2019年11月03日

道灌紀行ニュースNO.15 あらかわと太田道灌(企画展)

2019年11月2日(土)東京都荒川区の荒川ふるさと文化館で、荒川区と荒川区教育委員会主催の企画展「あらかわと太田道灌」がオープンしました。
JR山手線の日暮里駅から常磐線で二つ目が南千住(みなみせんじゅ)です。駅の西口から出ると、俳聖松尾芭蕉の矢立初めの銅像が迎えてくれます。1689年(元禄2年)芭蕉はここから奥の細道の旅に出発しました。
         行はるや鳥啼うおの目ハ泪  
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(南千住駅前の松尾芭蕉像)
駅ロータリーから、コミュニティバスさくらの左回りに乗ると二つ目が、荒川ふるさと文化館です。
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(荒川ふるさと文化館の入り口)
企画展「あらかわと太田道灌」の内容は、
「序.道灌の肖像、
1.道灌の時代、
2.あらかわに息づく道灌」
の三つのエリアに分かれています。
荒川区には、道灌山、本行寺、山吹の里、石浜神社、道灌の歌友木戸孝範、万里集九有縁の地などの道灌史跡、伝承地とともに、回天一枝の道灌像、山吹の女の像など見どころがたくさんあります。したがって、この地特有の展示物や写真が多数展示されていて見ごたえがあります。私は、地元の大行寺の道灌の鰐口を、はじめて拝見し、長年の願いが叶い大いに喜びました。
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(大行寺の鰐口・図録より)

入場料が100円で、立派な企画展図録が500円以下という破格のサービスも特筆すべきです。講演会も行われます。
この企画展「あらかわと太田道灌」は12月1日(日)まで開催されていますので、ご来館をお勧めします。
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(企画展と道灌まつりのチラシ

追記
11月9日(土)には、JR日暮里駅前で昨年に続き「日暮里道灌まつり」が開かれ、道灌ゆかりの地域の店舗による物販とPR、ステージイベントなどがにぎやかに行われました。
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(伊勢原市の手作り甲冑隊と武蔵村山市の武士団村山党の共同パフォーマンス)

2019年10月06日

心敬塚の記念碑、伊勢原市三ノ宮に建立

今年10月5日、6日には、第52回伊勢原観光道灌まつりが開催され、初日には上粕屋の洞昌院で太田道灌の墓前祭が行われました。洞昌院の道灌墓所の歌碑に「雲もなほ さだめある世の しぐれ哉 心敬」とあります。墓前祭終了後に私は太田資暁氏と、伊勢原市三の宮の心敬塚へ向かいました。連歌師心敬は道灌が主催した『武州江戸歌合わせ』の判者でありました。
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(伊勢原観光道灌まつり・甲冑試着コーナー)
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(洞昌院・太田道灌墓所の心敬歌碑)
洞昌院の道灌墓所から西へ向かい、大山道を横切って山王中学校の前を進みます。県道612号線で右折し、すぐ消防署の手前で左折します。大山川(鈴川)を渡りすぐ右折して田舎道をのぼります。道なりに200メートルも進むと丘の上に、真新しい心敬塚の記念碑が立っています。この碑は、最近建立されたばかりのためか、伊勢原市の観光地図にも道の記載がなく、道案内板など全くありません。私たちはここまでくるのに、野菜売りのおばさんなど地元の人に何回も尋ねながらようやくたどり着きました。
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(心敬塚から江ノ島方面を望む)
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(背後の大山山塊)
この丘から南東方面には伊勢原市が俯瞰でき、その向こうには江ノ島が見え、背後に大山がそびえています。それは、ここまでたどり着いた苦労が吹き飛ぶような絶景でした。心敬が、ここに住み着いて生涯を終えた理由の一つがわかったような気がしました。
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(心敬塚の記念碑)
心敬の生涯と太田道灌とのかかわりについては、この塚の説明文に簡にして要を得て記されていますので、その全文を掲載させていただきます。
「連歌中興の祖といわれる心敬は、応永13年(1406)紀伊国に生まれた。幼少のころに出家し、京都東山の十住心院の住持となり、後に権大僧都に至った。正徹(しょうてつ)に和歌を師事し『ささめごと』『老いのくりごと』『心玉集』『心敬僧都百句』『芝草』などの著作を残した。連歌七賢の一人で弟子に宗祇がいる。
応仁の乱を避け、関東へ下向し、太田道真・道灌父子と親交を結んだ。文明3年(1471)夏、大山山麓の浄業寺に身を寄せ、同6年に江戸城で開かれた道灌主催の『武州江戸歌合せ』の判者を務めた。翌7年4月16日に当地石蔵(いしくら)にて没した。享年70歳。
当地では、心敬が『遠海を 緑によする 夏野かな』を読んだとされる。
大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都や故郷を偲んだのであろうか。地元では古くからこの丘を心敬塚と呼び、心敬を祀る地として手厚く護持している。
平成31年3月16日
(英文説明、略)
「伊勢原市歴史文化を生かした地域作り協議会」

心敬の墓所は、北東下方約200メートルの浄業寺にあったとの伝承があります。

2019年08月27日

掛川太田氏と妙法華寺

箱根峠を越えて
東京の新宿から小田急ロマンスカーに乗ると、約1時間で小田原に着きます。小田原駅近くでレンタカーを借りて、国道1号線で箱根の山を登りました。土木遺産の函嶺洞門など、箱根駅伝でなじみ深い地名が次々と出てきます。元箱根を通り、箱根峠から1号線で三島市を目指して山を下ります。ほどなく山中城址へくるのでこの辺で、ナビに妙法華寺を入れます。山裾のやや複雑な田舎道を案内されて、30分くらいで静岡県三島市玉沢の妙法華寺境内に着きました。JR三島駅からは、1時間に1本くらいの妙法華寺行きの定期バスが出ているそうです。
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   (玉澤妙法華寺)
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   (寺の由緒書き)

掛川太田氏の菩提寺
この寺は、日蓮宗の経王山妙法華寺と称し、1284年(弘安7年)に日蓮大聖人の六老僧の一人日昭が鎌倉の海浜玉澤(現材木町)に建立しました。鎌倉の戦乱を避けるため越後村田(長岡市)、伊豆加殿(伊豆市)を経て、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転、広大なその地を玉澤と改称しました。
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(玉澤道場)
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(日蓮大聖人像と開目抄の碑)
この寺の由緒書きに次のように記されています。
「寛永二年九月徳川二代将軍秀忠公より約五十万坪の寺域を御朱印地として寄進され、家康公の側室にして紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母、光圀公の祖母、養珠院お萬の方並びに英勝院お勝の方、及び太田道灌家の五代道顯公等の絶大な資援により大伽藍玉澤道場が竣工したのである。(抜粋)」

玉澤道場からすこし離れた玉澤霊園の奥に、掛川太田家霊廟があり、掛川藩の初代藩主太田資俊(すけとし)、二代藩主資愛(すけよし)、三代藩主資順(すけのぶ)、四代藩主資言(すけとき)、五代藩主資始(すけもと)、六代藩主資功(すけかつ)、七代藩主資美(すけよし)等の墓があります。
妙法華寺の由緒書きに記された「太田道灌公五代の道顯公」とは、英勝院お勝の方の兄太田重正のことであると思われます。重正の墓もまた妙法華寺にあります。

