2020年03月13日

道灌の足柄越え・駿河遠征

現在、箱根越えと言えば誰でも、あの有名な箱根駅伝のコースとなっている国道1号線を思い浮かべます。ところが実は、古代の箱根越えのメインルートは、金太郎伝説で有名な足柄峠越えルートでした。800年の富士山延暦噴火で御殿場側の道が不通となり、現在の箱根峠越えの道が開発されました。その後、足柄峠越えの道は復旧したものの今では脇街道となっています。太田道灌は生涯で二度、足柄峠越えをしたので、その足跡をたどります。
伊勢原市から車で国道246号線を西へ向かい、秦野市、大井町を経て255線に入り、さらに神奈川県道78号御殿場大井線へ入ります。この道が昔の足柄峠越えの道で、まっすぐ西へ向かうと標高759メートルの足柄峠へ着きます。もちろん途中は、急坂やピンカーブがたくさんある難路です。
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(万葉足軽公園からの富士山)
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(万葉歌碑)
峠の県境の神奈川県側には万葉足柄公園があり、樹間から急に大きな富士が見えるのであっと驚きます。万葉集の防人の歌の碑があり、碑にいう「足柄の御坂に立して袖ふらば 家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも」と。これは、出征する兵士の歌です。
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(足柄峠の説明版)
足柄峠の静岡県側には足柄城址があり、その城山に立てば、富士山の全容が視野いっぱいに迫ってきます。
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(足柄城址の碑)
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(城山の碑)
1465年(寛正6年)太田道灌は、足柄峠を通って上洛した可能性があります。そのとき道灌は、足利義政と会見して江戸城の事を問われ「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠みました。道灌は江戸城静勝軒の軒端に見える富士の遠景と、足軽峠から見えた富士の全容を比べて、感に堪えたことでありましょう。
『太田道灌状』には、次のように記されています。「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かい、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候」。
1476年(文明8年)6月太田道灌は、主命を受けて今川氏の跡目争いを解決するために、駿河へむかいました。道灌はその日、騎馬武者と足軽等約300人を率いて、早朝に相模国伊勢原の上杉氏守護所を発ち、第一日はこの足柄城で幕営したと思われます。一行は途中、難所で大いに汗を流したものの、峠から見えた富士の雄姿にしばし疲れを忘れたことでありましょう。
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(足柄城址からの富士全容)
足柄城の築城者は、一説によれば太田家の盟友大森氏ですが、詳細は詳らかではありません。いずれにしても、伊勢原からここまで約35キロであるので、騎馬隊や健脚の足軽隊にとっては、難路を考慮しても一日の行程としてちょうどよい距離です。
翌日、道灌一行は峠を駆け下り、一気に駿河の八幡山城まで走ったと思われます。駿河で太田道灌は、伊勢新九郎(北条早雲)と談合し、今川家の嫡男竜王丸が成人するまでの間だけ、上杉家縁者今川範満が駿河守護職を代行する、という妥協案で一応の決着を見ました。
この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。また、御殿場へ下る峠道の途中に、富士眺望日本一を誇る「誓いの丘」があります。『強力伝』『芙蓉の人』『富士山頂』など富士にかかわる小説をたくさん書いた新田次郎の文学碑と誓いの鐘がそこにあります。
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(日本一の富士眺望と誓いの鐘)
道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、伊豆の北条(伊豆の国市)へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告し、また足柄峠を越えて武蔵へ帰りました。道灌にとって、事前の段取り等をふくめて約七か月の骨折りでありました。
道灌の駿河遠征の最中に、武蔵では長尾景春の乱が勃発し、関八州は急を告げていました。道灌はこのあと、30数回の戦に突入していきます。
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2020年02月21日

養竹院と密厳院そして叔悦禅懌と資家

鎌倉の円覚寺の第150世住持であった叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)は、太田道灌の弟(太田潮田系図)とも甥(太田資武状)ともいわれています。叔悦は、1525年(大永5年)に86歳で示寂したといわれているので、生まれは1439年(永享11年)で道灌より7歳年下でありました。
道灌の詩友万里集九は、道灌没後に叔悦に宛てた書簡(梅花無尽蔵)で、道灌や叔悦との「文騒」(文学談義)が懐かしい、と記しています。口角泡を飛ばす文学論争をした三人は、年齢があまり離れてはいなかったのです。私はここで、埼玉県教育委員会の弟説に従っておきます。
埼玉県川越市の養竹院(ようちくいん)と上尾市の密厳院(みつごんいん)は、両寺とも叔悦禅懌が開山となり、道灌の養子太田資家が開基となった臨済宗の寺です。最初に養竹院を訪れ、そのあと、そこから約4キロ東にある密厳院へ向かいました。両寺とも駅から離れているので、車で行かねばなりません。

