2017年10月17日

道灌紀行ニュース NO.8

    川越まつりと伊勢原観光道灌まつりの太田道灌
2017年10月14日(土)と15日(日)の両日に、川越まつりと伊勢原観光道灌まつりが同時に行われました。私は、14日に川越を、15日に伊勢原を訪れてまつりを楽しみました。両日とも空模様はあいにくで、一部行事が中止になったものの大勢の老若男女が押しかけて大賑わいでありました。

川越まつりは、1646年(慶安元年)川越城主松平信綱の時代に始まった伝統的なまつりで、ユネスコ文化遺産に指定されています。
14日(土)、川越市連雀町の大田道灌の山車は、覆いをかけたまま会所前で止まり、晴天を待っていました。曳っかわせのとき、山車の囃子台では、笛、太鼓、鉦で天狐が踊りつづけていました。貴重な山車と人形を、雨で濡らすわけにはいきません。多くのファンが待ち続けたものの、この日終に空は晴れず、道灌さんは立ち上がることができませんでした。
連雀町山車.JPG 
 (覆いをかけた大田道灌山車)
参考に昨年の川越まつりの道灌山車と道灌さんの写真を掲載します。
道灌山車.JPG

道灌表情.JPG

残念がった道灌ファンの観光客は、祭り会館へ行って別の太田道灌人形を見て心を慰めました。 
まつり会館の道灌.JPG 
 (祭り会館の道灌さん)

第50回伊勢原観光道灌まつりでは、伊勢原駅周辺の各地で、数多くのイベントが行われました。
15(日)日には、天候が心配であったものの、辛うじて太田道灌鷹狩り行列が実施され、俳優の北村有起哉演ずる太田道灌と高野志穂演ずる北条政子がパレードを行い、最終地点まつり広場の舞台の紹介式に登場しました。北村有起哉は太田道灌の子孫でもあるので、黒岩神奈川県知事など多くの来賓が駆けつけ大いに盛り上がりました。  
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 (太田道灌・北村有起哉と北条政子・高野志穂、左は高山伊勢原市長)
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 (トークショーの北村有起哉と高野志穂夫妻)
★北村有起哉プロフィール
1974年生まれ、東京都出身。98年舞台「春のめざめ」映画「カンゾー先生」でデビュー。その後、各種の賞を多数授賞。映画「太陽の蓋」で初主演。出演作は舞台「道元の冒険」映画「関ケ原」など多数。2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」大山格之助で出演予定。
☆高野志穂プロフィール
1979年生まれ、東京都出身。幼少女期をバーレーン、シンガポール。ロンドンで過ごす。2002年、NHK朝の連続ドラマ「さくら」でデビュー。以後、数々のテレビドラマ、映画、舞台、コマーシャルにし出演。映画「Music Of My Life」が今秋公開予定。
(佐藤哲男さんから写真の提供を受けました。)
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2017年09月28日

道灌軍と戦った村山党金子氏の故地 

本年9月24日に私は、武蔵村山市民会館での郷土史講演会で太田道灌と村山の陣について話をさせていただきました。その際、参加者の中に金子さんという方がおられて、終了後に懇談をしました。私はふと気が付いて「もしや、太田道灌が村山の陣から奥三保へ攻め込んだとき戦った、小沢城(愛川町)の金子掃部助の子孫ですか」ときくと「そうです」とおっしゃったので、いっそう話が弾みました。金子氏は、この地で「武士団村山党の会」の甲冑隊のリーダーとして活躍されています。
後日私には、太田道灌に二度も小沢城攻めをさせた、景春与党の勇猛な金子一族の出自と故地を調べてみようという気が、急に強く湧いてきたのであります。「武蔵武士」(渡辺世裕・八代国治 著)の中に「(村山党の金子氏は)武勇を以って最も著はる。(中略)各地に転戦して軍功多し」と記されています。

1.武蔵武士村山党のふるさと
旧青梅街道を西へ走り、武蔵村山市を過ぎて瑞穂町にはいるとすぐに殿ヶ谷というところへきます。そのあたりで山側へ右折すると村山氏の菩提寺福正寺という古刹があります。福正寺には村山一族の墓があり、村山土佐守の位牌があります。福正寺の近くに玉林寺公園があり、その中に村山土佐守の銅像が立っています。土佐守は笠をかぶっているので、残念ながら表情は見えないものの、はるか遠くを指さしてなにかを見つめています。台座の説明板に次のように記されています。
㉜−1村山土佐の守銅像.JPG
(村山土佐守の像・玉林寺公園)
福正寺.JPG     
(福正寺本堂)
     村山土佐守
平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任(よりとう)を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山市最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
 この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。  
      平成25年3月吉日      瑞穂町
『新編武蔵国風土記稿』(1830年)には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とあります。

2.金子氏の本貫地
JR八高線の拝島より電車に乗ると、二つめが金子駅(埼玉県入間市)です。瑞穂町からは車で15分も走ると隣接する入間市の金子につきます。このあたりは、村山党金子氏の本貫地で、今も町を歩くと狭山茶の看板と「金子〇〇」の看板がいたるところで目につき、今も金子一族が住んでいることがわかります。
金子駅から、車で5分も行くと金子氏の居館跡すなわち金龍山木蓮寺瑞泉禅寺跡があり、丘の中腹に金子氏の先祖墓があります。
金子氏墓碑.JPG
(金子十郎家忠の墓碑)
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(金子一族墓所)
村山頼任の孫家範は平安時代末より入間郡金子村を本貫地とし、金子十郎を名乗りました。家範の子家忠は、保元の乱、平治の乱で活躍しました。その後金子氏は、武蔵国の国人として山内上杉氏に属しました。

3.勇猛な金子一族に道灌軍も大苦戦
1477年(文明9年)3月、金子掃部助(かもんのすけ)が長尾景春に与して相模国小沢城(愛川町)に籠り、上杉方の太田道灌と戦いました。山内上杉氏に従っていた金子氏は、長尾景春が白井長尾氏の嫡流でその父祖、景信、景仲に恩顧があったので、景春に味方して道灌軍と戦いました。
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(相模川縁の小沢城址)
小沢城は相模川縁の絶壁の上にある要害であったので、城を囲んだ道灌軍は大苦戦をし、一か月後の4月18日にようやく落城させました。しかしながら道灌軍が移動すると、金子勢は再び小沢城を占拠し、翌年の4月に道灌軍が小机城をせめたとき後詰めとして背後を脅かしました。小机城落城とともに小沢城は、再び自落しました。そしてさらに翌年1478年(文明10年)道灌軍が相模の奥三保をせめたとき、金子勢は三度太田資忠軍の行く手に立ちはだかりしぶとく抵抗したもののやがて敗れました。けだし金子氏は、多摩の国人衆として各地に転戦し、最も顕著な武勇を著わし続けた、なにし負う武蔵武士村山党の一族でありました。

2017年08月04日

道灌紀行ニュース NO.7

   大河ドラマを目指す「道灌の集い」(伊勢原市)
2017年7月22日、伊勢原市民文化会館で「第18回太田道灌の集い」が開催され、約800人が参加しました。午前には「道灌サミット」が開催され、太田道灌大河ドラマ実現を目指す各自治体(千代田区、荒川区、伊勢原市、川越市、越生町等)の代表者が参加し、挨拶と報告がありました。午後には、大ホールで「道灌の集い」が賑々しく開催されました。
第1部:
文化発表、伊勢原甲冑隊のパフォーマンス、小倉恵子さんの「ああ太田道灌」熱唱等。
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   (伊勢原甲冑隊のパフォーマンス)
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   (花手毬)
第 2部:
式典、高山伊勢原市長等の挨拶、三上会長よりの、さる7月11日太田道灌大河ドラマ!推進実行委員会がNHKを訪れ、11万151筆を提出して陳情したことなどの報告等。
第 3部:
松沢成文さんの講演「大河ドラマへ!江戸城天守再建の展望」と三遊亭遊吉さんの落語。
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  (講演する松沢成文さん)
最後は、山口甲冑隊長の音頭で「大河ドラマをみんなで頑張ろう」と勝どきをして終わりました。
(写真は、伊勢原観光ボランティア&ウォーク協会HPより転載)
  