安定する掛川藩
太田道灌五代の子孫太田重正は徳川家康から召し出され、妹のお勝(英勝院)は家康の側室となり、息子の資宗は徳川家に仕え、その子孫資俊は1746年(延享3年)に掛川城主となり掛川藩五万石の祖となりました。掛川藩は、太田家代々の藩主の努力により藩政が安定し、幕閣へ老中、大阪城代、京都所司代などの人材を輩出しました。
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(掛川城)
三島市より東海道線で西へ移動すると静岡県掛川市へ至り、駅近くに掛川城址があり、掛川太田氏の多くの史料と史跡を見学できます。
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2019年07月23日

太田氏発祥の地・亀岡市を訪ねる

丹陽の地・亀岡市薭田町太田
私は夏の晴れた日に、太田氏発祥の地・丹波の亀岡市へ行きました。京都駅より嵯峨野線に乗り小一時間で亀岡駅につきます。保津川渓谷の鉄橋を何回も渡りトンネルをくぐったりすると、丹波は昔、都から隔絶された僻陬(へきすう)の地であったのではないかという気がしてきます。亀岡駅につくと周囲に田畑が広がっているので、たしかにここには京都とはちがう空気が流れていると実感できます。
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(亀岡駅)
太田道灌の心友、万里集九が道灌遭難後の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中に「大田左金吾公道灌は、その先はすなわち丹陽の人なり。しかるに五、六葉の祖、はじめて相州に家す」とあります。
「太田家記」(1714年)によると「太田摂津守資国御法名を道斎と申し奉る。五箇荘の内太田郷を領知し故、資国公御代より太田の御名字を称され候、資の字も資国公より始まり候」とあります。
『寛政重修諸家譜』(1812年)にも、太田資国は、摂津守を名乗って丹波太田郷に住んだ旨、記述されています。

私は亀岡駅前でレンタル自転車をかりて、薭田野(ひえだの)町の太田を目指しました。亀岡市役所を経て亀岡運動公園をすぎ、西へ約5キロも走ると、薭田野神社がありその近くが薭田野町太田です。
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(薭田野神社)
この神社は、709年(和銅2年)創建の古社で、なにやら社殿も由緒ありげで五穀豊穣の守護神です。
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(薭田野町太田の田園地帯)
太田の地は田園が広がる地域で、仕事をしている若い人に尋ねると、農道を歩いてきた別の老人を指さして「あの人が歴史に詳しいよ」と教えてくれました。その古老は「時間はよろしいか」といいながら立て板に水を流すがごとくに約20分間、丹波、亀岡(亀山)、太田の伝承的歴史を語ってくれました。
山の南面の暖かい水が流れ込むので、この地は米がよくできて大田になりやがて太田になったとのことで、太田資国の伝承は出てきませんでした。

私はその後、南郷公園近くの市立文化資料館へ行き、亀岡市史を見たあと学芸員に太田氏の故地について質問しました。意外にも学芸員は「年に数回、太田氏について問い合わせがあるものの、当地域に太田氏関係の文書や伝承は発見されません。だからと言って太田氏と無関係とは断言できません」と言いました。

太田道灌公墓前祭実行委員会編の「太田道灌公五二〇回忌記念誌」の中で太田道夫氏が亀岡について一文を寄せています。それによると、2002年2月23日付の『亀岡市民新聞』に「亀岡が太田発祥の地・道灌は源三位頼政の子孫で、亀岡が先祖ゆかりの地」という見出しで道灌の生涯が紹介されました。当時、『エクセラン亀岡』など類似の資料が出回っていました。しかしそれらは、一過性の情報であったのか、今地元では、太田道灌のことを知る人は少ないようです。
1252年(建長4年)太田資国とその一族は宗尊親王、上杉重房とともに関東へ下向して750年以上も経ったので残念ながら、太田氏の伝承はこの土地の記憶から消失してしまったのでしょう。歴史的人物がその地を去り、その子孫もまたいなくなると、その人の伝承が絶えてしまう例は珍しくありません。

明智光秀築城の地
亀岡駅や亀岡市役所には、明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」の幟旗(のぼりはた)がならび、明智光秀と細川ガラシャについての各種パンフや資料が氾濫しています。
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(亀岡市役所の幟旗)
明智光秀は1577年(天正5年)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築城されましたが当時の縄張りの詳細はわかっていません。
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(亀岡城址の明智光秀像)
1580年(天正8年)に丹波国を拝領した光秀は近隣から人を呼び集め、本格的な城下町の整備と領国経営に取りかかりました。しかしそのわずか2年後に、明智軍はこの亀山城から京都へ出撃し、本能寺の変が起こりました。
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(南郷公園・亀岡城址)
亀山城が亀岡城に変わったのは、三重県の亀山城と区別するためだということは、稗田野町のあの古老が語ってくれました。
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2019年06月19日

「滝の城」は太田道灌築城の伝城 

埼玉県所沢市の城(しろ)と東京都清瀬市の下宿(したじゅく)の間を流れる柳瀬川べりの小さな崖の上に、滝の城(たきのじょう)という古城址があります。
西武線の東所沢駅から歩いても来られるところです。
城址の説明板によると、この城は北条氏照の滝山城、八王子城の支城であったということです。     
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 (小振りながら複雑な縄張り)
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(本丸跡の碑)
滝の城は、低い崖の上に本丸、二の丸、三の丸があり、土塁と堀が複雑に配されている多廓式平山城です。往時、城中に小さな滝があったので、滝の城と呼ばれるようになりました。
この城の縄張りは、一見して「道灌がかり」を思わせるものです。しかし、城址の説明板には、太田道灌の名前が全く出てこないので、私はずっと不満の思いを抱いていました。
ところで最近私は、東京都の豊島区立郷土資料館の展示の中に、滝の城についてたいへん興味深い記述を見つけたので以下に抜粋を記します。
「長禄元(1457)年に江戸城を築き太田道灌を配した扇谷上杉氏は、現所沢市に残る滝の城を中継点に、本拠である河越城との間に連絡路を作ります。そのうち江戸と滝の城までの道が清戸道(きよとみち)です。文明9(1477)年、道灌は江古田が原合戦を経て、この道を遮断するために豊島氏が築いた石神井・練馬の二城を攻略し、豊島氏は没落します」
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(豊島区立郷土資料館に展示された地図)
豊島区立郷土資料館に展示された地図には、江戸城から滝の城まで、川越街道と清戸道がほぼ平行に西へ走っています。そして滝の城からまっすぐ北上すれば川越城へ通じます。
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(土塁と堀)
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(四脚門跡)   
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  (城址を囲む急峻な崖)
扇谷上杉氏が滝の城を築いたのであれば、家宰であり軍の司令官でもあった太田道灌が縄張りをしたと思われます。そうであればこの城はやはり「道灌がかり」の伝城(つたえじろ)です。かくて私の不満は一気に解消しました。
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(滝の城址公園の桜並木)
滝の城下の柳瀬川べりは今、滝の城址公園として運動施設や散歩道が整備され、春には桜やレンギョウが咲き乱れます。

2019年05月24日

高田馬場駅前の道灌と山吹の里

早稲田口のアトム壁画
JR高田馬場駅前で早稲田通りを渡ると、手塚プロダクションが画いた巨大なアトム壁画が2枚目につきます。2008年(平成20年)に完成した壁画には、この界隈ゆかりの人物と出来事が描かれています。登場する人物は、太田道灌、堀部安兵衛、小泉八雲、夏目漱石、江戸川乱歩などです。この壁画の山吹の里に登場する太田道灌は、私の知人によると「丸首ブーン」だそうです。
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(アトム壁画の太田道灌と山吹の女)
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(高田馬場ゆかりの道灌、安兵衛、八雲、漱石、乱歩) 
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(壁画のアトムの世界)
因みに、早稲田通りを西に小滝方面へ6,7分も歩くと、手塚治虫行きつけの中華飯店があり、店内に手塚治虫の資料が展示されています。