養竹院
川越城址から国道254号線を少し北上し、宮元町で県道12号線へ入ります。表(おもて)というところを過ぎてから右折するとすぐ左手に養竹院の山門が見えます。
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(養竹院の山門)
山門の近くに「太田道灌陣屋跡」の碑があり、左右に水濠の遺構があります。
『太田資武状』の第2の書状の第3段にいう。「叔悦和尚の兄是も甥に候故、家督を与奪致され、川越西門の屋敷へ相い移られ、股肱の臣なりと謂われた人に御座候」と。
また第7段にいう、「河越西門に之有は養竹院殿義芳賢公庵主、その次智楽道可庵主、さて亡父をは智正院殿岳雲道端庵主と申候、仮名ニハ源の字伝リ申候、戒名ニハ道ノ字備リ申候由候事」と。
ここでいう河越城の西門の屋敷とは現在の養竹院で、太田資家はここに居住したことがあり、資頼、資正の位牌もここにあると思われます。
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(太田道灌陣屋跡の碑)
山門を入ると説明版があり、叔悦禅師頂相(ちんぞう)のことが記されています。説明版にいう。
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(叔悦禅師頂相の表示)
県指定有形文化財 紙本着色叔悦禅師頂相
        比企郡川島町大字表常楽山養竹院(埼玉県立博物館蔵)
養竹院は明応の頃(1492〜1500)太田道灌の養子の岩槻城主太田信濃守資家が道灌の菩提を弔うために建て、道灌の弟の叔悦(1525年寂)が鎌倉の円覚寺から招かれて開山となりました。
叔悦禅師頂相とは、禅宗の坊さんである叔悦が、曲ろくという椅子にかけた縦83センチメートル、横37.5センチメートルの肖像画のことです。
 叔悦のあとをついだ奇文という坊さんが描かせたもので、絵の上部には、建長寺の賜谷という人が賛(たたえたことば)をしています。この賛には、叔悦が相模地方で生まれ、若いころから円覚寺で学問や修行をした立派な坊さんであることが記されています。
 絵の色がだいぶ薄くなってしまい、下絵の線が見えていることところもありますが、叔悦がまだ生きていつ頃の姿がわかるのみならず、室町時代の坊さんの様子がわかるので県内ではたいへん貴重なものです。
 なお養竹院には、資康の子資頼の姿を画いた画像やその他のものもあります。 
 昭和57年3月27日 埼玉県教育委員会 川島町教育委員会

養竹院横の墓所には、「資」の付く名前の墓石がならび、それらの中央に、太田資家夫妻の二つの宝篋印塔が並んでいます。 
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(太田家の墓石と資家夫妻の宝篋印塔・後列左)

密厳院
養竹院を出て、県道12号線をさらに東のほうへ約4キロ走ります。桶川西高という交差点で右折し、上尾市藤波に入ると密厳院があります。
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(密厳院の山門)
本堂の左側の墓所の奥に歴代住職の卵塔が並んでいます。一番右側の碑だけが角形の墓碑で、よく見ると「淑」の字だけが判読できます。それが叔悦禅師の墓碑と思われます。
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(叔悦禅師の墓碑か)
墓域の西南端に、後年の建立と思われる開山塔があります。
『新編武蔵風土記稿』には、密厳院の縁起として「本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶の刻める長一寸八分の尊像を収む、其の正しきことを知らず、文書二通を蔵す、一つは大道寺駿河守政繁より與へし制札なり」と記されています。
運慶作の尊像と大道寺政繁の制札は、現在行方不明です。叔悦禅師筆の紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経が当寺に伝えられています。

密厳院の本堂脇には、黒御影石の立派な戦没者慰霊碑が建っています。大東亜戦争の悲惨な結果が記され、この地区から出征して戦死した22名全員のフルネームと位階が記されています。同じ苗字の人たちも何組かいて、位階はみな陸軍上等兵や兵長です。武勲を示して散華したといわれながら、残された人々のやりきれない悲しみがひしひしと伝わってくる慰霊碑です。
叔悦禅師も、兄弟である太田資忠や六郎を戦で失い、やがては道灌をも失いました。太田道真は河越城での「川越千句」で、「西よりも来ぬる 仏の法の道」と、また「争えることなく 国ものどけきに」と非戦の句を詠んでいます。叔悦禅懌はその思いを継いで、のどけき国を願い仏道に励み86歳の天寿を全うしました。

2020年01月07日

狭山の天女稲荷・道灌有縁

私が住んでいる東大和市の尾ア市長は、郷土史による町おこしに熱心です。先日市長に会い、郷土史の情報を提供した際、市長は自らのスマホの画面を開いて、地元の多摩湖近くにある道灌有縁の天女稲荷を教えてくれました。
西武新宿線あるいは西武池袋線で西へ向かい、所沢で乗り換えると西武球場にきます。西武球場の正面に、西武球団が必勝祈願をする狭山山不動寺があり、その入り口に例の「太田道灌御神木」があります。
不動寺に向かって左折してちょっと坂を登ると山口観音があります。ここは狭山33所の一番です。山口観音の境内は広く、あちこちに拝むところがたくさんあり、弘法大師の銅像や新田義貞公の霊馬もあり迷います。
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(新田義貞公の霊馬)
『狭山の栞』という地元の地誌の山口村の項に言う、「往古太田左衛門佐道灌、文明十八年、讒者のために相州粕谷の舘に亡ぼされ、家臣日暮里玄蕃(にっぽりげんば)当地に移住せしが、後豊島郡に移り彼の地を日暮の里(ひぐらしのさと)と云いこの地を日暮里(にっぽり)と言いしを何時のころよりから新堀(にっぽり)といい傳ふ」。
境内左方の中腹に天女稲荷という小社があります。「狭山の栞」の山口観音の項にいう、「天女稲荷は日暮里玄蕃の勧請にして当山の鎮守とす。元は太田道灌所持の霊像なりといふ」。
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(天女稲荷の小社)
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(天女稲荷の説明板)
天女稲荷の説明板にいう、「太田道灌の家臣により奉納され、五穀豊穣・万民豊楽を祈念す。農業・衣料・水に関わる商人に霊験あらたか」。御開扉していないので、残念ながら天女稲荷を拝見するとてはできません。
首都圏に太田道灌有縁の稲荷社はたくさんあります。もっとも有名なのは、千代田区の太田姫稲荷神社です。道灌は娘の病気平癒のため京都山城の国の一口(いもあらい)稲荷に代人を送って祈願し、病気平癒後に稲荷を江戸城の鬼門(東北)に勧請しました。日暮里玄蕃はおそらくこの稲荷を勧請したのでしょう。なぜなら「姫」と「天女」はイメージが通じます。
山口観音に天女稲荷を勧請した、道灌の家臣日暮里玄蕃という人物については、今後の研究課題です。
「狭山の栞」は1939年(昭和14年)杉本林志により刊行された地誌です。

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2019年11月03日

道灌紀行ニュースNO.15 あらかわと太田道灌(企画展)