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2017年07月25日

伊勢原の立原(たてっぱら)探訪

1.地名に秘められた歴史
伊勢原市上粕谷の産業能率大学の周辺を土地の人は「たてっぱら」と呼び、そこには気になる地相と地名がたくさんあります。元々このあたりは、古代人の遺跡や上杉舘があったところといわれ、産能大学のキャンパスの説明板には「この地はかつて扇谷上杉氏の館があった地であり、太田道灌が非業の最期を遂げた所である」と記されています。しかしこの広大かつ複雑な形状の台地原には、なにかもっといろいろな歴史が秘められているような気がして、以前より私は気にかけていました。ときあたかも、新東名高速道路の建設がこの台地に進み、巨大な橋げたが方々に見えはじめています。この地の歴史を今のうちに、しっかり調べておかなければ、開発が進んで史跡は破壊され、その痕跡も消えてしまうにちがいありません。
変貌する立原.JPG    
   (変貌する立原)
ちょうど今年7月5日、伊勢原観光ボランティアガイド&ウォーク協会の企画で「太田道灌コース、道灌ゆかりの史跡、上杉舘をめぐる」という史跡探訪ツアーが行われました。しかも案内人は、この地を隅々まで知り尽くしている、地元の山口氏でありました。私は、絶好のチャンスと思ってツアーに参加し、山口氏から懇切な説明をうけました。地名等はいずれも、今も残っていて使われている名称です。地名は埋蔵物と同様に、歴史を語る証拠です。
@五霊神社(スタート地点)
道灌没後1494年(明応3年)に北条早雲が、旧友であった道灌の菩提を弔うため、家臣の山田伊賀守に命じ、道灌の冑を五霊神社に納め、太田三徳命として合祀しました。三徳とは、智、仁、勇です。山田伊賀守の子孫は今も隣接地に住み、庭にご先祖の供養塔があります。
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  (出発地の五霊神社)
五霊神社から、大山道を通って東へ行くと、立原の台地へきます。
A西の大手門跡
立原の台地は、北西が山地につづき、他の三方は急に谷となり、自然の城塞となっています。ここは西の上り口で、上杉舘の大手門と推定されています。
西の大手門跡.JPG   
    (西の大手門跡の道祖神)
B打出(うちで)
太田道灌の足軽隊が出撃する前に、駐屯した所と考えられます。1477年(文明9年)3月18日に、道灌の足軽隊は、ここから出撃して溝呂木城、小磯城、小沢城を攻略したと思われます。道灌は、相州勢を率いて、当初豊島氏を攻める予定であったものの、大雨で多摩川や相模川が越えられなくなったので、急遽作戦を変更し、相模の3城攻略に向かったのです。
打出.JPG  
   (打出・足軽隊の駐屯地))
「太田道灌状」第11段にいわく「相州勢を密つ密つ途中へ召し越し、3月24日(豊島氏を)夜詰め致すべくてあて候之処、大雨降り候て、多破河調議相違せしめ候」と。
C大門跡
大門の周囲には、土塁がせりあがり、一応の防備となっています。今「大門跡」の石碑は、椎の古木の陰にあります。ちなみに秩父市上影森の上杉氏の大森御陣跡にも、「大門町」「神(陣)原」という地名が残っています。
大門跡.JPG
(大門跡の土塁)
D的場(まとば)
立原の東側の小字は的場です。往時ここで、道灌の足軽隊は弓の訓練をしたと思われます。道灌の心友万里集九は「梅花無尽蔵」(1508年)の中で、江戸城の足軽訓練について「弓場を築く、毎日幕下の士数百人を駆りその弓手を試む、上中下に分かつ、その令甚だ厳なり」と記しました。
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(的場、足軽隊の訓練場)
E立原(舘原)(たてっぱら)
立原とは、柳田国男の「地名の研究」によると、尾根の先の平地のことで、その地名は方々にあります。伊勢原の立原は東西約1000メートル南北約500メートル(甲子園球場38個分)です。その平地の北端の段丘に上杉舘があったので、舘原とも記されました。
立原.JPG   
    (立原、かなたに産能大)
F上杉舘址(産能大学)
ここは、上杉氏の根小屋すなわち平時における居住地があったところと思われます。三段丘の上であるので見晴らしもよく、領主の舘の地としてふさわしい所です。現在は、産能大学の校舎が林立しています。
23章:上杉館址に建つ産業能率大学.JPG
    (上杉舘址・産能大学)
G馬防口(ませぐち)
産能大学の裏、県道の北側一帯を土地の人は「ませぐち」と呼んでいます。上杉舘のからめ手口と推測されます。
H湯殿入り
産能大学の北側の谷をさかのぼった、秋山川源流地点のことです。湯殿とは普通、浴室のことです。なぜ、こんな名前がついたのかよくわかりません。
I千石せき
上杉舘が攻撃を受けたとき、巨大な空堀に水を通すための水路で、その後、灌漑用水として利用されました。
J空堀
自然の谷に人手を加えた巨大な防御施設であり、今は、堀の底が産能大学のテニスコートや洋弓場となっています。
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    (空堀の発掘調査)
K洞昌院・道灌の墓(ゴール地点)
空堀から山王神社と七人塚を過ぎ、ゴール地点、洞昌院の道灌墓所にきて少々驚きました。道路際の樹木は、治安維持のためすべて伐採され、墓域はあっけらかんとした雰囲気になっていました。
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 (洞昌院・道灌墓所での説明)

2.私の大胆な推測・太田舘の所在地
1351年(観応2年)扇谷上杉藤成が相模糟屋庄の政所の職にあったことが確認されます(円覚寺文書)。また太田道真が光明寺(相模原市)に出した文書の封紙に「かすやより東しん」とあります。したがって、扇谷上杉氏も家宰の太田氏もまた糟屋庄に舘を持っていたと思われます。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられています。扇谷家の家宰・相模守護代であった太田道真も、時により糟屋で政務をとったと思われます。現在は、上粕谷と下糟屋「かすや」の漢字が違っているものの土地の古老に聞くと、往時はどちらも「糟屋」の文字であったそうです。
大手門とか大門という地名が残っていることは、この地に武将の舘があったということです。そして打出とか的場という地名があるということは、この地に軍勢が駐屯し、軍事訓練を受け、時に出撃したということです。
それにしてもこの広大な高台は不思議なところです。要塞状の高台とはいえ戦闘の城というほどの厳しい防備はありません。どちらかというと、ゆるい防備を備えた、いわゆる根小屋と称する、平時の居住地のようです。そしてなお風変わりなことは、的場のような兵の訓練場や打出のような兵の駐屯地があることです。
私の大胆な推測としては、今の産能大学のキャンパスの地には、相模守護上杉氏の根小屋があり、立原と的場の境には守護代太田氏の根小屋があり、的場は道灌の足軽隊の弓の訓練場であったということです。上杉氏と太田氏によりこの広い立原の高台は、多目的に活用されたと考えるべきです。そして厳しい戦闘が予想される場合は、防備が固い相模守護所すなわち丸山城へ立て籠もったと考えられます。 
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  (立原の発掘調査現場)
現在、新東名の工事予定地数か所で、大規模な発掘調査が行われています。このあたりの台地は、南向きの山の根で湧き水もあるので、古代から条件の良い居住地でありました。発掘現場から何が出るかはこれからのお楽しみです。太田氏の舘の遺構などが出るのではないか、と私は期待しています。