おとめ山公園
アトム壁画後方の栄通りに入ってから神田川沿いに少し歩き、東京富士大学の手前で右折しておとめ山通りを行くと、新宿区立おとめ山公園へきます。そこから神田川に沿って東へ1キロも行くと、面影橋の山吹の里へ至ります。
おとめ山公園は、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、立ち入りを禁止されていたので「御留め山」とよばれていました。近年、「御留め山」が「乙女山」と表記が変わり1969年(昭和44年)に新宿区立おとめ山公園となりました。湧水、流れ、樹林、広場をもつ風致地区で山吹の花が咲いています。そのためか最近、おとめ山公園の「おとめ」を「山吹の女」になぞらえて、山吹の里とは、おとめ山公園であるという人が現れています。
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(おとめ山公園の湧水池)
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(園内の説明板)
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(園内の山吹の花)
ここは、高田馬場駅から至近のいいところで、昼間は憩いといやしのスポットです。
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2019年04月08日

秩父往還の古道(布夫道)を行く

秩父往還すなわち秩父から峠を越えて武蔵原中へぬける道は、古来三筋ありました。釜伏峠(580m)を越える熊谷通り、粥仁田峠(かゆにたとうげ)(540m)を越える河越通り、正丸峠(760m)を越えて飯能へぬける吾野通りの三筋です。
釜伏峠を越える道は、江戸時代に忍(おし)藩が整備したメインロードであるので、今回私たちは、釜伏峠と荒川南岸の間の風布(風夫)にあった中世の隠れ道・風夫道(ふっぷみち)を踏査しました。寒気が去って木の芽吹きがはじまったばかりで、まだ峠の見通しがきく3月末に仲間と出かけました。

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(雉が岡城址・本庄市児玉)
『太田道灌状』第25段には「その後景春の飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。文明12年正月、長尾景春は児玉(雉が岡城)で蜂起し、児玉・皆野ルートで秩父へ入りました。
『太田道灌状』第26段には「国中御安泰となり秩父へ御発進候処、古河様御変改」とあります。一方の太田道灌は、関東管領上杉顕定とともに長尾景春を追って峠を越えて秩父の大森御陣に入りました。上杉軍と道灌軍の秩父入りしたルートとして、釜伏峠越えの道や風夫道が考えられます。当時、荒川南岸沿いの道は波久礼(はぐれ)の難所と称される断崖で、渇水期に辛うじて人が通る程度でありました。

秩父市の郷土史家山中雅文氏が依拠する井上文書(1568年)には「小屋の儀は、金尾、風夫、鉢形、西乃入相定め候」とあります。これらの地名の場所には、鉢形城主北条氏邦が支配する見張り小屋があったという意味です。そしてそのことは、この場所に鉢形、皆野間の往還道があったということでもあります。今回私たちは、風布地域の大鉢形(おおはちがた)と阿弥陀が谷(あみだがやつ)を通る古道・風夫道をたどりました。

鉢形城を車で出発し、日本百名水のひとつ日本水(やまとみず)を経由して塞神峠(さいのかみとうげ)へきました。GPSで測ると標高480mでした。
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(塞神峠)     
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(「風布と秩父困民党」環境省の説明板)
風布は秩父困民党事件の発祥の地であったため「風布と秩父困民党」と題する環境省の説明板がありました。明治初年この地域には多数の養蚕農家があったものの、生糸の暴落で生活が困窮し、1885年(明治18年)10月31日、80戸180人の「風布組」がこの地から決起しました。

塞神峠に車を置き、そこからは山中氏の先導で山道に入りました。枯葉に覆われた道を15分も下ると大鉢形という集落にきました。峠の寒さが嘘のように感ずる温暖な小盆地で、隠れ家のような民家があり、山桜が満開でした。
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(山桜にかこまれた民家) 
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(桜源郷のような小盆地)

大鉢形から道路をすこし歩くと、阿弥陀が谷という集落へきます。かつては20数軒あったものの今は数軒の集落で空き家が目につきます。この辺りの路傍には、土を固めて造った、小振りの炭焼き釜がたくさん残っています。また念仏堂と称する小堂があり、説明板には「回り念仏」という珍しい風習があったと記されています。   
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  (路傍の炭焼き釜) 
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(「風布の回り念仏」環境省の説明板)
阿弥陀が谷から空峠へ上ると馬頭尊の碑がありました。かつてはこの峠道を馬が通っていた証拠です。峠の斜面の道は、しっかり馬蹄で踏み固められている所と倒木で朽ちかけているところがあります。朽ちかけた道を下り街道に出て次はハギノソリ峠へ登りました。
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 (馬頭尊の碑)    
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 (馬蹄で踏み固められた峠の古道)
私たちがハギノソリ峠で休んでいると、初老の農民が鎌(イノシシ用か)をかついでふらりと現れました。そして「迎えにきたよ。尾根道を左へ行けば千馬山城だよ。子供のころはこの峠を毎日越えて、学校に通っていたよ」と語りました。私は、偶然出会った農民が冗談を言っていると思いましたが、実は山中氏があらかじめ頼んでおいた案内人でした。
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(古い道標) 
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(倒木で朽ちかけた古道)
そこからは案内人の先導で、峠の斜面の落ち葉の中を下って根小屋といわれている集落まできました。私たちの別の車を置いてもらっている民家の前へくると、道で遊んでいた小さな女の子(孫か)が走ってきて、案内人の初老の男に抱きついてきました。男は歩みを止めて、かすかに微笑みました。

1480年(文明12年)の上杉軍の秩父入りはこのルートによる可能性があります。なぜなら当時関東管領上杉顕定は鉢形城に在城し、『太田道灌状』に記されている「田野陣衆」とはこの近くの下田野という所の農兵であったとも思われるからです。
この日私たちが歩いた距離はわずか一万歩であったものの、峠を三つも越え、二度も道に迷い、民俗学的に面白い集落を通ったので、現代の秘境を旅したような不思議な気分になりました。

*「ハギノソリ峠」の「ソリ」とは、『地名の研究』(柳田国男)によると、焼き畑農地という意味です。熊倉城(秩父市)下に「ヤトウソリ」という所があります。熊倉城近くの「高差山(タカサスヤマ)」の「サス」も同様の意味です。

2019年03月09日

道灌紀行ニュースNO.14 越生梅まつりで大河の署名

現在、埼玉県の越生梅林では梅まつり(2月16日〜3月21日)が盛況です。白梅や枝垂れ梅、福寿草が満開で、多くの観光客でにぎわっています。休日には、地元の有志が獅子舞などの出し物で歓迎してくれます。
今年は特に梅林の中で、十数本の「太田道灌を大河ドラマへ」の旗が目立っています。その旗のもとで、地元の道灌・道真有縁の建康寺(けんごうじ)の檀家戸口氏等が元気いっぱいで署名活動を行っています。署名の場所はそのほかに越生駅前、休養村、オーテック等7か所です。
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  (白梅、紅梅、枝垂れ梅が満開)
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  (太田道灌を大河ドラマに)
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  (署名する観光客)
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(くつろぐ観光客)
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(樹齢650年の古梅魁雪と説明板)
古木魁雪(こぼくかいせつ)の説明板にいう「越生の梅は、南北朝時代の観応元年(1350)に九州大宰府から、小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられている。魁雪はその頃の梅・越生野梅(おごせやばい)が、ここまで生きながらえたものと推定される。
太田道灌の父道真は引退後、越生に居館自得軒を構えていた。歌人としても名をなした道真は、川越(河越)城での連歌会『河越千句』では、
   梅さきぬ なお山里を 思うか哉
と詠んでいる。この会にも同席した当代一流の連歌師心経や宗祇も越生の梅を讃えた句を残している。(後略)」(越生観光協会)