2019年11月2日(土)東京都荒川区の荒川ふるさと文化館で、荒川区と荒川区教育委員会主催の企画展「あらかわと太田道灌」がオープンしました。
JR山手線の日暮里駅から常磐線で二つ目が南千住(みなみせんじゅ)です。駅の西口から出ると、俳聖松尾芭蕉の矢立初めの銅像が迎えてくれます。1689年(元禄2年)芭蕉はここから奥の細道の旅に出発しました。
         行はるや鳥啼うおの目ハ泪  
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(南千住駅前の松尾芭蕉像)
駅ロータリーから、コミュニティバスさくらの左回りに乗ると二つ目が、荒川ふるさと文化館です。
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(荒川ふるさと文化館の入り口)
企画展「あらかわと太田道灌」の内容は、
「序.道灌の肖像、
1.道灌の時代、
2.あらかわに息づく道灌」
の三つのエリアに分かれています。
荒川区には、道灌山、本行寺、山吹の里、石浜神社、道灌の歌友木戸孝範、万里集九有縁の地などの道灌史跡、伝承地とともに、回天一枝の道灌像、山吹の女の像など見どころがたくさんあります。したがって、この地特有の展示物や写真が多数展示されていて見ごたえがあります。私は、地元の大行寺の道灌の鰐口を、はじめて拝見し、長年の願いが叶い大いに喜びました。
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(大行寺の鰐口・図録より)

入場料が100円で、立派な企画展図録が500円以下という破格のサービスも特筆すべきです。講演会も行われます。
この企画展「あらかわと太田道灌」は12月1日(日)まで開催されていますので、ご来館をお勧めします。
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(企画展と道灌まつりのチラシ

追記
11月9日(土)には、JR日暮里駅前で昨年に続き「日暮里道灌まつり」が開かれ、道灌ゆかりの地域の店舗による物販とPR、ステージイベントなどがにぎやかに行われました。
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(伊勢原市の手作り甲冑隊と武蔵村山市の武士団村山党の共同パフォーマンス)

追記2
荒川ふるさと文化館から、町屋駅に移動すると、山吹伝説の地が2か所あります。
町屋駅近くの臨済宗の寺泊船軒の境内に「山吹の塚」があり、近くの落慶碑の碑文にここは「三河島山吹の里」だと記されています。
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(泊船軒の山吹の塚)
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(落慶碑)

また、町屋駅から5分も歩くと荒川6丁目に、花の木児童遊園があり説明板に、山吹の女はここで太田道灌に山吹の花を渡した、と記されています。
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(花ノ木児童遊園)
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(児童遊園の説明板)





2019年10月06日

心敬塚の記念碑、伊勢原市三ノ宮に建立

今年10月5日、6日には、第52回伊勢原観光道灌まつりが開催され、初日には上粕屋の洞昌院で太田道灌の墓前祭が行われました。洞昌院の道灌墓所の歌碑に「雲もなほ さだめある世の しぐれ哉 心敬」とあります。墓前祭終了後に私は太田資暁氏と、伊勢原市三の宮の心敬塚へ向かいました。連歌師心敬は道灌が主催した『武州江戸歌合わせ』の判者でありました。
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(伊勢原観光道灌まつり・甲冑試着コーナー)
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(洞昌院・太田道灌墓所の心敬歌碑)
洞昌院の道灌墓所から西へ向かい、大山道を横切って山王中学校の前を進みます。県道612号線で右折し、すぐ消防署の手前で左折します。大山川(鈴川)を渡りすぐ右折して田舎道をのぼります。道なりに200メートルも進むと丘の上に、真新しい心敬塚の記念碑が立っています。この碑は、最近建立されたばかりのためか、伊勢原市の観光地図にも道の記載がなく、道案内板など全くありません。私たちはここまでくるのに、野菜売りのおばさんなど地元の人に何回も尋ねながらようやくたどり着きました。
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(心敬塚から江ノ島方面を望む)
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(背後の大山山塊)
この丘から南東方面には伊勢原市が俯瞰でき、その向こうには江ノ島が見え、背後に大山がそびえています。それは、ここまでたどり着いた苦労が吹き飛ぶような絶景でした。心敬が、ここに住み着いて生涯を終えた理由の一つがわかったような気がしました。
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(心敬塚の記念碑)
心敬の生涯と太田道灌とのかかわりについては、この塚の説明文に簡にして要を得て記されていますので、その全文を掲載させていただきます。
「連歌中興の祖といわれる心敬は、応永13年(1406)紀伊国に生まれた。幼少のころに出家し、京都東山の十住心院の住持となり、後に権大僧都に至った。正徹(しょうてつ)に和歌を師事し『ささめごと』『老いのくりごと』『心玉集』『心敬僧都百句』『芝草』などの著作を残した。連歌七賢の一人で弟子に宗祇がいる。
応仁の乱を避け、関東へ下向し、太田道真・道灌父子と親交を結んだ。文明3年(1471)夏、大山山麓の浄業寺に身を寄せ、同6年に江戸城で開かれた道灌主催の『武州江戸歌合せ』の判者を務めた。翌7年4月16日に当地石蔵(いしくら)にて没した。享年70歳。
当地では、心敬が『遠海を 緑によする 夏野かな』を読んだとされる。
大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都や故郷を偲んだのであろうか。地元では古くからこの丘を心敬塚と呼び、心敬を祀る地として手厚く護持している。
平成31年3月16日
(英文説明、略)
「伊勢原市歴史文化を生かした地域作り協議会」