2017年06月02日

下総の八幡と天神

関八州には、太田道灌ゆかりといわれる神社仏閣が、私が現在掌握しているだけで107か所あります。古文書に明記されている場合あるいは寺社自らの由緒書きにその旨記されている場合に、道灌ゆかりとしてカウントしています。歴史的事実は定かではないものの、文化人類学的にはたいへん面白いことです。おそらくは道灌が、民衆に人気があったので、寺社の格を上げるため道灌ゆかりとしたこともあったと思います。今回は、市川市の八幡と天神を訪問します。
◎太田道灌修復の葛飾八幡宮
日暮里駅で京成本線に乗ると、約20分で京成八幡駅につきます。駅から線路に沿って約100メートルも東へ歩くと左側に葛飾八幡宮の鳥居が見えます。広い境内の随神門を経て直進すると、奥に本殿があり「下総国総鎮守葛飾八幡宮の御由緒」が記されています。
総鎮守とは、俗な表現をすると神社の総元締めみたいなもので、境内を歩いてもなんとなくその威勢を感じます。1479年(文明11)に道灌はまずここで、源氏の氏神たる八幡へ戦勝祈願をして千葉氏との激戦へ臨みました。
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  (随神門)
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  (本殿)
境内にある市川市教育委員会の説明板に、この神社の歴史がわかりやすく記されているので、その説明文の前半を以下に転載します。
「寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自らも参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には、千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。
また文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行いました。さらに天正11年(1591)徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。
明治維新の神仏分離の時までは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は、往時を物語る貴重な遺物です。
また、山門には、仁王像が行徳の徳願寺に移されて、その後に左右両大臣が置かれ、随神門と呼ばれるようになりました。この随神門は、市指定有形文化財です。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また。寛政5年(1793)に発掘された、元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定有形文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます(後略)」
「江戸名所図会」(1836)にも、葛飾八幡宮として、海辺から本殿への長い参道が描かれています。
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  (千本公孫樹)
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  (鐘楼)
境内の鐘楼を見ると、神仏習合の証拠を見たような気がします。また当宮の祭礼は9月15日から6日間行われ、俗に「八幡のボロ市」とよばれる農具市が立ちます。
17世紀頃、下総と武蔵に葛飾郡があり、現在のJR総武線と京成線の間の県境近辺に、葛飾の地名は方々に残っています。

◎白幡天神社と永井荷風の歌碑
葛飾天満宮から北西へ10分も歩くと、白幡天神社へきます。神社の御由緒によると当宮の創建と歴史はやや不詳であるものの、1180年(治承4)源頼朝がここで白旗を立て、その後太田道灌が社殿を造営したといわれています。境内は静かで、清浄の気が満ちています。
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   (白幡天神社)
道灌ゆかりのこととともに、私の関心を強くひいたのは、境内の永井荷風の歌碑です、いわく、
「松しげる 生垣つづき花飾る 菅野はげにも 美しき里
白幡天神祠畔の休茶屋にて
牛乳を飲む 帰途り緑陰の
生垣を歩みつつユーゴーの詩を詠む
砂道半にして 人来らず
唯馬語の欣々たるを聞くのみ」     (断腸亭日乗)
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   (長井荷風の歌碑)
歌碑中央の永井荷風の文字は、荷風の揮毫と思われます。菅野とはここの地名です。荷風が寄ったのはどんな茶屋だったのだろうか、荷風はユーゴーのどんな詩を詠んでいたのだろうか、おそらくはフランス語の原語で読んでいただろう、馬の鳴き声を馬語とは、荷風はおそらく馬の鳴き声を言語と解したのだろう、などといろいろ思いをめぐらして面白くなります。「断腸亭日乗」とは荷風の日記です。荷風は1957年78歳で、現在の市川市八幡三丁目に転居し、そこが彼の終の棲家となりました。永井荷風に関心を持つ人は、ここへ来るべきでしょう。
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2017年04月07日

伊奈町の道灌子孫・平川氏

太田源三郎資行
埼玉県の川越市より北東へ車で小一時間走り、国道17号線を越えると伊奈町へきます。伊奈町内宿台で近所の人に平川家を尋ねると、立派な門構えの家を指さしてご大尽と呼んでいました。平川家の蔵の隣に、小針村平川家碑識と称される石碑と供養碑があります。この碑は、平河家13代の平川大作氏が、明治17年に建立したものです。その碑識の碑文によると、平川氏の先祖は、備中ノ守太田持資入道道灌でその子資行(1486年〜1574年)は北条氏の臣下となり、川越夜戦で戦うなどして戦功をあげたものの、後に小針村に帰農しました。資行は「平川城(江戸城)は、かつて我が住したる故郷なり、よってこれを姓にする」として、平川氏をなのって家紋を桔梗から剣酢漿草(けんかたばみ)に変えました。
「岩槻市史」によると、資行の嫡男資吉は岩槻城の北条(太田)氏房の家臣となり、小田原落城後に氏房とともに高野山へ赴きました。その後資吉は、氏房にしたがい朝鮮出兵のため肥前唐津の名護屋城に移ったものの、氏資が在陣中に病没したため小針村に帰りました。そのとき、ともに名護屋城へ赴いた太田一族の中の太田資長、資重兄弟等が、肥前嬉野に残って帰農し、今日の嬉野太田一族となったと私は推測しています。徳川の世となってから嬉野太田は、豊臣の配下にいたことを隠すため、その出自を語らなくなったものと思われます。
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(平川家碑識と供養碑・右)
その後も小針村の平川資吉の血筋は連綿として続き、江戸時代には名主、地頭用人として苗字帯刀と居宅門構えを許され、明治以降は戸長や村会議長などをつとめてきました。平川家の蔵には、源三郎資行の自筆の詩書、腰刀一振り、馬の鞍一個や1742点の平川家文書(江戸時代のもの)が所蔵されていましたが、今は埼玉県立文書館等へ寄託しているのことです。
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(平川家の門構え)
また平川信行氏の平成22年の詳述によると、太田資行の母つまり道灌の妻は、斉藤小四郎基行の娘とされています。その妻の実家斉藤家が道灌の軍師斉藤新左衛門安元あるいは道灌松を持つ蓮田市の斉藤家となにか関係があるかどうかはわかりません。
またこの碑識に記されている太田資行は、生年から考えて上州の吾妻郡の中澤家にかかわる太田資行と同一人物ではないと思われます。
平川家の供養碑には、浄慶禅定門(太田資行)天正二年三月十八日と妙旅禅尼(資行の母)天正二年十月二十九日などが記されています。

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2017年03月29日

太田道灌コーナー(東京国際フォーラム)《道灌紀行ニュース NO.6》

   東京国際フォーラムに太田道灌コーナー(千代田区)
東京国際フォーラムのガラス棟の太田道灌銅像前に、太田道灌コーナーが開設され、3月28日(火)10時30分より除幕式が行われました。席上、東京国際フォーラムの上條清文社長、太田道灌顕彰会の太田資暁理事長等がテープカットを行い、上條氏、太田氏から挨拶がありました。
朝倉文夫氏制作の太田道灌銅像前に、「太田道灌のプロフィール」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「道灌の戦績とその後」と題する日英両語の解説版と「12体の太田道灌銅像写真」のパネル版が設置されました。また中央には「江戸城(寛永度)天守閣」の模型も置かれています。
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(挨拶する太田理事長)
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(太田道灌のプロフィール)
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(説明版は日英両語)
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(各地の太田道灌銅像12体の写真)
これらのパネル版は、国内外の観光客のため、恒常的に設置されています。
東京国際フォーラムは、JR山手線の有楽町駅より徒歩1分です。

2017年02月27日

道灌紀行ニュース NO.5

1.越生梅まつりで大河ドラマの署名(越生町)
太田道灌のふるさと越生の梅まつりは、2017年2月18(土)から3月20日(月、祝)に行われています。今年は好天に恵まれ、開花も順調で、近隣からの多くの人たちで賑わっています。越生梅林の中に「太田道灌を大河ドラマに」ののぼり旗が立ち、地元の戸口訓男氏等が、入園者に署名を呼び掛けています。来園者の大河ドラマ「太田道灌」への関心は強く、署名の筆数は順調に増えています。西湖梅を江戸城の梅林坂に植えた太田道灌も、「梅花無尽蔵」を書いた万里集九なども突然現れて署名をしてくれそうな雰囲気が、ここにあります。梅林の他、越生町役場やコーヒーショップ里の駅など約10カ所に、無人の署名所が設置されています。
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(越生梅林で大河ドラマ署名) 
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(満開の梅と賑わう人々)
太田道灌大河ドラマ推進の署名運動は、関東各地で進められ、現在9万余筆に達しています。