2019年02月08日

道灌軍の進軍ルート(江戸城ー笛吹峠)

戦記物に軍勢の移動ルートや駐屯地のことはほとんど記されていません。しかし実は、このことは移動する軍勢にとっては極めて重要なことです。司令官がルートの決定を誤れば、兵は徒に疲弊し甚だしい場合は餓死します。太田道灌軍は五十子、用土原、鉢形城など武蔵中原へはたまた広馬場など上州の山麓へしばしば進軍しました。そのとき道灌軍はどのようなルートで移動してどこに駐屯したかを考察してみます。
今回は江戸城から笛吹峠(埼玉県鳩山町)までのルートを辿ります。
  
1. 江戸・河越間 
現在、東京都千代田区と川越市の間には、川越街道(国道254号線)があります。道灌の時代に江戸城と河越城の間には、鎌倉街道上道(かみつみち)の脇街道があり、それは現在の川越街道とほぼ一致するものでした。岡城(朝霞市)は伝城(つたえじろ)として足軽隊の休憩場所、食料の貯蔵や幕営用具の保管の場所として役割を果たしていたと思われます。岡城は江戸城と河越城のほぼ中間にあり、三つの郭を持ち小振りながら一種の道灌がかりです。
『太田道灌状』第11段に「(豊島氏の妨害で)江戸・河越通路不自由により」とあるので、道灌の時代には、古道をつなぎ合わせて江戸・川越間に立派な軍用道路が出来上がっていたと思われます。
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(岡城本丸跡)

2. 河越・苦林間
埼玉県毛呂山町の苦林(にがばやし)は鎌倉街道上道の遺構と宿場跡があることで知られています。
1477年文明9年、小机城(横浜市)の矢野兵庫助が長尾景春と示し合わせて河越城攻撃をもくろみました。矢野軍が一気に上道を北上して苦林に着陣したとき、太田資忠と上田上野介の軍勢が河越城から出撃して苦林で矢野軍と遭遇しました。矢野軍は太田軍を追ったものの勝原(すぐろはら)で馬返しの策にはまり敗れました。
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(毛呂山町市場の鎌倉街道遺跡)
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(毛呂山町大類の鎌倉街道遺構)
『太田道灌状』第14段にいう「矢野兵庫助以下の者、河越城を押すため苦林へ陣を張り候処、河越留守の衆、(文明9年)4月10日に打ち出で、彼の陣際を相散らし兇徒を勝原に招き出だし合戦せしめ勝利を得候」と。
また『太田道灌状』第20段には「(文明10年)3月10日河越より浅羽陣へ差し掛り追い散らし候」とあります。
この記録によると河越城から浅羽(坂戸市)を経由して苦林宿まで道があったと思われます。このことについて、毛呂山歴史民俗資料館で学芸員に尋ねると、現在のところ川越と苦林の間に古道の遺構は発見されていないということです。遺構は発見されていなくとも古書の記録から言って間違いなく河越・苦林間に上道の枝道があったというべきでありましょう。今日の川越坂戸毛呂山線すなわち県道39号線は、そのなごりであると推測します。
大類に残る鎌倉街道遺構を見ると道幅は3〜5mで、古老が「棒道」と呼んだごとくどこまでもどこまでも南北まっすぐです。

3. 苦林・笛吹峠間
毛呂山町の苦林から越辺川(おっぺがわ)の渡河点を越えてまっすぐ北上すると鳩山町のおしゃもじ山へきますが、そのあたりまでは古道の遺構が発見されていません。おしゃもじ山から埼玉県道171号線を北上して鳩山町役場を通過してさらにまっすぐ北上して国道41号線で笛吹通りに入ります。
少々の坂道を登ると頂上が笛吹峠です。鎌倉街道唯一の峠で昔は難所でした。この峠を、太田道灌をはじめ多くの武人、農民、巡礼者、佐渡への流人も通り、峠を挟んで度々合戦も行われました。
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(笛吹峠の表示、説明板、石碑)
笛吹峠とは由緒ありげな名前です。鳩山町の説明板と観光ガイドブックにその由緒が記されています。
1352年(正平7年)2月25日、新田義貞の3男新田義宗ら2万の軍勢が宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて足利尊氏の8万の軍勢と戦いました。戦の最中宗良親王は、月明かりの中で笛を吹いたとの伝承があります。新田軍はこの峠で「鳥雲の陣」をしいたものの敗れ、足利尊氏の室町幕府への道を開きました。
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(峠の頂上を貫く鎌倉街道上道・笛吹通り)
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(峠で鎌倉街道と直角に交わる慈光寺巡礼通り)
往時は、都幾川町の古刹慈光寺へ参る巡礼者たちもこの峠を通りました。この峠から秩父や上州の山々が見えるといわれてはいるものの今は、杉林のため眺望が遮られていて残念です。
鳩山町は、ど真ん中を鎌倉街道上道が貫き、笛吹峠のような史跡を持っています。鳩山町の名所名物は何?と問われたならば私は「鎌倉街道」と答えます。
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(笛吹峠の嵐山側の麓にある鎌倉街道碑)
この峠を下ると、菅谷原、高見原など中世の合戦場が開けてきます。
*「河越」は徳川時代になり「川越」と表記が変わりました。

2018年10月23日

道灌紀行ニュースNO.13

第1回日暮里道灌まつり
平成30年10月20日(土)21日(日)(於・東京都荒川区JR日暮里駅前)
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(日暮里道灌まつりのポスター)
去る10月13日(土)14日に伊勢原市で、恒例の「第51回伊勢原観光道灌まつり」が盛大の行われ、その一週間後に、JR日暮里駅前のイベント広場で「第1回の日暮里道灌まつり」がにぎやかに開催されました。第51回と第1回とは、面白い数字のめぐりあわせでありました。
JR山手線の日暮里駅で降り、東口の通称「道灌口」から出ると、駅前で太田道灌騎馬像と山吹の女の像が迎えてくれます。
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(回天一枝の像)
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(山吹の花一枝の像)
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(イベント広場・お祭り会場)
21日の朝10時からは、お祭り広場の舞台でセレモニーがおこなわれました。最初に西川太一郎荒川区長(東京23区・特別区長会会長)から主催者あいさつがあり、つづいて太田道灌顕彰会の太田資暁理事長から祝福のあいさつがありました。
諸関係者のあいさつのあと、伊勢原、越生、太田酒造、福島県などから販売品等のアピールがありました。
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(西川太一郎荒川区長)
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(太田資暁理事長)
圧巻は伊勢原甲冑隊の「太田道灌そろい踏み」と小倉恵子さんの熱唱「ああ太田道灌」でした。甲冑隊は演技のあと見物人とともに勝どきを挙げて、会場を練り歩きました。
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(伊勢原手造り甲冑隊)
引きつづき「古今亭駿菊」の青空落語などが披露され、さらに芸人が次々と登場して会場はおおいに盛り上がりました。
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(古今亭駿菊の青空落語)
この日会場では、「太田道灌の大河ドラマ」実現を目指す署名活動が行われました。また荒川区の観光ボランティアにより、道灌ゆかりの本行寺、江戸城の出城址であった道灌山や夕焼けだんだん、繊維街などのウオーキングツアーも行われました。
私はこの日、久しぶりに会った道灌友達から、かつて俳人の正岡子規が道灌山をたびたび訪れてたくさんの俳句を作った、という話を聞きました。子規の句にいう、
    柿くふや 道灌山の 婆が茶屋
この日は、晴天、温暖、無風に恵まれたので、多くの人が訪れて各店舗も繁昌し「第一回日暮里道灌まつり」は大成功でありました。