心敬の墓所は、北東下方約200メートルの浄業寺にあったとの伝承があります。

2019年08月27日

掛川太田氏と妙法華寺

箱根峠を越えて
東京の新宿から小田急ロマンスカーに乗ると、約1時間で小田原に着きます。小田原駅近くでレンタカーを借りて、国道1号線で箱根の山を登りました。土木遺産の函嶺洞門など、箱根駅伝でなじみ深い地名が次々と出てきます。元箱根を通り、箱根峠から1号線で三島市を目指して山を下ります。ほどなく山中城址へくるのでこの辺で、ナビに妙法華寺を入れます。山裾のやや複雑な田舎道を案内されて、30分くらいで静岡県三島市玉沢の妙法華寺境内に着きました。JR三島駅からは、1時間に1本くらいの妙法華寺行きの定期バスが出ているそうです。
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   (玉澤妙法華寺)
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   (寺の由緒書き)

掛川太田氏の菩提寺
この寺は、日蓮宗の経王山妙法華寺と称し、1284年(弘安7年)に日蓮大聖人の六老僧の一人日昭が鎌倉の海浜玉澤(現材木町)に建立しました。鎌倉の戦乱を避けるため越後村田(長岡市)、伊豆加殿(伊豆市)を経て、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転、広大なその地を玉澤と改称しました。
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(玉澤道場)
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(日蓮大聖人像と開目抄の碑)
この寺の由緒書きに次のように記されています。
「寛永二年九月徳川二代将軍秀忠公より約五十万坪の寺域を御朱印地として寄進され、家康公の側室にして紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母、光圀公の祖母、養珠院お萬の方並びに英勝院お勝の方、及び太田道灌家の五代道顯公等の絶大な資援により大伽藍玉澤道場が竣工したのである。(抜粋)」

玉澤道場からすこし離れた玉澤霊園の奥に、掛川太田家霊廟があり、掛川藩の初代藩主太田資俊(すけとし)、二代藩主資愛(すけよし)、三代藩主資順(すけのぶ)、四代藩主資言(すけとき)、五代藩主資始(すけもと)、六代藩主資功(すけかつ)、七代藩主資美(すけよし)等の墓があります。
妙法華寺の由緒書きに記された「太田道灌公五代の道顯公」とは、英勝院お勝の方の兄太田重正のことであると思われます。重正の墓もまた妙法華寺にあります。

安定する掛川藩
太田道灌五代の子孫太田重正は徳川家康から召し出され、妹のお勝(英勝院)は家康の側室となり、息子の資宗は徳川家に仕え、その子孫資俊は1746年(延享3年)に掛川城主となり掛川藩五万石の祖となりました。掛川藩は、太田家代々の藩主の努力により藩政が安定し、幕閣へ老中、大阪城代、京都所司代などの人材を輩出しました。
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(掛川城)
三島市より東海道線で西へ移動すると静岡県掛川市へ至り、駅近くに掛川城址があり、掛川太田氏の多くの史料と史跡を見学できます。
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2019年07月23日

太田氏発祥の地・亀岡市を訪ねる

丹陽の地・亀岡市薭田町太田
私は夏の晴れた日に、太田氏発祥の地・丹波の亀岡市へ行きました。京都駅より嵯峨野線に乗り小一時間で亀岡駅につきます。保津川渓谷の鉄橋を何回も渡りトンネルをくぐったりすると、丹波は昔、都から隔絶された僻陬(へきすう)の地であったのではないかという気がしてきます。亀岡駅につくと周囲に田畑が広がっているので、たしかにここには京都とはちがう空気が流れていると実感できます。
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(亀岡駅)
太田道灌の心友、万里集九が道灌遭難後の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中に「大田左金吾公道灌は、その先はすなわち丹陽の人なり。しかるに五、六葉の祖、はじめて相州に家す」とあります。
「太田家記」(1714年)によると「太田摂津守資国御法名を道斎と申し奉る。五箇荘の内太田郷を領知し故、資国公御代より太田の御名字を称され候、資の字も資国公より始まり候」とあります。
『寛政重修諸家譜』(1812年)にも、太田資国は、摂津守を名乗って丹波太田郷に住んだ旨、記述されています。

私は亀岡駅前でレンタル自転車をかりて、薭田野(ひえだの)町の太田を目指しました。亀岡市役所を経て亀岡運動公園をすぎ、西へ約5キロも走ると、薭田野神社がありその近くが薭田野町太田です。
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(薭田野神社)
この神社は、709年(和銅2年)創建の古社で、なにやら社殿も由緒ありげで五穀豊穣の守護神です。
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(薭田野町太田の田園地帯)
太田の地は田園が広がる地域で、仕事をしている若い人に尋ねると、農道を歩いてきた別の老人を指さして「あの人が歴史に詳しいよ」と教えてくれました。その古老は「時間はよろしいか」といいながら立て板に水を流すがごとくに約20分間、丹波、亀岡(亀山)、太田の伝承的歴史を語ってくれました。
山の南面の暖かい水が流れ込むので、この地は米がよくできて大田になりやがて太田になったとのことで、太田資国の伝承は出てきませんでした。

私はその後、南郷公園近くの市立文化資料館へ行き、亀岡市史を見たあと学芸員に太田氏の故地について質問しました。意外にも学芸員は「年に数回、太田氏について問い合わせがあるものの、当地域に太田氏関係の文書や伝承は発見されません。だからと言って太田氏と無関係とは断言できません」と言いました。

太田道灌公墓前祭実行委員会編の「太田道灌公五二〇回忌記念誌」の中で太田道夫氏が亀岡について一文を寄せています。それによると、2002年2月23日付の『亀岡市民新聞』に「亀岡が太田発祥の地・道灌は源三位頼政の子孫で、亀岡が先祖ゆかりの地」という見出しで道灌の生涯が紹介されました。当時、『エクセラン亀岡』など類似の資料が出回っていました。しかしそれらは、一過性の情報であったのか、今地元では、太田道灌のことを知る人は少ないようです。
1252年(建長4年)太田資国とその一族は宗尊親王、上杉重房とともに関東へ下向して750年以上も経ったので残念ながら、太田氏の伝承はこの土地の記憶から消失してしまったのでしょう。歴史的人物がその地を去り、その子孫もまたいなくなると、その人の伝承が絶えてしまう例は珍しくありません。