2.大森御陣と長尾景春の武者絵(秩父市、小鹿野町)
2017年2月18日(土)秩父市の荒川公民館で、「長尾景春の伝承地を歩く会」が「太田道灌状」の勉強会を開きました。その日の教材はちょうど第6段で、長尾景春と太田道灌の会談が決裂し、景春が鉢形城で決起するところでした。
席上、参加した郷土史家山中雅史氏より、「太田道灌状」にでてくる大森御陣の場所について、新発見の資料に基づきくわしい報告がありました。上影森村の元村長関田家の土蔵で、明治17年以降に画かれた3枚の古絵図が発見されました。その古絵図には、諏訪神社の近傍に土塁跡が認められ、大門という地名が記されています。山中氏の詳細な検証の結果、そこには陣屋の土塁と大手門があって、神原(陣原)には軍勢が駐屯したことが確認されました。したがって、文明12年、熊倉城に楯籠る長尾景春の軍勢を攻めるため、関東管領上杉顕定は、ここに大森御陣を開いて総指揮をとったと思われます。
  
またその日、小鹿野町の画家小菅光夫氏が画いてくれた長尾景春の武者絵が披露されました。これは、氏が、双林寺の長尾景仲(景春の祖父)の木像を参考にして画いた、本邦初の景春武者絵です。3枚の長尾景春武者絵は、秩父市荒川の歴史民俗資料館に展示されることになると思います。
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(長尾景春の武者絵)
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(長尾意玄入道景春)
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(長尾景仲像・渋川市双林寺蔵)
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2017年02月11日

五十子の増国寺・松陰終焉の地

東京から国道17号線を北上し、本庄市に入るとすぐに五十子陣城址があります。少し進んで鵜森という信号で左折しました。その日は、小雪がちらつく寒い日であったので、道を尋ねる人にも会わず、私はいつものように勘を働かせて、とある旧家で増国寺を尋ねました。幸いにもその家は、増国寺の檀家副総代であったので、おかみさんが快く道を教えてくれました。そこから100メートルもいくと、曹洞宗の雷雲山増国寺がありました。ここが、太田道灌の盟友松陰西堂終焉の地です。庫裏を訪ねると、住職が松陰の墓所と墓誌へ案内してくれました。
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(増国寺山門)
道灌の時代の関東の戦乱について、「太田道灌状」(1480年)と同様に史料的価値が高いといわれているものに「松陰私語」(1509年)があります。上野の長楽寺(太田市)の陣僧松蔭は、享徳の乱(1454年)の渦中にあって活躍し、後に回想録「松陰私語」五巻を書きました。「太田道灌状」には、武蔵、下総、相模の動乱が多く記されているのに対して「松陰私語」には、上野、下野、武蔵の出来事が多く記されています。儒教の五常(仁義礼智信)にちなみ五部構成となっているものの、第三部は目録を残して本文は欠落しています。
「松陰私語」の中に、「道灌は金山へ越すべき日限を相定め、肴十駄を両度越す事」と題する面白い挿話が記されています。1478年(文明10年)7月、太田道灌が別府陣(熊谷市)にいたとき、松蔭が岩松家の家宰であった横瀬国重と相談し、道灌に招待状と雪花(花束)を送りました。道灌は返礼として書状を送り、更に表敬訪問の日に合わせて肴十駄を二度にわたって送りました。
道灌は金山城を訪問して横瀬国重と陣僧松陰とに会い、三日間金山城に滞在し、書道、歌道、兵書などについて語り合いました。太田道灌と松陰はおそらくは足利学校の同窓生であったから、二人はこの広大な山城を視察しながら、以心伝心の含蓄深い対話をつづけたと思われます。道灌は金山城を視察して「近比明城」(近年の名城)と賞賛しました。
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(松陰西堂の卵塔)
松陰は、1438年(永享10年)生まれで、新田松陰軒とも称しているので、新田岩松家の出自と思われるものの詳細は不明です。おそらくは、武家の二、三男に生まれ、優秀であったので跡目争いを起こさないように、新田家の先祖累代の墓がある長楽寺(太田市)に入れられ、後に足利学校で学び、岩松家の陣僧になって戦の指揮をしたと思われます。
「続武将感状記」(1716年)には、面白い、松陰の略伝が記されています。その一部にいわく「(松陰は)忍辱の衣を脱ぎて、折伏の鎧を着し、慈悲の袈裟を捲きて、降魔の保呂をひるがえす事、諸凡僧の見識に及ぶべきにあらねども、今まで仏寺に住して安眠し、仏餉(ぶっしょう)を食して抱腹せし恩を思うが故に、告げ奉ると言いて、寺より馬に乗りて立ち出で、直ちに敵と寄り合いて首をとる、これより終に寺に帰らず」と。
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(金山城址)
難攻不落の金山城(太田市)を縄張りして70余日で完成し、貴重な記録「松陰私語」を残した松陰は、複雑で難しい時代と場所で、不思議な存在感を発揮しました。僧と武士という二役で、五十子合戦を見つづけた松陰は、長楽寺を引退したあと五十子の増国寺(本庄市)に住み、「松陰私語」(別名・五十子記)を執筆し、八十余歳で歿したと思われます。増国寺の松陰の墓は卵塔で、その位牌には「前惣特当寺中興開山新田松陰西堂禅師」と記されています。卵塔とは、主に禅宗寺院で住職の墓としてつくられた卵型の仏塔です。松陰の墓前に立つと、仏の教えと軍事作戦が松陰の中でどのようにリンクしたのか、聞いてみたい気がしてきます。
 増国寺は本庄市東五十子の五十子陣跡の近傍にあり、寺の由緒によると、1466年扇谷上杉顕房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。まさしく増国寺は、五十子合戦の真っただ中にある寺でした。

2017年01月01日

道灌紀行ニュース NO.4

大田道灌の新銅像が登場(越生町)                            
埼玉県越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌の新しい銅像が登場しました。これは、第12体目の太田道灌銅像です。2016年12月5日朝8時30分より、越生町役場玄関ロビーにて、太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。除幕式には、新井町長はじめ、町議会議長、観光協会長、教育長、埼玉県立越生高校の校長と美術科教諭、地元の代表などが出席しました。
この銅像は、従前より越生町の町長室に秘蔵されたいた、三枝惣太郎氏制作の小さな太田道灌像を原像とし、地元の埼玉県立越生高校美術科の六田教諭が制作したものです。80cm位の木製の台に立つこの銅像は、基盤の幅が110cmで、高さがあやい笠まで130cmであるので、やや小振りの太田道灌像です。
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(弓矢をもって踏ん張る道灌像)
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(若き日の道灌像・戸口訓男氏撮影)
この像は、弓を持った狩り姿であるものの、足を踏ん張り半身になって身構える、極めて躍動的な道灌像です。道灌像の表情はやや若く、その背後のガラスに山吹の里歴史公園の絵が焼き付けられています。したがってこの像は、道灌が若き日に、父道真のもとを訪れたときの情景をほうふつとさせる傑作です。越生町にまた観光名所が一か所増えて、めでたしめでたしというべきです。
ちなみに、原像の制作者である彫刻家の三枝惣太郎氏とは以下のような人です。
◆ 三 枝 惣 太 郎 【略 歴】
昭和9年 第15回帝展第三部彫刻部 初入選
昭和10年  東京芸術大学卒業
昭和16年  構造社会員となる
以来、帝展・文展・日展・新日展に連続出品(連続入選)
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(越生町役場町長室秘蔵の三枝惣太郎制作の太田道灌像の原像)
日展名古屋展中日賞受賞。
名古屋タイムス秀抜店 秀選展出品
紺綬褒章受賞
日展会友
日本美術家連盟会員
日本彫塑会会員
新構造社(絵画)会員
東海彫塑会会員
名古屋芸術大学美術学部名誉教授