 尚、今年10月27日(土)には、静岡県の熱川温泉で恒例の「第6回石曳き道灌まつり」が行われました。これは太田道灌が江戸城の石垣の石を、この辺りから切り出して船で運んだという故事に因みます。

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2018年09月30日

「塩売原」で考える「地名は言葉の化石」

2018年9月、台風24号が近づいて小雨が降る中、前橋市富士見町の『太田道灌状』にかかわる史跡調査に出かけました。国道17号線を北上し、前橋市で荒牧町を過ぎてから291号線に入ります。萩原朔太郎ゆかりの政淳寺入り口で右折します。しばらく進んで政淳寺を過ぎて右の方へ行くと「横室古墳公園」へきます。公園の入口の説明板の表題に「陣場・庄司原」と地名が記されています。この地が、1477年(文明9年)10月11日に上杉方・大田道灌軍と古河公方方・長尾景春軍が小競り合いをした古戦場の庄司原(塩売原)であったことを物語っています。
案内してくれた地元の郷土史家長谷川氏の解説は次の様でした。
「この近くに荒牧(道灌状では「荒巻」)という地名があるように、この辺りには古来牧がたくさんあり、多数の馬が放牧されていました。馬には塩を与えなければならなかったので、この地で塩の売買が行われました。したがってこの地が「塩売原」(しおうりはら)といわれ、やがてなまって「庄司原」(しょうじっぱら)と呼ばれるようになりました。そして「庄司原」の西南に字「陣場」があり、この地が古戦場であったことを物語っています」
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(横室古墳公園)
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(陣場・庄司原古墳群の説明板)
『太田道灌状』16段にいう、
「十月二日道灌は荒巻へ上り、並びに引田辺の陣場等を見て廻り、其の心当に候処、案の如く結城、両那須、佐々木、横瀬、其他彼の国の諸勢申し請い、景春並びに同名六郎多勢を以って寄せ来り候。兼て覚悟の前に候の間、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前に当てて陣取り、天子の御旗を出され候ば、其の時合戦に及ぶべき旨存候処、聊示の趣で異見申される方共候か。其義なく候の処、十一月十四日御敵退散せしめ候」
(10月2日に道灌は荒巻へ上り、すぐに引田辺りの陣場等を見て廻り、其の地での作戦を練っていたところ案の定、結城、両那須、佐々木、横瀬、其の他彼の国の諸勢が申し合わせ、景春並に同名六郎等多勢で寄せて来ました。(道灌は)兼ねて予想をしていたので、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前にして陣取り、(顕定が)天子の御旗を出されれば、その時合戦に及ぶだろうと考えていました。ところが、思いつきの考えで意見をする人がいたのでしょうか、その作戦は実行されないまま、十一月十四日に敵は退散しました)
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(引田)
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(横室古墳)
長谷川氏の案内ですぐ近くの引田という所へ行ってみると、そこはやや高くなっていて横室との間に窪地があるので、道灌はそこを切所と考えたと思われます。切所とは、勝敗のきめてとなる厳しい地形のことです。全てが『太田道灌状』の記述と合致する地名と地形であるので、いつもながら感動します。私は10年ほど前にこの近辺を廻りましたが、今回は長谷川氏の案内で地名と地形と両軍の動きを詳しく検証しました。言語学では「地名は言葉の化石である」といわれています。そのことが間違いないことがよくわかります。
この地に道灌軍と景春方の結城氏など関東八家の大軍が軍旗をなびかせて押し寄せました。古墳の頂上に登ってみると、前橋市街や周囲に広がるブロッコリー畑がよく見えるので、ここは最初に太田道灌がそのあと長尾景春も登って物見をしただろうと想像されて面白くなってきます。上州の山々が見えないのが少々残念です。
さあ台風が日本列島に近づいているので、帰らねばなりません。



2018年08月18日

太田家軍旗

2018年7月14日(土)から9月2日(日)まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館で「企画展・古文書大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」が開催中です。
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(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
この展示に「太田家軍旗」(日の丸に鏑矢紋絹地旗印)が展示されています。これは、15世紀に合戦の最中に使用された軍旗です。絹地に「日の丸」と太田家の替紋「違い鏑矢紋」を配した軍旗は、太田家の歴史を記した「太田家譜」にも記されています。軍旗の大きさは、よこ約250cmm、たて約40cmmで、先端はちぎれたようになっています。残念ながら撮影禁止ですのでやむを得ず私は、その軍旗をスケッチしてきました。
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(私がスケッチした「太田家軍旗」)
展示の説明によると、この軍旗は東大阪市の専宗寺に伝わる岩付太田氏関係資料で、太田道灌の曽孫太田資正の三男資武の末裔にあたる子女が、専宗寺の兄弟寺河内の慈明寺に嫁いだ縁から、同寺に伝わったということです。東大阪市の専宗寺のブログを見ると、確かに「太田道灌と専宗寺は親戚である」旨が記されています。
この軍旗は、今回初めて博物館で展示されたそうです。
昨日、知人より「太田家軍旗」の写真が送られてきました。ネット上で出回っているそうです。写真を見ると確かに現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されているものと同じ旗です。どこでいつ撮影されたものかわかりませんがその写真を掲載します。
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(太田家軍旗、撮影場所不祥)
岩槻系の太田道灌曽孫太田資正の許には、道灌使用の軍配、道灌遺愛の琵琶「千鳥」、香木「蘭奢待」、そして多分「太田道灌状」など貴重な道灌遺品が伝わっていました。そのことを考えると、この軍旗は、太田道灌が実戦に使ったもので太田資正が所持していたものである蓋然性は極めて高いと思います。

posted by otadoukan at 15:06| Comment(0) | 太田家軍旗

2018年07月16日

道灌紀行ニュースNO.12

1.第19回「太田道灌の集い」平成30年7月29日(日)(伊勢原市)
太田道灌大河ドラマ推進実行委員会は、道灌の大河ドラマ要望の署名が、5月末に15万2千筆を越えたと発表しました。その盛り上がりの中で、恒例の太田道灌の集いは、平成30年7月29日(日)伊勢原市市民文化会館ホールで、開催されます。
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(「道灌の集い」チラシ)
第1部 午後1時より・文化・芸能発表
尺八演奏
成瀬児童合唱団
民謡踊り・友遊庭
伊勢原手作り甲冑隊
第2部 午後2時より・あいさつと報告
太田資暁 道灌の集い会長
伊勢原市長(予定)
伊勢原市議会議長(予定)
衆議院議員(予定)
他県市町自治体の報告
第3部 午後3時より・芸能発表
歌手 小倉恵子さん
舞踊 五条詠寿郎さん
落語 三遊亭遊吉師匠
三上利栄実行委員長は「多くの人々が、お気軽に来場してくれるよう望んでいます」と語っています。