明智光秀築城の地
亀岡駅や亀岡市役所には、明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」の幟旗(のぼりはた)がならび、明智光秀と細川ガラシャについての各種パンフや資料が氾濫しています。
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(亀岡市役所の幟旗)
明智光秀は1577年(天正5年)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築城されましたが当時の縄張りの詳細はわかっていません。
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(亀岡城址の明智光秀像)
1580年(天正8年)に丹波国を拝領した光秀は近隣から人を呼び集め、本格的な城下町の整備と領国経営に取りかかりました。しかしそのわずか2年後に、明智軍はこの亀山城から京都へ出撃し、本能寺の変が起こりました。
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(南郷公園・亀岡城址)
亀山城が亀岡城に変わったのは、三重県の亀山城と区別するためだということは、稗田野町のあの古老が語ってくれました。
posted by otadoukan at 11:24| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2019年06月19日

「滝の城」は太田道灌築城の伝城 

埼玉県所沢市の城(しろ)と東京都清瀬市の下宿(したじゅく)の間を流れる柳瀬川べりの小さな崖の上に、滝の城(たきのじょう)という古城址があります。
西武線の東所沢駅から歩いても来られるところです。
城址の説明板によると、この城は北条氏照の滝山城、八王子城の支城であったということです。     
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 (小振りながら複雑な縄張り)
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(本丸跡の碑)
滝の城は、低い崖の上に本丸、二の丸、三の丸があり、土塁と堀が複雑に配されている多廓式平山城です。往時、城中に小さな滝があったので、滝の城と呼ばれるようになりました。
この城の縄張りは、一見して「道灌がかり」を思わせるものです。しかし、城址の説明板には、太田道灌の名前が全く出てこないので、私はずっと不満の思いを抱いていました。
ところで最近私は、東京都の豊島区立郷土資料館の展示の中に、滝の城についてたいへん興味深い記述を見つけたので以下に抜粋を記します。
「長禄元(1457)年に江戸城を築き太田道灌を配した扇谷上杉氏は、現所沢市に残る滝の城を中継点に、本拠である河越城との間に連絡路を作ります。そのうち江戸と滝の城までの道が清戸道(きよとみち)です。文明9(1477)年、道灌は江古田が原合戦を経て、この道を遮断するために豊島氏が築いた石神井・練馬の二城を攻略し、豊島氏は没落します」
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(豊島区立郷土資料館に展示された地図)
豊島区立郷土資料館に展示された地図には、江戸城から滝の城まで、川越街道と清戸道がほぼ平行に西へ走っています。そして滝の城からまっすぐ北上すれば川越城へ通じます。
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(土塁と堀)
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(四脚門跡)   
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  (城址を囲む急峻な崖)
扇谷上杉氏が滝の城を築いたのであれば、家宰であり軍の司令官でもあった太田道灌が縄張りをしたと思われます。そうであればこの城はやはり「道灌がかり」の伝城(つたえじろ)です。かくて私の不満は一気に解消しました。
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(滝の城址公園の桜並木)
滝の城下の柳瀬川べりは今、滝の城址公園として運動施設や散歩道が整備され、春には桜やレンギョウが咲き乱れます。

2019年05月24日

高田馬場駅前の道灌と山吹の里

早稲田口のアトム壁画
JR高田馬場駅前で早稲田通りを渡ると、手塚プロダクションが画いた巨大なアトム壁画が2枚目につきます。2008年(平成20年)に完成した壁画には、この界隈ゆかりの人物と出来事が描かれています。登場する人物は、太田道灌、堀部安兵衛、小泉八雲、夏目漱石、江戸川乱歩などです。この壁画の山吹の里に登場する太田道灌は、私の知人によると「丸首ブーン」だそうです。
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(アトム壁画の太田道灌と山吹の女)
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(高田馬場ゆかりの道灌、安兵衛、八雲、漱石、乱歩) 
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(壁画のアトムの世界)
因みに、早稲田通りを西に小滝方面へ6,7分も歩くと、手塚治虫行きつけの中華飯店があり、店内に手塚治虫の資料が展示されています。

おとめ山公園
アトム壁画後方の栄通りに入ってから神田川沿いに少し歩き、東京富士大学の手前で右折しておとめ山通りを行くと、新宿区立おとめ山公園へきます。そこから神田川に沿って東へ1キロも行くと、面影橋の山吹の里へ至ります。
おとめ山公園は、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、立ち入りを禁止されていたので「御留め山」とよばれていました。近年、「御留め山」が「乙女山」と表記が変わり1969年(昭和44年)に新宿区立おとめ山公園となりました。湧水、流れ、樹林、広場をもつ風致地区で山吹の花が咲いています。そのためか最近、おとめ山公園の「おとめ」を「山吹の女」になぞらえて、山吹の里とは、おとめ山公園であるという人が現れています。
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(おとめ山公園の湧水池)
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(園内の説明板)
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(園内の山吹の花)
ここは、高田馬場駅から至近のいいところで、昼間は憩いといやしのスポットです。
posted by otadoukan at 12:33| Comment(0) | 高田馬場の道灌と山吹の里

2019年04月08日

秩父往還の古道(布夫道)を行く

秩父往還すなわち秩父から峠を越えて武蔵原中へぬける道は、古来三筋ありました。釜伏峠(580m)を越える熊谷通り、粥仁田峠(かゆにたとうげ)(540m)を越える河越通り、正丸峠(760m)を越えて飯能へぬける吾野通りの三筋です。
釜伏峠を越える道は、江戸時代に忍(おし)藩が整備したメインロードであるので、今回私たちは、釜伏峠と荒川南岸の間の風布(風夫)にあった中世の隠れ道・風夫道(ふっぷみち)を踏査しました。寒気が去って木の芽吹きがはじまったばかりで、まだ峠の見通しがきく3月末に仲間と出かけました。