追記
現在、東京国際フォーラムのガラスホール1階入り口で太田道灌銅像写真展(1月1日〜6日)が行われています。残念ながら、越生の道灌銅像写真は、今回間に合っていません。
また地下1階では、日本の城ギャラリーが行われています。1月6日13:30と15:30には、この場所に伊勢原甲冑隊が出撃しました。
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(東京国際フォーラムの太田道灌銅像写真展)
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(甲冑隊入城)
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(太田道灌の勝どき)
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(伊勢原甲冑隊)
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2016年12月01日

道灌紀行ニュース NO.3

大田道灌と長尾景春の激戦の地、鉢形城址探訪(寄居町)                               
江戸東京博物館友の会のえど友サークルの中に、道灌倶楽部という、約150名のサークルがあり、太田道灌ゆかりの地を精力的に歩き回っています。
さる11月27日(日)には、道灌倶楽部が太田道灌と長尾景春の激戦地、埼玉県寄居町の鉢形城址を探訪しました。この日参加したのは首都圏からの24名です。一行は、寄居駅から歩いてまず鉢形城歴史館を訪問し、特別展「関東の武具」(関東5枚胴具足を中心に)を見学し、前館長からの懇切丁寧な説明を聞きました。そのあと、地元のボランティアガイド3人の案内で鉢形城址全体を見学しました。東京ドーム5個分の広さがある城域なので歩き甲斐がありました。
正喜橋からの荒川.JPG
(正喜橋からの荒川)
城域の模型を見る.JPG
(城域の模型を見る)
1476年(文明8年)6月、長尾景春が、山内上杉家家宰人事の不満を引き金にして鉢形城に拠り反乱を起こしました。1478年(文明10年)太田道灌が鉢形城を攻撃して景春を秩父へ追い、関東管領山内顕定に鉢形城入城を勧めました。その後1560年(永禄3年)頃、北条氏邦がこの城を居城としました。
このあたりは交通の要衝で、秩父往還道と鎌倉古道上道(かみつみち)の交わる地点でした。荒川の絶壁上にある本曲輪跡には、田山花袋作、武者小路実篤書の文学碑がありいわく、
「襟帯する山河好く、雄視する関八州
古城の跡空しく在り 一水尚東へ流る」(読み下し文)と。
本曲輪の文学碑.JPG
(本曲輪の文学碑)
障子堀跡を見る.JPG
(二の曲輪の障子堀跡を見る)
外曲輪の土塁跡.JPG
(外曲輪の土塁跡)
ガイドの説明にしたがい、鉢形城歴史館を出発して外曲輪、二の曲輪、三の曲輪。本曲輪と見て回り、15時頃終了して万歩計を見ると、ちょうど1万歩でありました。ここは国指定史跡でよく整備されています。どなたにも、一度はおいでいただきたい所です。
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2016年11月01日

前ヶ崎城と太田六郎

千葉県松戸市の長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)は、日蓮大聖人の六老僧の一人日朗が地元の豪族平賀氏の屋敷内に開堂した古刹です。この寺はその後、千葉氏とその庶流高城(たかき)氏の庇護をうけて発展しました。またこの寺に伝わった、中世の「下総国小金本土寺過去帳」(千葉県指定有形文化財)は、歴史家にとって貴重な古文書です。
「続群書類従」の「下総国小金本土寺過去帳」の某年11月3日の項に「太田六郎殿 前崎落城打死、同戸張彦次郎殿討死」とあります。この年この日に、前ヶ崎城が落城し、太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にしたということです。このときとはいつか、前ヶ崎城で何が起こったのか、太田六郎、戸張彦次郎とはいかなる人物かを調べることにしました。
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(本土寺の山門)
私はJR山手線西日暮里から地下鉄千代田線で北小金へ行き、北小金駅から約10分歩き、先ず、松戸市の本土寺を見学しました。この寺は今では、あじさい寺として有名です。本土寺の門前通りに黒門屋という漬物店があります。そこで漬物を買い、若おかみに前ヶ崎城址への道を尋ねると、実に要領よく手振り身振りを添えて教えてくれました。おかげで、そこから約20分歩き、迷わずに前ヶ崎城址へ着きました。
またJR常磐線の柏駅からならば、東武バスに15分も乗ると流山運転免許センターへ着きます。免許センターの前の高台が、標高20m、比高13mの前ヶ崎城址です。
前ヶ崎城の築城年と城主については、特定はし難いものの、付近の小字名に「追手橋」とか、「刑部郭」の名称があったことから、室町時代に千葉氏庶流の高城氏家臣・田島刑部少輔がいたのではないかという説があります。(東葛飾郡誌)。
城は、かつては三本の東西の谷津に達する空堀によって、大きく三郭に分かれていました。今日では、土取りと宅地化によって先端部の一郭しか残ってないものの、そこは土塁によって本郭らしい感じを保ち、中世城郭の名残りが見える貴重な史跡となっています。
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(前ヶ崎城址入り口)
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(本郭址)
付近に戸張城、小金城、馬橋城等、約20カ所の城址があり、ほとんどが千葉氏庶流の高城氏の城でした。戸張城は、手賀沼の西南端部へ向けて突き出したような舌状台地上に築かれた城でした。戸張城も、築城年代や築城者について詳細は伝わっていません。「東葛飾郡誌」は、相馬系図を引用して相馬師常の三男行常が戸張八郎と称して、戸張城に在城したとも伝えています。

いくつかの太田氏系図には、太田道灌の弟として、太田資忠と太田六郎の名が記されています。また資忠と六郎を道灌の甥としているものもあります。ここでは、二人とも道灌の弟と考えます。
「太田道灌状」第20段に「(文明10年6月)同名図書助、同名六郎自両国奥三保へ差寄候処」とあります。ここに記されている六郎とは、資忠の弟六郎すなわち太田資常と思われます。そして、道灌は相模の奥三保攻略が終ってから、総州攻撃の準備をはじめました。道灌本隊の境根原攻撃に先立ち、文明10年11月3日に、太田六郎は上杉方についていた戸張彦次郎とともに、千葉氏の防衛ラインの一角であった前ヶ崎城への攻撃を開始したと推測されます。しかしそのとき、太田六郎軍は千葉氏方諸城からの猛攻撃に会って敗れ、二人は討ち死にしたものと思われます。前ヶ崎城は本土寺の近傍にあるので「本土寺過去帳」の前ヶ崎城落城に関する記事の信憑性は、極めて高いというべきです。

「太田道灌状」第22段に「(文明10年)十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年(文明11年)向臼井城被寄陣候」とあります。太田道灌の本隊は、前ヶ崎城の合戦から約一月後に、数キロ離れた境根原で千葉軍を打ち破り、臼井城へ追って約半年も包囲して落城させたものの、そこでは太田資忠が討ち死にしました。
同段後半に「於臼井城下、同名図書助並中納言以下親類傍輩被官人等数輩致討死候」とあります。この記述の中の「親類」とは、太田六郎を指していると思われます。この戦の後の文書に、太田六郎(資常)が登場しないことを考えると、六郎はやはり文明10年に前ヶ崎城で討ち死にしたと考えられます。道灌は、総州の戦で二人の弟を含む、多くの味方を失うという大きな犠牲を伴って勝利を得ました。

松戸市、柏市、流山市の境あたりは、一見平坦と思えるけれども、歩き回ってみると城山に適するような小山がたくさんあることに驚かされます。千葉氏はその地域の20余カ所に城を築き、上杉方とりわけ太田氏の江戸城に対する防衛ラインとしていました。道灌は、六郎の討ち死により、このラインを突破することがむずかしいと考えて翌月に、それより南側の江戸川に船橋をかけるという奇策で、国府台に攻め込んだのです。けだし、上杉氏・太田道灌33連戦の中で、道灌が最も苦戦をし、最も多くの犠牲をだしたのはやはり、千葉氏との激戦であったというべきです。
本土寺:千葉県松戸市平賀63
前ヶ崎城址公園:千葉県流山市前ヶ崎字奥の台
戸張城址:千葉県柏市戸張字城山台
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道灌紀行ニュース NO.2