2.伊勢原市議会「太田道灌大河ドラマNHKへ要望」を決議
7月29日の第19回「太田道灌の集い」を間近にして、伊勢原議会6月定例会において「太田道灌をテーマしたNHK大河ドラマ誘致についての決議」を満場一致で可決しました。
決議は、道灌の墓所が市内にある経緯に触れ、「道灌の活躍の足跡は、関東各地に残され、ゆかりのある各地の自治体にとって地方創生の観光資源となる」と述べています。
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(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

3.太田図書の墓前祭(佐倉市)
2018年7月14日(土)午前11時より、佐倉市の臼井城址公園で太田図書の墓の墓前祭が行われました。主催した臼井文化懇話会の岡野敦会長、中野英樹相談役、吉田とく名誉理事また太田家から太田資暁氏、太田盛明氏、佐倉市教育委員会の関係者など約20名が参列して、厳粛に執り行われました。
太田道灌の弟、太田図書之助資忠は、1479年(文明11年)7月15日、臼井城の合戦で壮烈な最期とげ、その場所に葬られました。
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(太田図書の墓)
法要のあと、市内で懇話会が行われ、太田図書の墓建立の経緯や太田道灌大河ドラマへの期待など、話が盛り上がりました。

posted by otadoukan at 16:57| Comment(0) | 道灌紀行ニュースNO.12

2018年07月01日

西武球場の真ん前に「太田道灌の御神木」

先日知人から西武球場の真ん前の寺に、「太田道灌の御神木」があると聞きました。「えー」と私はびっくり仰天です。そこは、東大和市の我が家から車で10分のところです。私は道灌の史跡調査で越生、秩父方面へ行くため、多摩湖を横断し、月に数回西武球場前を通っています。行ってみると、確かに「太田道灌の御神木」がありました。「灯台もとくらし」とはこのことです。
西部鉄道狭山線の西武球場前駅は野球ファン専用の駅です。西武球場正面(南側)に狭山山不動寺があり、その山門右手に「太田道灌御神木」と説明板があります。
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(御神木の説明板)
説明板にいう「御神木、この銀杏の大木は、江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城跡にあったものである。徳川時代から今日まで御神木として崇敬された。関東大震災の時は、大勢の人がこの大樹の下に寄って難をまぬかれ、神験のあらたかさを喧伝されたものです。その後区画整理の際、樹齢五百年のこの大木を切るに忍びず、当境内に移植して造化の神秘をしのぶよすがとし、社会科の教材として保存することにしたものです」
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(太田道灌の御神木・大銀杏)
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(御神木の幹)
狭山山不動寺は、埼玉県所沢市上山口にある天台宗別格本山の寺院です。山号は狭山山、寺号は不動寺、本尊は不動明王、埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られています。
1975年(昭和50年) 西武グループが各地にプリンスホテルを建設した際に、東京プリンスホテルの近くの芝増上寺をはじめ隣接する各地の文化財を、西武鉄道終点のこの地に集めました。そして西武鉄道が、当時のオーナーであった堤義明氏と親しかった寛永寺の助力を得て、天台宗別格本山として不動寺をこの地に建立し、集めた文化財を境内に設置しました。
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(不動寺の勅額門・)
不動寺にある文化財は次のようなものです。
勅額門=(ちょくがくもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。後水尾天皇の筆による『勅額』門とされ、国指定重要文化財です、
御成門=(おなりもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。
総門=長州藩主、毛利家の江戸屋敷に建てられた門で、素材はすべてケヤキです。
その他各地の由緒ある建造物やたくさんの石灯篭があります。
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(本堂と江戸時代の石灯篭)
さてところで、道灌の御神木の説明板にある「城山城跡」とはどこでしょうか。私は、いろいろな人に聞きまわり、ようやくわかってきました。
東京都港区の東京プリンスホテルの周辺には、亀塚公園、愛宕山、仙石山など太田道灌が出城を築いた場所がいくつかあります。仙石山には道灌の時代に、江戸城の出城として番神山城(太田道灌塁)が築かれ、その城域は現在の城山トラストタワーやホテルオークラのあたりまでつづいていたと思われます。城山を開発するとき、道灌の御神木と伝えられる樹齢500年の大銀杏は、伐採するには忍びがたく、プリンスホテル社長堤義明氏の英断で不動寺に移植されたもの思われます。堤氏は、とかくの非難を浴びながらも都市開発のため、その他多くの歴史的な建造物を所沢の田舎の寺の境内へ次々と移動させました。日本の高度成長時代の財界の巨魁の剛腕と財力には、唯々驚くばかりです。
おかげで、おそらくは道灌手植えの大銀杏は、都塵をはなれた静かな山里で、涼風に吹かれて蘇生し、年々美しい若芽を伸ばしています。不動寺の境内は広く起伏に富み、そこには一基の墓もなく祈祷所が一か所あるだけです。したがってそこはまるで文化財の展示場のようです。
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(東京プリンスホテルと東京タワー)
東京都の港区立郷土資料館で職員に訊くと「東京プリンスホテルができた頃に、多くの文化財等が所沢に移動されたことは承知しています。しかし当時は、東京オリンピック(1964年)もあったので、この地域の再開発のどさくさで、どれだけの文化財が移動されたかを記録にとってはありません」とのことであります。
所沢に移動された文化財等は、歴史的にまた美術的にも一見の価値があります。ここは、道灌の御神木の説明板にあるように、社会科の勉強のためにも一度は来るべきところです。

2018年06月06日

道灌紀行ニュース N0.11 

日暮里駅前に「山吹の花一枝」の像
東京都荒川区は、2018年5月23日(水)JR日暮里駅前に、荒川区ゆかりの武将太田道灌に山吹の枝を差し出す女性をモチーフにした「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)と題する女性の像を設置しました。同じ場所に、太田道灌の騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)が設置してあり、荒川区は新たな観光スポットとしてPRしたい考えです。
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(ほぼ等身大の「山吹の花一枝」像)
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(山吹の花一枝を持つ像)
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(台座の銘板)
「山吹の花一枝」の像は、彫刻家で荒川区顧問の平野千里氏が制作し、東京荒川ライオンズクラブより寄贈されました。
除幕式に出席した西川太一郎区長は「素晴らしい彫刻です。日暮里は成田空港からの便が良く、海外から多くの来客を見込めます。区の新たなシンボルになってほしい」と語りました。
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(説明板)
説明板には、太田道灌の山吹伝説、道灌略伝、道灌山や本行寺の道灌丘碑のことなどが記されています。
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 (制作者 平野千里)
平野千里氏は、1948年東京生まれ、彩色木彫の第一人者。1998年に荒川区ふるさと文化館の「芭蕉旅立ち」の像を制作。現在、荒川区顧問、荒川区地域振興公社理事、太平洋美術会理事、荒川区美術連盟顧問。
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(」「回天一枝「」の像、中央下方に「山吹の花一枝」の像)
「山吹の花一枝」の像は、太田道灌の騎馬像からやや離れたところに、山吹の花一枝をもって、道灌の方を見つめて立っています。その清楚な姿から、ほどなく道灌とのロマンス話が、まことしやかに伝えられるようになるでありましょう。どこから聞いたのか、この像を見にきて、写真を撮る人の姿が絶えません。
posted by otadoukan at 10:35| Comment(0) | 道灌紀行ニュース N.11