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(雉が岡城址・本庄市児玉)
『太田道灌状』第25段には「その後景春の飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。文明12年正月、長尾景春は児玉(雉が岡城)で蜂起し、児玉・皆野ルートで秩父へ入りました。
『太田道灌状』第26段には「国中御安泰となり秩父へ御発進候処、古河様御変改」とあります。一方の太田道灌は、関東管領上杉顕定とともに長尾景春を追って峠を越えて秩父の大森御陣に入りました。上杉軍と道灌軍の秩父入りしたルートとして、釜伏峠越えの道や風夫道が考えられます。当時、荒川南岸沿いの道は波久礼(はぐれ)の難所と称される断崖で、渇水期に辛うじて人が通る程度でありました。

秩父市の郷土史家山中雅文氏が依拠する井上文書(1568年)には「小屋の儀は、金尾、風夫、鉢形、西乃入相定め候」とあります。これらの地名の場所には、鉢形城主北条氏邦が支配する見張り小屋があったという意味です。そしてそのことは、この場所に鉢形、皆野間の往還道があったということでもあります。今回私たちは、風布地域の大鉢形(おおはちがた)と阿弥陀が谷(あみだがやつ)を通る古道・風夫道をたどりました。

鉢形城を車で出発し、日本百名水のひとつ日本水(やまとみず)を経由して塞神峠(さいのかみとうげ)へきました。GPSで測ると標高480mでした。
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(塞神峠)     
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(「風布と秩父困民党」環境省の説明板)
風布は秩父困民党事件の発祥の地であったため「風布と秩父困民党」と題する環境省の説明板がありました。明治初年この地域には多数の養蚕農家があったものの、生糸の暴落で生活が困窮し、1885年(明治18年)10月31日、80戸180人の「風布組」がこの地から決起しました。

塞神峠に車を置き、そこからは山中氏の先導で山道に入りました。枯葉に覆われた道を15分も下ると大鉢形という集落にきました。峠の寒さが嘘のように感ずる温暖な小盆地で、隠れ家のような民家があり、山桜が満開でした。
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(山桜にかこまれた民家) 
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(桜源郷のような小盆地)

大鉢形から道路をすこし歩くと、阿弥陀が谷という集落へきます。かつては20数軒あったものの今は数軒の集落で空き家が目につきます。この辺りの路傍には、土を固めて造った、小振りの炭焼き釜がたくさん残っています。また念仏堂と称する小堂があり、説明板には「回り念仏」という珍しい風習があったと記されています。   
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  (路傍の炭焼き釜) 
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(「風布の回り念仏」環境省の説明板)
阿弥陀が谷から空峠へ上ると馬頭尊の碑がありました。かつてはこの峠道を馬が通っていた証拠です。峠の斜面の道は、しっかり馬蹄で踏み固められている所と倒木で朽ちかけているところがあります。朽ちかけた道を下り街道に出て次はハギノソリ峠へ登りました。
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 (馬頭尊の碑)    
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 (馬蹄で踏み固められた峠の古道)
私たちがハギノソリ峠で休んでいると、初老の農民が鎌(イノシシ用か)をかついでふらりと現れました。そして「迎えにきたよ。尾根道を左へ行けば千馬山城だよ。子供のころはこの峠を毎日越えて、学校に通っていたよ」と語りました。私は、偶然出会った農民が冗談を言っていると思いましたが、実は山中氏があらかじめ頼んでおいた案内人でした。
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(古い道標) 
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(倒木で朽ちかけた古道)
そこからは案内人の先導で、峠の斜面の落ち葉の中を下って根小屋といわれている集落まできました。私たちの別の車を置いてもらっている民家の前へくると、道で遊んでいた小さな女の子(孫か)が走ってきて、案内人の初老の男に抱きついてきました。男は歩みを止めて、かすかに微笑みました。

1480年(文明12年)の上杉軍の秩父入りはこのルートによる可能性があります。なぜなら当時関東管領上杉顕定は鉢形城に在城し、『太田道灌状』に記されている「田野陣衆」とはこの近くの下田野という所の農兵であったとも思われるからです。
この日私たちが歩いた距離はわずか一万歩であったものの、峠を三つも越え、二度も道に迷い、民俗学的に面白い集落を通ったので、現代の秘境を旅したような不思議な気分になりました。

*「ハギノソリ峠」の「ソリ」とは、『地名の研究』(柳田国男)によると、焼き畑農地という意味です。熊倉城(秩父市)下に「ヤトウソリ」という所があります。熊倉城近くの「高差山(タカサスヤマ)」の「サス」も同様の意味です。

2019年03月09日

道灌紀行ニュースNO.14 越生梅まつりで大河の署名

現在、埼玉県の越生梅林では梅まつり(2月16日〜3月21日)が盛況です。白梅や枝垂れ梅、福寿草が満開で、多くの観光客でにぎわっています。休日には、地元の有志が獅子舞などの出し物で歓迎してくれます。
今年は特に梅林の中で、十数本の「太田道灌を大河ドラマへ」の旗が目立っています。その旗のもとで、地元の道灌・道真有縁の建康寺(けんごうじ)の檀家戸口氏等が元気いっぱいで署名活動を行っています。署名の場所はそのほかに越生駅前、休養村、オーテック等7か所です。
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  (白梅、紅梅、枝垂れ梅が満開)
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  (太田道灌を大河ドラマに)
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  (署名する観光客)
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(くつろぐ観光客)
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(樹齢650年の古梅魁雪と説明板)
古木魁雪(こぼくかいせつ)の説明板にいう「越生の梅は、南北朝時代の観応元年(1350)に九州大宰府から、小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられている。魁雪はその頃の梅・越生野梅(おごせやばい)が、ここまで生きながらえたものと推定される。
太田道灌の父道真は引退後、越生に居館自得軒を構えていた。歌人としても名をなした道真は、川越(河越)城での連歌会『河越千句』では、
   梅さきぬ なお山里を 思うか哉
と詠んでいる。この会にも同席した当代一流の連歌師心経や宗祇も越生の梅を讃えた句を残している。(後略)」(越生観光協会)