   大田道灌と長尾景春の最終戦の地、熊倉城址探訪(秩父市)                                
さる10月29日(土)埼玉県秩父市荒川で第2回目の熊倉城址探訪が行われました。この企画は、NPO法人「秩父の環境を考える会・山里自然館」の主催で行われ、昨年第1回が行われたところ好評であったので、今年第2回目が、好天に恵まれて27名が参加して行われました。
一行は、朝9時に山里自然館(道の駅あらかわ)に集合し、地元郷土史家の先導で説明を聞きながら、徒歩で約1時間林道を登りました。城址には、堀切、犬走り、大手門、土橋、空堀、土塁、連格式の三つの郭が良好に残されていて、本郭と二郭の間にリニュウアルされた秩父市教育委員会の説明板があります。周囲はどこも急峻な崖となっていて、長尾流の縄張りが実感されます。郭の際には、犬走りならぬけもの道が続いているので、鹿や猪が隊列をなして走っていると思われます。
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(中央の山が熊倉城址)
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(途中、伝承の説明板を見る一行)
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(秩父市教育委員会の説明版)
4.熊倉城址けもの道.JPG
(本郭際のけもの道)

「太田道灌状」には、「(文明12年6月13日、太田道灌は秩父御陣で)先ず日野城(熊倉城)落居を急ぐべく旨仰せ蒙り候間、色々様々心を尽くして仕り候故、彼の城討ち落され候事、是又道灌の功に非ず候哉」とあります。景春軍はこの城に約10日間籠城したあと、道灌軍に水の手を絶たれて落城しました。
歴史の現場に立つと、「場の理論」により、その時の戦の状況が「色々様々」に思い浮かんできて話が弾みました。一行には、茨城県からきた熊倉さんや熊倉城址の地主である、地元の黒沢さんなども参加して貴重な話を聞くことができました。
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2016年10月03日

伝・大石氏の葛西城址

JR山手線の日暮里駅で京成本線の各駅停車に乗り換えると、七つ目の駅が青砥(あおと)です。青戸銀座を東の方へ5分も歩くと環状7号線へ出ます。この7号線に沿って、北方すなわち慈恵医大の方へ歩き、医大と青戸小学校を越えるとまもなく青戸7丁目の交差点があります。その交差点の手前右側が葛西城址・葛西城址公園で左側が青砥御殿址・御殿山公園です。中世にはもちろん、両方とも葛西城でした。青砥駅から車に乗る必要もないほどの距離です。
今は幹線道路に貫かれた城址であるものの、近くに中川が流れているので、往時は湿地帯に囲まれた微高地であったと思われます。
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(葛西城址公園)
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(御殿山公園)      
「太田道灌状」第30段にいわく、
「千葉実胤の事は、当方の縁者に渡らせ候といえども、大石石見守に招き出され、葛西へ越され候、公方様ヘ内々申される旨候、然りといえども孝胤出頭の事候間、許容なきにより、濃州辺へ流落し候」。《千葉実胤の事、当方(上杉氏)の縁者でいらっしゃったが、大石石見守に招かれ葛西(城)へ行き、古河公方に(実胤の下総復帰を)内々要望したが、千葉孝胤が出頭したので、許容されず濃州へ流れ落ちました》。
この文面から推測すると、文明10年頃、古河公方と長尾景春の与党であった大石石見守は葛西城にいて、千葉実胤と孝胤を招き談合したと思われます。葛西城は、千葉実胤の石浜城と千葉孝胤の千葉城の中間に位置していました。この談合は、千葉孝胤の口出しにより、実胤にとっては不本意に終わった模様です。そしてまもなく、文明10年暮れに、太田道灌軍は境根原で千葉軍と激突しました。
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(葛西城址公園内)
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(葛西城の城域を示す航空写真、左端は中川)
東京都教育委員会の説明板には、次のように記されています。
「葛西城は、中川の沖積微高地の上に作られた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱により葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の騒乱の舞台となった。後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は将軍の鷹狩りの休憩所・宿舎(青砥御殿)として利用されていた。
この葛西城が、再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和47年から発掘調査が行われ、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である」。

この説明に、葛西城の城主名が明記されていないものの、文明の頃、古河公方や千葉氏に与していた大石氏が葛西城主であった蓋然性は、「太田道灌状」の内容と相まって極めて高いと言うべきです。
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(城址を貫く環状7号線)
発掘された城址は、埋め戻されて環状7号線が建設されたので、葛西城の昔日の姿は永久に見ることができなくなりました。城址にたたずんで、夢幻のように浮かんでくる兵(つわもの)どものありさまも、幹線道路の激しい交通の動きと音によって、すぐにかき消されてしまいます。
葛西城址公園・御殿山公園=東京都葛飾区青戸7丁目21番地
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2016年09月01日

長井氏の片倉城址

JR横浜線の終点八王子から一つ手前の駅が片倉です。片倉駅から徒歩5分で片倉城址公園へきます。またJR八王子駅近くの横山町から国道16号線を南下すると、5分ほどで城址の入口へきます。健脚であれば、八王子駅から、街中を歩いても小一時間でくるでしょう。
この城址は今、東京都指定史跡片倉城址(公園)として手入れが行き届き、入り口の彫刻広場には、北村西望の彫刻とその関連の彫刻が林立して、文字通り芸術広場の雰囲気があります。
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(北村西望自刻像)
城中の住吉神社境内に東京都教育委員会の説明板があります。「新編武蔵風土記稿」(1830年)等によると、この城址の歴史は次のようです。平安時代中期以降、武蔵七党の一つ横山党がこのあたりを領していました。1213年(建保元年)、和田義盛挙兵の失敗により大江広元の領地となりました。室町時代に大江広元を祖先に持つ大江備中守師親あるいは長井時広が在城したといわれているものの諸説があります。
戦国時代にこの地は後北条氏の領地となり、1569年の三増峠(愛川町)の合戦のとき、北条氏照と氏邦は、この城から出陣して武田信玄の軍勢を追いました。
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(二の丸広場)
「太田道灌状」第33段には、次のようにあります。
「長井殿の事は、白井御座内に其色を顕し、在々所々において自身で太刀打たれ、家風数多討死す。粉骨定めて巨細に知ろし召されず候や。能く々々存知の人躰に、今に御尋ね有り、連々にその覚悟簡要に候。白井へも代官の為筑地、藍原、神保両三人参陣せしめ候キ」。《長井殿(広房)の事、白井御座で味方の態度を表し、方々で自身太刀を振り、家中の部下が多数討ち死にしました。きっと(顕定は長井殿の)苦労の一部始終を知らないのではありませんか。よく知っている者に、今尋ねるようにして、引き続きそういう考えを持つことが肝要です。(長井殿は)白井城へも代官として筑地、藍原、神保の三人を参陣させました》。
「太田道灌状」に登場する武蔵の長井氏には、二流あります。第33段に登場する長井氏については、その原注に「長井大膳太夫広房、扇谷婿」とあります。長井広房の妻は扇谷上杉持朝の娘で、その居城は片倉城であったと思われます。
一方第24段、第26段の長井城、長井要害は熊谷市の西城でそこに「史跡・西城本丸跡の碑」があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。

この城址公園には、一郭、二郭、腰郭、空堀と土橋などが残っています。郭は芝生でおおわれ、深く切り込んだ谷や蓮池、菖蒲池、カタクリ群生地もあり、変化にとんだ地相を楽しめます。
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(彫刻広場)

JR八王子駅の近くに、間接的にしても太田道灌有縁の城址が、立派に保存され、しかも芸術とコラボレーションしているとは、思いがけない喜びであります。都立の施設なので全く宣伝していませんがよい所なので、一度の訪問をお勧めします。
片倉城址公園=東京都八王子市片倉町