2018年06月01日

道灌愛用の「古天明霰釜」

さいたま市の大宮で東武野田線に乗り換えて、岩槻の一つ手前の七里(ななさと)で下車します。線路沿いに大和田方面へ10分も歩くと、曹洞宗の鷲嶽山大園寺(だいえんじ)という古刹にきます。駅から近いものの入り口がわかりにくいので、住民に訊かなければなりません。
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(大円寺)
大円寺の縁起によると、1525年(大永5年)、岩槻城主太田持資の曽孫太田資正の奥室、陽光院殿が開基となり、栄春禅師が開山となり、武蔵野の風渡野(ふっとの)台地に大円寺が建立されました。
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(大円寺法因縁起)
今年、5月24日、開基450回忌の法恩授戒會が行われ、これに因み3日間のみ特別に、太田道灌愛用の「古天明霰釜」が公開されました。私は、絶好のチャンスと思い、早速出かけて説明を聞き、写真を撮らせていただきました。
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(ガラスケースに入った道灌愛用の古天明霰釜)
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(同上、霰無地の茶釜)
寺の山門脇にあるさいたま市教育委員会の説明板にいう。
「さいたま市指定文化財工芸品
大円寺古天明霰釜(だいえんじこてんみょうあられがま)
大円寺は室町時代の創建で、その頃このあたりは岩槻太田氏の領地に組み入れられていました。太田氏と大円寺とのかかわりは深く、この窯は太田道灌が茶の湯に愛用していたと伝えられ、後に大円寺に寄贈されたものです。寄贈者は陽光院殿で、同寺に参詣するときは、この釜で茶をたて、道灌の位牌に供えたと言われています。
天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は室町時代後期までにつくられたものの総称です。西の芦屋、東の天明と言われ、茶の湯釜の双璧と称されました。
大円寺釜は古天明としてはめずらしく霰文(あられもん)ですが、他に文様を入れない霰無地で、その気品ある形とともに、古天明の味わいを持つ貴重な釜と言えます」。
太田道灌愛用の茶釜は、資家、資頼、資正と伝えられ、資正の奥室陽光院が所持していたものと思われます。
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2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
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(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。

2018年04月10日

「太田道灌状」の久下と久下氏

1.久下氏の出自
「太田道灌状」第24段にいわく「(前略)(文明11年)十二月十日金谷談所へ着陣仕り候処、忍城の雑説候由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下(くげ)へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候ば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」と。
*金谷談所=本庄市児玉町金谷の寺の学問所
*成田下総守=成田親泰、忍城主
 1479年(文明11年)12月に、道灌軍が陣を寄せた久下という所と国人領主久下氏を調べます。国道17号線を北上して熊谷市に入ると、中山道の久下という交差点にきます。そこを左折して荒川の方へ入った地域が久下です。
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治著)によると次のようです。私市(きさい)党の久下為家は大里郡久下村に住み久下氏の祖となりました。重家、則氏と伝えて代々久下太郎と称しました。則氏の二子憲重の子久下権守直光は石橋合戦以来源頼朝に従い、一の谷その他の戦いに参加して武功がありました。
2.久下氏の菩提寺・東竹院
熊谷市久下の曹洞宗東竹院久杉寺は、久下直光が開基した久下氏の菩提寺です。境内には「久下権守直光公 次郎重光公墓所」という墓標があり、その奥に2基の五輪塔があります。東竹院は久下次郎重光(法名は東竹院)が開基で、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基となりました。
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(墓所の標)
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(久下氏の墓所)
頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主久下重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けました。したがって久下氏の家紋も東竹院の家紋も「丸に横一文字」です。
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(東竹院の寺紋「丸に横一文字」は久下氏の家紋「一番」に因む)
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしています。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕ええました。
成田氏が熊谷市上之から忍(おし)へ来て忍城を堅固にして行田町を整備しました。成田氏は築城に際し近隣の一族、別府、玉の井、奈良氏はもちろん、酒巻、須賀、中條、久下、吉見の各氏の助力を得て、水路を開き、良田を整備し農地をひらき勢力を増しました。この頃、成田氏に雑説(謀反のうわさ)が起こったので、道灌は文明11年の年末に、久下館の近隣に陣を寄せて成田氏と会い、成田氏の成氏側への寝返りを防いだのでした。おそらくは道灌が久下氏を信頼していたので、その館近くに陣を取ったと思われます。
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(久下古城の荒川河川敷)
熊谷市教育委員会の郷土史編纂室によると、太田道灌が訪れた久下氏の居館の跡は、現在の東竹院からすこし南方の、荒川河川敷の中と思われるものの、発掘調査の結果は何も出なかった、ということであります。荒川は昔から名にし負う暴れ川であるので、私が「荒川の氾濫で遺構も遺物もすべて流されたかもしれませんね」と余計なことをいうと担当者は黙っていました。返事のしようがなかったのでしょう。
久下氏居館跡と推測される所は今、灌木が茂り野の花が咲き、風が通るだけのだだっ広い河川敷となっています。

