀頃、下総と武蔵に葛飾郡があり、現在のJR総武線と京成線の間の県境近辺に、葛飾の地名は方々に残っています。

◎白幡天神社と永井荷風の歌碑
葛飾天満宮から北西へ10分も歩くと、白幡天神社へきます。神社の御由緒によると当宮の創建と歴史はやや不詳であるものの、1180年(治承4)源頼朝がここで白旗を立て、その後太田道灌が社殿を造営したといわれています。境内は静かで、清浄の気が満ちています。
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   (白幡天神社)
道灌ゆかりのこととともに、私の関心を強くひいたのは、境内の永井荷風の歌碑です、いわく、
「松しげる 生垣つづき花飾る 菅野はげにも 美しき里
白幡天神祠畔の休茶屋にて
牛乳を飲む 帰途り緑陰の
生垣を歩みつつユーゴーの詩を詠む
砂道半にして 人来らず
唯馬語の欣々たるを聞くのみ」     (断腸亭日乗)
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   (長井荷風の歌碑)
歌碑中央の永井荷風の文字は、荷風の揮毫と思われます。菅野とはここの地名です。荷風が寄ったのはどんな茶屋だったのだろうか、荷風はユーゴーのどんな詩を詠んでいたのだろうか、おそらくはフランス語の原語で読んでいただろう、馬の鳴き声を馬語とは、荷風はおそらく馬の鳴き声を言語と解したのだろう、などといろいろ思いをめぐらして面白くなります。「断腸亭日乗」とは荷風の日記です。荷風は1957年78歳で、現在の市川市八幡三丁目に転居し、そこが彼の終の棲家となりました。永井荷風に関心を持つ人は、ここへ来るべきでしょう。
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2017年04月07日

伊奈町の道灌子孫・平川氏

太田源三郎資行
埼玉県の川越市より北東へ車で小一時間走り、国道17号線を越えると伊奈町へきます。伊奈町内宿台で近所の人に平川家を尋ねると、立派な門構えの家を指さしてご大尽と呼んでいました。平川家の蔵の隣に、小針村平川家碑識と称される石碑と供養碑があります。この碑は、平河家13代の平川大作氏が、明治17年に建立したものです。その碑識の碑文によると、平川氏の先祖は、備中ノ守太田持資入道道灌でその子資行(1486年〜1574年)は北条氏の臣下となり、川越夜戦で戦うなどして戦功をあげたものの、後に小針村に帰農しました。資行は「平川城(江戸城)は、かつて我が住したる故郷なり、よってこれを姓にする」として、平川氏をなのって家紋を桔梗から剣酢漿草(けんかたばみ)に変えました。
「岩槻市史」によると、資行の嫡男資吉は岩槻城の北条(太田)氏房の家臣となり、小田原落城後に氏房とともに高野山へ赴きました。その後資吉は、氏房にしたがい朝鮮出兵のため肥前唐津の名護屋城に移ったものの、氏資が在陣中に病没したため小針村に帰りました。そのとき、ともに名護屋城へ赴いた太田一族の中の太田資長、資重兄弟等が、肥前嬉野に残って帰農し、今日の嬉野太田一族となったと私は推測しています。徳川の世となってから嬉野太田は、豊臣の配下にいたことを隠すため、その出自を語らなくなったものと思われます。
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(平川家碑識と供養碑・右)
その後も小針村の平川資吉の血筋は連綿として続き、江戸時代には名主、地頭用人として苗字帯刀と居宅門構えを許され、明治以降は戸長や村会議長などをつとめてきました。平川家の蔵には、源三郎資行の自筆の詩書、腰刀一振り、馬の鞍一個や1742点の平川家文書(江戸時代のもの)が所蔵されていましたが、今は埼玉県立文書館等へ寄託しているのことです。
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(平川家の門構え)
また平川信行氏の平成22年の詳述によると、太田資行の母つまり道灌の妻は、斉藤小四郎基行の娘とされています。その妻の実家斉藤家が道灌の軍師斉藤新左衛門安元あるいは道灌松を持つ蓮田市の斉藤家となにか関係があるかどうかはわかりません。
またこの碑識に記されている太田資行は、生年から考えて上州の吾妻郡の中澤家にかかわる太田資行と同一人物ではないと思われます。
平川家の供養碑には、浄慶禅定門(太田資行)天正二年三月十八日と妙旅禅尼(資行の母)天正二年十月二十九日などが記されています。

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2017年03月29日

太田道灌コーナー(東京国際フォーラム)《道灌紀行ニュース NO.6》

   東京国際フォーラムに太田道灌コーナー(千代田区)
東京国際フォーラムのガラス棟の太田道灌銅像前に、太田道灌コーナーが開設され、3月28日(火)10時30分より除幕式が行われました。席上、東京国際フォーラムの上條清文社長、太田道灌顕彰会の太田資暁理事長等がテープカットを行い、上條氏、太田氏から挨拶がありました。
朝倉文夫氏制作の太田道灌銅像前に、「太田道灌のプロフィール」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「道灌の戦績とその後」と題する日英両語の解説版と「12体の太田道灌銅像写真」のパネル版が設置されました。また中央には「江戸城(寛永度)天守閣」の模型も置かれています。
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(挨拶する太田理事長)
和英文解説.JPG
(太田道灌のプロフィール)
道灌の足跡.JPG
(説明版は日英両語)
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(各地の太田道灌銅像12体の写真)
これらのパネル版は、国内外の観光客のため、恒常的に設置されています。
東京国際フォーラムは、JR山手線の有楽町駅より徒歩1分です。