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2016年08月01日

高松城址と日尾城址

1478年(文明10年)7月18日太田道灌は、長尾景春の鉢形城を攻め、秩父へ後退させました。この時景春が秩父の拠点としたのは、「太田道灌状」によると秩父高佐須と日野要害です。秩父高佐須については、ほぼ塩沢城(小鹿野町塩沢)に比定され、日野要害については、ほぼ熊倉城(秩父市荒川日野)に比定されています。しかし日野要害すなわち日野城については、高松城(皆野町下日野沢)説も根強く残り、日尾城(小鹿野町日尾)説もあります。また、「太田道灌状」の秩父高差須と日野要害はともに熊倉城を指すという説もあり、秩父地域での郷土史家の論争はにぎやかです。
ちなみに、前島康彦氏は「大田氏の研究」のなかで日野城の熊倉城説をとり、勝守すみ氏は「太田道灌」のなかで日野城の高松城説をとっています。熊倉城址については、拙著「道灌紀行」にすでに記したので今回は、高松城址、日尾城址の2城址を踏査し、その関連文書、地勢等から様々な蓋然性を考えます。
1.高松城址
埼玉県皆野町で、国道140号線から県道44号線に入り、皆野町森林組合の辺りで西方の山道に入ります。やや進んで高みから下を見ると、眼下に赤茶けた土で覆われた円形の平場が見えます。そこが高松城址です。周囲に山の神山や円錐形の旗塚が見えます。現在、高松城址は入山禁止となっています。高松城は、皆野町下日野沢の北方の高松という地域にあり、城山の下を日野沢川が流れています。日野沢川にちなみ、高松城を日野城に比定する研究者もいました。
「北武蔵名跡志」(1853)の日野沢村の項に、「小地名 龍ヶ谷と云、山は古城跡ありて其麓を根小屋と云、長尾氏の住しは茲にて文明12年(1480)6月24日長尾景春入道伊玄が守処の、秩父日野要害没落とあるも、日野は日野沢にて此所なるべし」とあります。また「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の項には「高松城址、村の東にありて登ること凡そ十町にして山上平坦四十間四方許、所々堀切等今猶存せり。鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城居なり」とあります。中世の高松城主は明らかではないものの、この城は上杉氏の管轄下にあり、秩父谷から児玉の御岳城へいたる高松筋の始点として、重要な役割を果たしていたと思われます。
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(高松城址遠望) 
高松城址は私有地であったため、1974年(昭和49年)珪石鉱山として開発され、今は城址の跡形もなくなっています。削り取られる前の高松城址の写真を見ると、確かに城山の頂上は平坦で広く、すぐ下に深い堀切が写っています。開発される前に行われた総合調査の結果、高松城の各種の遺物は八王子城址出土の遺物に酷似し、その遺跡の造営年代は16世紀代であるとされました。
高松城址.JPG
(削りとられた高松城址)
私たちは最初に、皆野町農山村具展示館の高松城址模型を見ながら、元館長高橋孝久氏の説明を聞いたあと、地元の郷土史家栗原一夫氏の案内で現地へ行きました。
高松城の位置が、複雑な秩父谷に囲まれていて、その来歴もまた複雑であるためか、ここが長尾景春籠城の日野城であったかどうかは、郷土史家の間でも種々の論議が渦巻いています。

2.日尾城址
埼玉県小鹿野町で、国道229号線の黒海土で県道37号線に入り、やや行くと合角ダムへきます。その近くの根小屋という集落をさがし、そこから沢に沿って登ります。巨大な奇石が次々と現れ、秘境の雰囲気を醸し出しています。私は、ここは観光地としてもいいな、とふと思ったものの、今はこんな山奥まで来る人はほとんどいません。牛首峠で丸木の階段を上ると日尾城址の本丸にきます。
「北武蔵名跡志」(1853)の日尾村の項に「鎌倉大草紙に文明12年(1480)6月24日長尾右衛門 尉景春が守所の秩父日野要塞没落とあるも日野は誤にて日尾なるべき歟」とあります。日尾城は、鉢形北条家の家老、諏訪部遠江守定勝を城主と伝え、天神山城(長瀞町)、虎が丘城(長瀞町)、高松城(皆野町)、根小屋城(横瀬町)とともに武田勢に対する後北条家の備えとされました。1561(永禄4年)の文書と見なされる北条氏政書状では、日尾城はこの時、後北条方の南図書助によって攻略されたと記されているので、諏訪部氏の入城前にも存在したと思われます。
このように、日野城の日尾城説は、音声上の類似に拠っているものの、この地域に長尾景春にかかわる伝承は全くありません。
牛首峠から本末へ.JPG
(牛首峠から本丸へ)
本丸の高みに「日尾城址の碑」が立っています。二の丸、三の丸もあり、相当広い城域となっています。
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(日尾城址の碑)
今日、日野城の日尾城説をとる研究者はほとんどいません。私たちを案内してくれた、小鹿野町の郷土史家高橋稔氏も、日尾城址周辺には、長尾景春にかかわる言い伝えが全くないので、長尾景春の日尾城築城を語ることはありませでした。



posted by otadoukan at 13:13| Comment(0) | 高松城址と日尾城址

道灌紀行余話(東伊豆町)

伊豆熱川温泉「道灌の湯」復活                                    
伊豆新聞の2016年7月9日号に次のように記されています。
『「道灌の湯」シンボルに、休止源泉再生へ、湯煙上げ夜は電照、熱川観光協。
東伊豆町の熱川温泉観光協会は、濁川河口にある同温泉発祥の湯で、現在利用を休止している源泉「道灌の湯」を再整備する。温泉を引き込んで湯煙を上げ、夜間はライトアップするなどして同温泉のシンボルとして再生する』
『地元には、江戸城を築城した室町時代の武将太田道灌が、天城に巻き狩りに来た際、川の河床から湧き出た温泉で湯あみする猿を見つけ、自らも湯に浸って疲れを癒したという伝説がある。熱川温泉の歴史は、道灌の湯の名で住民に尾古くから親しまれたこの第1号源泉から始まり、伊豆屈指の温泉場として発展してきた。(中略)同協会関係者は、「道灌の湯を熱川温泉の新しいシンボルとして再生し、湯煙立つ温泉やぐらとともに全国に発信したい」と意気込んだ。』
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(道灌湯の入り口に立つ太田道灌とサルの像)
posted by otadoukan at 12:02| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2016年07月20日

越生近況・「太田道真退隠の地」の碑等

埼玉県越生町は太田道真・道灌のふるさとを標榜し、最近様々な取り組みが行われています。JR八高線越生駅前の広場には、ハイキングの町と太田道真・道灌ゆかりの地をアピールするための、巨大なパネルが並んでいます。
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(太田道灌誕生地のパネル)
このパネルをよくよく見ると、題字の先頭に、小さく小さく(伝)の字が記されています。道灌誕生を主張するところは、他に伊勢原、鎌倉があります。
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(太田道灌史跡の案内)
このパネルの右下に、法恩寺の文書を引いて「山吹の里歴史公園」の由来が記されています。「山吹の里」は、関八州に数々あれども、古文書で証明されるところは、越生だけです。

1.「太田道真退隠の地」の碑
1928年(昭和3年)に建立された「太田道真退隠の地」の碑は従来、越生町小杉の山際の畑の片隅に立っていました。このように立派な碑が、なぜこんな妙な所にあったのでしょうか。理由を知らない、多くの探訪者にとって、それはミステリーでありました。今春遂に町当局が、この碑にとって最もふさわしい自得軒跡すなわち建康寺の寺域に、この碑を移設しました。
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(建康寺と「太田道真退隠の地」の碑・建康寺の檀家総代戸口訓男氏撮影)
この碑の碑文は次の通りです。
「太田道真ハ岩槻城主備中守資清ト称シ自得軒ト号ス道灌ノ父ニシテ当代ニ威名アリ其ノ終焉ノ地トシテ保存セラル
      昭和三年二月二十三日 史跡保存指定」(実物の碑文漢字は旧字体)