2018年03月19日

太田資正の軍資金か

1.遺跡で大量の埋蔵銭(メディアの報道)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は9日、中世武士の館跡とされる同県蓮田市の「新井堀の内遺跡」から、大きな甕(かめ)に納められた埋蔵銭が見つかったと発表した。10万〜20数万枚の銭が入っていると想定され、1つの甕から見つかった量としては国内最大級という。銭のほかに墨で文字が書かれた木簡も見つかった14〜18日に熊谷市の県文化財収蔵施設で特別公開する。
 県道の建設工事に伴う事前の緊急発掘中に館跡の一角から出土した。15世紀前半に焼かれた「常滑焼」の大甕で容量は約280リットル。一定数の銭がひもでつづられた状態で納められ、石蓋が閉まっていた。甕の中からは墨で文字が書かれた木簡も見つかり、判明した文字から銭の枚数は約26万枚の可能性があるという。
 これまでに19種類の銭種を確認した。中国・明の「永楽通宝」が多いことから、同事業団は「最終的な埋設時期は少なくとも15世紀以降と考えられる」と指摘。さらに分析を進め、詳細を明らかにする方針だ。(日本経済新聞電子版2018/3/9)
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 (熊谷市の埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.特別公開「国内最大級の埋蔵銭」
 私は早速、埼玉県埋蔵文化財調査事業団へ出向き、この世紀の大発見物を見ることにしました。川越市より国道254号で北上し、柏崎という三叉路で国道407号に入り、しばらく走って東平で右折して県道66号に入ります。少し走ると「文化財調査事業団」の表示が見えます。事業団の門へは、次々と車が入って大盛況だったので、職員総出で来訪者を迎えてくれました。本棟とは別棟の展示場に、発掘された埋蔵銭の大甕と説明板がありました。
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(特別公開「国内最大級の埋蔵銭」と標示)
 「新井堀の内遺跡」(埼玉県蓮田市黒浜地内)で発見された大甕の埋蔵銭の量は国内最大級です。常滑焼の甕には精巧な蓋がつき、甕の中には、墨で書かれた木簡も発見されました
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(埋蔵金・ノーフラシュで撮影OK)
 中国製の銭はわらのひもを通され、ズシリと積み重なっています。現在甕は、掘り出されたままで、中の方がどうなっているかわからない、ということです。
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(甕を覆っていた蓋)
甕の蓋は、秩父の山から切り出したような、緑泥片岩でできています。
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(大甕をのぞき込む見学者)
このような埋蔵金をみると、見学者は必ず「現代のお金にするとどれくらいですか」と尋ねます。すると説明員は必ず、やや困惑した表情を見せます。中世の貫高制は変動相場制なので、使われた時と所でその値打ちは相当違ってくるからです。この日の説明員の答えは「当時の京都で、家2軒半を買える値打ちのようです」というものでした。私は「じゃあ、1憶円くらいですね」と横から口を出しました。しかし「これは20憶円くらいにはなりますよ」と言う人もいて、ロマンが広がります。
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(木簡の写真・右は赤外線写真)
 甕から出た木簡には「三」「いのとし」「二百六十」と書かれています。これは「3(月)」「いの(しし)年」「二百六十(貫)」の意味と説明されています。したがって古銭の束は、260個あると推測されています。
説明員からさらに面白い説明がありました。「今回の埋蔵金は、地下2メートルで発見されたが、その上に同様の二つの甕を掘り出して埋めた痕がありました。したがって『新井堀の内遺跡』には、三つの甕の埋蔵金があったに違いありません。舘の主はなにかの事情で一番深い所に埋めた一つを、忘れてしまったようです」という話でありました。
展示場でいただいた説明書には、次のように記されています。
「(埋蔵金が見つかった)『新井堀の内遺跡』の南東約52Kmには、太田氏が治めていた岩付城があります。また、谷を挟んで北東約1.8Kmには、江の埼城が位置しています。
 周辺には、いくつかの舘跡が分布しています。『新井堀の内遺跡』にあった舘の主が仕えていたとされる、太田資正は、1564年に岩付城を追われています。常陸の国に逃れ、城を奪い返そうとしましたが失敗に終わっています。そのため、『新井掘の内遺跡にあった舘跡』もその後、武士の舘としての役割を終えたと考えられます」。
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(発掘の様子を展示)
この説明書には、舘の主は岩槻城主太田資正(すけまさ)の家臣野口多門であったと伝わっているとし、「太田氏略系図」も添えられています。この埋蔵金が、太田資正の家臣野口多門が隠匿した、太田氏の軍資金であることが強く暗示されています。「岩槻巷談」によると、太田資正の配下に野口多門という足軽隊長がいました。
3.私の推測と石原太田氏の埋蔵金
1565年(永禄8年)太田道灌の曽孫・太田資正は、後北条方の陰謀に引っかかった長男氏資のクーデターにより岩槻城を追われ、常陸の佐竹氏の客将となりました。そのとき城内にいた足軽隊長野口多門は、城の藏から軍資金をもちだし、配下の足軽兵数十人に分散して持たせ、水濠に作ってあった秘密の浅瀬から脱出して野口舘へ運び、土中の甕に隠しました。多門は後に、大甕二つの軍資金を資正に届け、大甕1個の軍資金を後々のために土中に保管しておきました。資正は常陸で活躍したものの後北条方から岩槻城を取り戻せず、1591年(天正19年)片野城(石岡市)で69年間の波乱万丈の生涯を終えました。やがて多門も老いていわゆる認知症になり、軍資金のことは忘れて子孫にも伝えられませんでした。16世紀の武蔵でこれほどの軍資金を持てる実力者は、太田資正しか考えられません。
蓮田市「新井堀の内遺跡」の近くの五庵橋には、太田道灌手植えの松の子松と伝えられる見事な松があり、そのあたりは往時から太田家有縁の地域でした。
実は、このようなことが東京都調布市の石原太田氏の太田塚近くでもありました。1995年(平成5年)太田塚近くの道路工事現場から、壺に入った約1万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は唐銭でした。調布市立郷土博物館でその古銭の山を見て、私はびっくり仰天しました。近くに住んでいる石原太田氏の前当主は「あれはうちのものだが、証明する証拠がない」と語っていました。
4.40万個の埋蔵物・古代人のメッセージ
埋蔵銭の展示場を出ると、埋蔵文化財の展示場に案内されます。本館2階の展示場に入って、再びびっくりしました。この展示場のおびただしい数の収納ケースのなかに、40万個の土器や埴輪がぎっしりつまっていました。私は今まで、土器や埴輪は、博物館にあるだけと思っていました。それが大きな間違いであることに気づきました。埼玉県の各地に、昔からたくさんの人が住み、日常的にたくさんの土器をつくって使っていたのです。これらの様々な土器や埴輪を見ていると、それを作って使った人々の生活や性格や考えが想像されてきます。土器は古代人のレガシ―(遺産)でありメッセージでもあるからです。
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(収納ケースの埴輪)
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(同じものが二つとない土器の山)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員はみな、降って湧いたような突然の来訪者に戸惑いながらも、親切で一生懸命でした。なによりも有難かったのは、一般の博物館と違って、写真を撮り放題に取らせてくれたことです。
posted by otadoukan at 07:52| Comment(0) | 太田資正の軍資金か

2018年02月14日

道灌紀行ニュースNO.10 太田道灌イベント2題

1.講談「太田道灌」を聴く会(東京都北区赤羽・静勝寺)
2018年1月26日(金)東京都北区赤羽西の自得山静勝寺の本堂で講談「太田道灌」を聞く会が催されました。これは、江戸東京博物館友の会の「道灌倶楽部」の企画と静勝寺の協力で行われました。
まだ路傍に雪が残り、冷たい空っ風が吹く晴れた日に、一行約50名が赤羽駅に集まりました。最初に太田道灌が社殿を再興したと伝えられる赤羽八幡神社や道観山稲荷社などを見学し、稲付城址すなわち静勝寺の階段53段を上りました。
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(赤羽八幡神社)
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(静勝寺・道灌堂)
この日は、太田道灌の命日にちなむ26日であったので、静勝寺の道灌堂が開扉されていました。一行は、道灌堂の太田道灌像を参拝したあと、本堂に集まりました。最初に静勝寺の高崎住職より、太田道灌と静勝寺のゆかりについて解説がありました。ここは太田道灌の砦址で、道灌没後に道灌寺が建てられ、江戸時代には道灌の子孫の掛川城主太田資宗が境内を整備し、太田家の菩提寺となりました。
そのあと前座の田辺凌天につづき、真打田辺凌鶴の講談「太田道灌」が演ぜられました。これを聞けば太田道灌の一生がわかるという内容の熱演でした。
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     (真打田辺凌鶴)

2.講演会「太田道灌小机城を攻める」(横浜市鶴見区・鶴見川流域センター)
2018年2月12日(月)、横浜市の小机城址近くの鶴見川流域センターで「篠原城と緑を守る会」の企画で、講演会「太田道灌小机城を攻める」が行われました。この日もまた、冷たい風が吹きすさぶ好天の日でした。JR横浜線の小机駅から流域センターへ向かって歩いていると、往時はたしかにこのあたりは低湿地で、小机城の防御線になっていたことが実感できます。
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    (小机城址の空堀)
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   (鶴見川流域センター遠望)
流域センターは、鶴見川縁に立つ立派な公共施設です。この日の講演会には約50名が集まり、3人の講師が太田道灌と小机城を語りました。地元の研究者でなければわからない貴重な調査や面白い伝承が聞けて、貴重な研修でした。
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  (小机城をバックにしている案内書)
文明10年4月11日、太田道灌が小机城を攻めたとき、陣を張った亀の甲山とは正反対の方向にある篠原城を経由して、羽沢の硯松のあたりから一気に奇襲攻撃をかけたという説は、まことに興味深く新鮮なものでした。