2019年02月08日

道灌軍の進軍ルート(江戸城ー笛吹峠)

戦記物に軍勢の移動ルートや駐屯地のことはほとんど記されていません。しかし実は、このことは移動する軍勢にとっては極めて重要なことです。司令官がルートの決定を誤れば、兵は徒に疲弊し甚だしい場合は餓死します。太田道灌軍は五十子、用土原、鉢形城など武蔵中原へはたまた広馬場など上州の山麓へしばしば進軍しました。そのとき道灌軍はどのようなルートで移動してどこに駐屯したかを考察してみます。
今回は江戸城から笛吹峠(埼玉県鳩山町)までのルートを辿ります。
  
1. 江戸・河越間 
現在、東京都千代田区と川越市の間には、川越街道(国道254号線)があります。道灌の時代に江戸城と河越城の間には、鎌倉街道上道(かみつみち)の脇街道があり、それは現在の川越街道とほぼ一致するものでした。岡城(朝霞市)は伝城(つたえじろ)として足軽隊の休憩場所、食料の貯蔵や幕営用具の保管の場所として役割を果たしていたと思われます。岡城は江戸城と河越城のほぼ中間にあり、三つの郭を持ち小振りながら一種の道灌がかりです。
『太田道灌状』第11段に「(豊島氏の妨害で)江戸・河越通路不自由により」とあるので、道灌の時代には、古道をつなぎ合わせて江戸・川越間に立派な軍用道路が出来上がっていたと思われます。
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(岡城本丸跡)

2. 河越・苦林間
埼玉県毛呂山町の苦林(にがばやし)は鎌倉街道上道の遺構と宿場跡があることで知られています。
1477年文明9年、小机城(横浜市)の矢野兵庫助が長尾景春と示し合わせて河越城攻撃をもくろみました。矢野軍が一気に上道を北上して苦林に着陣したとき、太田資忠と上田上野介の軍勢が河越城から出撃して苦林で矢野軍と遭遇しました。矢野軍は太田軍を追ったものの勝原(すぐろはら)で馬返しの策にはまり敗れました。
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(毛呂山町市場の鎌倉街道遺跡)
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(毛呂山町大類の鎌倉街道遺構)
『太田道灌状』第14段にいう「矢野兵庫助以下の者、河越城を押すため苦林へ陣を張り候処、河越留守の衆、(文明9年)4月10日に打ち出で、彼の陣際を相散らし兇徒を勝原に招き出だし合戦せしめ勝利を得候」と。
また『太田道灌状』第20段には「(文明10年)3月10日河越より浅羽陣へ差し掛り追い散らし候」とあります。
この記録によると河越城から浅羽(坂戸市)を経由して苦林宿まで道があったと思われます。このことについて、毛呂山歴史民俗資料館で学芸員に尋ねると、現在のところ川越と苦林の間に古道の遺構は発見されていないということです。遺構は発見されていなくとも古書の記録から言って間違いなく河越・苦林間に上道の枝道があったというべきでありましょう。今日の川越坂戸毛呂山線すなわち県道39号線は、そのなごりであると推測します。
大類に残る鎌倉街道遺構を見ると道幅は3〜5mで、古老が「棒道」と呼んだごとくどこまでもどこまでも南北まっすぐです。

3. 苦林・笛吹峠間
毛呂山町の苦林から越辺川(おっぺがわ)の渡河点を越えてまっすぐ北上すると鳩山町のおしゃもじ山へきますが、そのあたりまでは古道の遺構が発見されていません。おしゃもじ山から埼玉県道171号線を北上して鳩山町役場を通過してさらにまっすぐ北上して国道41号線で笛吹通りに入ります。
少々の坂道を登ると頂上が笛吹峠です。鎌倉街道唯一の峠で昔は難所でした。この峠を、太田道灌をはじめ多くの武人、農民、巡礼者、佐渡への流人も通り、峠を挟んで度々合戦も行われました。
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(笛吹峠の表示、説明板、石碑)
笛吹峠とは由緒ありげな名前です。鳩山町の説明板と観光ガイドブックにその由緒が記されています。
1352年(正平7年)2月25日、新田義貞の3男新田義宗ら2万の軍勢が宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて足利尊氏の8万の軍勢と戦いました。戦の最中宗良親王は、月明かりの中で笛を吹いたとの伝承があります。新田軍はこの峠で「鳥雲の陣」をしいたものの敗れ、足利尊氏の室町幕府への道を開きました。
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(峠の頂上を貫く鎌倉街道上道・笛吹通り)
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(峠で鎌倉街道と直角に交わる慈光寺巡礼通り)
往時は、都幾川町の古刹慈光寺へ参る巡礼者たちもこの峠を通りました。この峠から秩父や上州の山々が見えるといわれてはいるものの今は、杉林のため眺望が遮られていて残念です。
鳩山町は、ど真ん中を鎌倉街道上道が貫き、笛吹峠のような史跡を持っています。鳩山町の名所名物は何?と問われたならば私は「鎌倉街道」と答えます。
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(笛吹峠の嵐山側の麓にある鎌倉街道碑)
この峠を下ると、菅谷原、高見原など中世の合戦場が開けてきます。
*「河越」は徳川時代になり「川越」と表記が変わりました。