また建康寺の、リニュウアルされた説明版にいわく、
『建康寺    越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに、江戸城、岩槻城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒跡と推定され「太田道真退隠の地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486年)6月、道灌は友人万里集九とともに道真を訪れた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」に、その折に詠じた次の七絶が収められている。
      稀郭公(ほととぎす稀なり)
  縦有千声尚会稀(縦へ千声ありと云えども尚会うは稀なり)
  況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
  誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
  細雨山中聴未帰(細雨山中に聴きて未だ帰らず)
翌7月道灌は、相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また堰と導水路の跡が造る水車「才車」の「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
           平成25年3月 越生町教育委員会』
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(建康寺参道と太田道灌大河ドラマの旗・戸口氏撮影)

2.太田道灌の新銅像
2016年1月、越生町の「里の駅おごせ」展示場で、「太田道灌銅像写真展」が開催され好評を得ました。その際、越生町町長室に秘蔵されていた、彫刻家三枝惣太郎氏制作の太田道灌像の原像が披露されました。この像は、弓を持って狩りをする、たいへん躍動的な太田道灌像の傑作です。その像が近々に銅像となって、越生町役場のロビーをかざることになったので、町民と関係者の期待が盛り上がっています。
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(太田道灌像の原像・三枝惣太郎制作) 

3.太田道灌ハイキングコースと道灌団子
2016年7月16日「第17回太田道灌の集い」は、伊勢原市民文化会館で550人が出席して賑やかに開催されました。その際、出席した越生町長新井雄啓氏は「ハイキングのまち宣言!」を行い、観光コースNO.1として「太田道灌ゆかりコース」を紹介しました。
0章:カバー(裏)史跡「山吹の里歴史公園」(越生町).JPG
(山吹の里歴史公園)
それは、越生駅、山吹の里歴史公園、建康寺、山枝庵、龍穏寺をめぐるコースで、最後に名物「道灌団子」を食べることができます。新たに発刊された「越生町ハイキングガイドブック」(地図付き)に、詳しい情報が載っています。

2016年06月02日

道灌紀行ニュース NO.1  

第17回 太田道灌の集い
関八州・駿河・伊勢原心ひとつに 太田道灌を大河ドラマに
とき:平成28年7月16日(土)午後1時より
ところ:伊勢原市 市民文化会館大ホール
主催:第17回太田道灌の集い実行委員会
   太田道灌を大河ドラマに!推進準備実行委員会
㉙伊勢原市役所の太田道灌像.JPG  
伊勢原市役所前の太田道灌銅像(慶寺丹長制作)

オープニング13時より
(第1部)式典13時20分より
   太田資暁会長挨拶
   伊勢原市長挨拶
   各市各界代表挨拶
(第2部)講演・芸能発表 14時20分より
   小説「道灌」著者 歴史小説家 幡大介さん挨拶
   甲冑隊演舞 
   歌 小倉恵子さん
   踊り 五条詠寿郎さん
    15時30分ごろより
   落語 三遊亭遊吉さん  金原亭馬玉さん
   大河めざしてがんばろう、の出演です。
   みなさま、太田道灌の大河ドラマ実現を目指して、
   お気軽にご来場ください。

☆記念誌発売
現在編集中の「太田道灌530回忌記念誌」も当日販売の予定です。

☆大河ドラマ署名
太田道灌の大河ドラマ実現をめざす署名は、おかげさまで5万8000筆を越えました。引き続きご協力をお願いします。
posted by otadoukan at 12:17| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.1

2016年06月01日

渋川氏の蕨城址

東京都のJR山の手線の池袋あるいは田端から東北線に乗り換えて、約20分で蕨市につきます。駅の西口から西方へ徒歩約10分で、蕨城址公園にきます。城址の入り口に蕨市教育委員会の説明版がありいわく、
「蕨城は、南北朝時代に渋川氏が舘を構え、大永4年(1524年)に北条氏綱により攻撃され、破壊されたと言われています。江戸時代の初めには、徳川家の鷹狩り用の御殿(休憩地)として城跡が利用されました。江戸時代に記された絵図面によると東西が沼、深田に囲まれた微高地上に、幅約11.8mの囲堀と幅約8.2mの土塁をめぐらし、堀の内側の面積は約12,200uとなっています。
(中略)」また昭和36年(1961年)11月、本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の『蕨城址碑』が建立され、現在は蕨城址公園として整備されています」と。
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(蕨城本丸跡)

「太田道灌状」35段には、次のように記されています。
「渋川左衛門佐殿の御事は、板倉美濃守は最初より道灌に同心の儀をもって、相州所々にて合戦せしめ、御迎に参り、用土原においての御合戦の時も手を摧き、白井へも御共致し、御再興以後小机並びに相州奥三保、下総境根原合戦時も戦功他に異なり候、左衛門殿は白井御留守、相州並びに鎌倉辺りの所々において、ご自身太刀打たれ、御家風中で少々討ち死にし、御粉骨比類なく候処、御名字の地渋川庄今も相違せしむるの段、都鄙に聞え、誠に然るべからず存じ候」《渋川左衛門佐殿の事は、(家老の)板倉美濃守が最初より道灌に同心の行動をとって、相州の所々にて合戦をし、(顕定を河内御座へ)お迎に参り、用土原においての御合戦の時も相手を討ち、白井(城)へもお伴をし、ご再興以後も小机城並びに相州奥三保、下総境根原合戦の時も戦功が他に勝っています、左衛門殿は白井城に留って守り、相州並びに鎌倉あたりの所々において、ご自身太刀を振るって御家中で少々討ち死にし、ご粉骨比類ないところ、御名字の地渋川庄が今も安堵されていない事実が、都鄙に聞え、誠にあってはならないことと思います。》
 
渋川義鏡は、室町時代後期の武将。享徳の乱を鎮めるために室町幕府から関東に派遣された堀越公方足利政知の補佐役として、共に下向しました。関東(武蔵蕨郷、現在の埼玉県蕨市)に分家が存在していた事、渋川氏が足利氏一族でも家格が高い家柄であった事が理由ではないかといわれています。
渋川氏が関東に派遣された長禄元年は、この時代のひとつの節目となる年でした。江戸城と河越城の築城、五十子陣城の構築、堀越公方の関東下向など重要な出来事が目白押しです。
「太田道灌状」の一節「御名字地渋川庄干今令相違之段」の原注に「自山内渋川所領横領」とあるように、渋川氏は山内上杉家に所領を没収され、後に、扇谷上杉家とも対立して失脚しました。渋川氏は、太田道灌の与力として大活躍したことが裏目に出て、上杉氏の不興を呼んだと思われます。
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(蕨城址碑)        
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(「青春」の碑)
群馬県渋川市にあった渋川庄は、平安時代末期にもともと、出自不明の渋川氏が領していたものの、渋川氏が没落して欠所となっていました。その後斯波氏の一族がその地に拠り渋川氏を名のりました。その支族は蕨城に拠り栄えていました。
蕨城址の本丸跡に巨大な「蕨城址碑」があります。碑の裏面に、諸橋轍次撰の長い碑文が刻まれています。いわく「蕨城の歴史は貞治年間武蔵国司渋川義行ここに城居し長禄元年曽孫義鏡関東探題として鎮を定めてより二百余年代々渋川氏の拠るところとなる(後略)」と。

また道灌は「太田道灌状」35段に「相州並びに鎌倉辺りの所々に於いて」と、相州と鎌倉を立て分けて記しています。これが当時の一般的な認識であったとすると、道灌にかかわる「相州」の記述は、鎌倉ではなく伊勢原を指すことになり、道灌の出生地に関しても伊勢原である推測がなりたってきます。

またこの城址には、アメリカのアラバマ州の実業家サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman 1840〜1924)の詩「青春」(YOUTH)の詩碑があります。その中にいわく、
「(前略)Nobody grow old by merely living a number of years; people grow old only by deserting their ideals.(後略)《人は、年を重ねることのみで老いることはなく、人は、その志操を捨て去ることでのみ老いるのです≫》(尾崎孝訳)
蕨市出身の岡田義夫氏がこの詩の全文を翻訳したことにちなみ、英文と和文併記の詩碑がこの城址に建てられました。
蕨城址=埼玉県蕨市中央4-21
posted by otadoukan at 23:42| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)