2018年10月23日

道灌紀行ニュースNO.13

第1回日暮里道灌まつり
平成30年10月20日(土)21日(日)(於・東京都荒川区JR日暮里駅前)
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(日暮里道灌まつりのポスター)
去る10月13日(土)14日に伊勢原市で、恒例の「第51回伊勢原観光道灌まつり」が盛大の行われ、その一週間後に、JR日暮里駅前のイベント広場で「第1回の日暮里道灌まつり」がにぎやかに開催されました。第51回と第1回とは、面白い数字のめぐりあわせでありました。
JR山手線の日暮里駅で降り、東口の通称「道灌口」から出ると、駅前で太田道灌騎馬像と山吹の女の像が迎えてくれます。
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(回天一枝の像)
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(山吹の花一枝の像)
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(イベント広場・お祭り会場)
21日の朝10時からは、お祭り広場の舞台でセレモニーがおこなわれました。最初に西川太一郎荒川区長(東京23区・特別区長会会長)から主催者あいさつがあり、つづいて太田道灌顕彰会の太田資暁理事長から祝福のあいさつがありました。
諸関係者のあいさつのあと、伊勢原、越生、太田酒造、福島県などから販売品等のアピールがありました。
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(西川太一郎荒川区長)
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(太田資暁理事長)
圧巻は伊勢原甲冑隊の「太田道灌そろい踏み」と小倉恵子さんの熱唱「ああ太田道灌」でした。甲冑隊は演技のあと見物人とともに勝どきを挙げて、会場を練り歩きました。
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(伊勢原手造り甲冑隊)
引きつづき「古今亭駿菊」の青空落語などが披露され、さらに芸人が次々と登場して会場はおおいに盛り上がりました。
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(古今亭駿菊の青空落語)
この日会場では、「太田道灌の大河ドラマ」実現を目指す署名活動が行われました。また荒川区の観光ボランティアにより、道灌ゆかりの本行寺、江戸城の出城址であった道灌山や夕焼けだんだん、繊維街などのウオーキングツアーも行われました。
私はこの日、久しぶりに会った道灌友達から、かつて俳人の正岡子規が道灌山をたびたび訪れてたくさんの俳句を作った、という話を聞きました。子規の句にいう、
    柿くふや 道灌山の 婆が茶屋
この日は、晴天、温暖、無風に恵まれたので、多くの人が訪れて各店舗も繁昌し「第一回日暮里道灌まつり」は大成功でありました。

 尚、今年10月27日(土)には、静岡県の熱川温泉で恒例の「第6回石曳き道灌まつり」が行われました。これは太田道灌が江戸城の石垣の石を、この辺りから切り出して船で運んだという故事に因みます。

posted by otadoukan at 07:52| Comment(0) | 道灌紀行ニュースNO.13

2018年09月30日

「塩売原」で考える「地名は言葉の化石」

2018年9月、台風24号が近づいて小雨が降る中、前橋市富士見町の『太田道灌状』にかかわる史跡調査に出かけました。国道17号線を北上し、前橋市で荒牧町を過ぎてから291号線に入ります。萩原朔太郎ゆかりの政淳寺入り口で右折します。しばらく進んで政淳寺を過ぎて右の方へ行くと「横室古墳公園」へきます。公園の入口の説明板の表題に「陣場・庄司原」と地名が記されています。この地が、1477年(文明9年)10月11日に上杉方・大田道灌軍と古河公方方・長尾景春軍が小競り合いをした古戦場の庄司原(塩売原)であったことを物語っています。
案内してくれた地元の郷土史家長谷川氏の解説は次の様でした。
「この近くに荒牧(道灌状では「荒巻」)という地名があるように、この辺りには古来牧がたくさんあり、多数の馬が放牧されていました。馬には塩を与えなければならなかったので、この地で塩の売買が行われました。したがってこの地が「塩売原」(しおうりはら)といわれ、やがてなまって「庄司原」(しょうじっぱら)と呼ばれるようになりました。そして「庄司原」の西南に字「陣場」があり、この地が古戦場であったことを物語っています」
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(横室古墳公園)
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(陣場・庄司原古墳群の説明板)
『太田道灌状』16段にいう、
「十月二日道灌は荒巻へ上り、並びに引田辺の陣場等を見て廻り、其の心当に候処、案の如く結城、両那須、佐々木、横瀬、其他彼の国の諸勢申し請い、景春並びに同名六郎多勢を以って寄せ来り候。兼て覚悟の前に候の間、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前に当てて陣取り、天子の御旗を出され候ば、其の時合戦に及ぶべき旨存候処、聊示の趣で異見申される方共候か。其義なく候の処、十一月十四日御敵退散せしめ候」
(10月2日に道灌は荒巻へ上り、すぐに引田辺りの陣場等を見て廻り、其の地での作戦を練っていたところ案の定、結城、両那須、佐々木、横瀬、其の他彼の国の諸勢が申し合わせ、景春並に同名六郎等多勢で寄せて来ました。(道灌は)兼ねて予想をしていたので、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前にして陣取り、(顕定が)天子の御旗を出されれば、その時合戦に及ぶだろうと考えていました。ところが、思いつきの考えで意見をする人がいたのでしょうか、その作戦は実行されないまま、十一月十四日に敵は退散しました)
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(引田)
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(横室古墳)
長谷川氏の案内ですぐ近くの引田という所へ行ってみると、そこはやや高くなっていて横室との間に窪地があるので、道灌はそこを切所と考えたと思われます。切所とは、勝敗のきめてとなる厳しい地形のことです。全てが『太田道灌状』の記述と合致する地名と地形であるので、いつもながら感動します。私は10年ほど前にこの近辺を廻りましたが、今回は長谷川氏の案内で地名と地形と両軍の動きを詳しく検証しました。言語学では「地名は言葉の化石である」といわれています。そのことが間違いないことがよくわかります。
この地に道灌軍と景春方の結城氏など関東八家の大軍が軍旗をなびかせて押し寄せました。古墳の頂上に登ってみると、前橋市街や周囲に広がるブロッコリー畑がよく見えるので、ここは最初に太田道灌がそのあと長尾景春も登って物見をしただろうと想像されて面白くなってきます。上州の山々が見えないのが少々残念です。
さあ台風が日本列島に近づいているので、帰らねばなりません。



2018年08月18日

太田家軍旗

2018年7月14日(土)から9月2日(日)まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館で「企画展・古文書大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」が開催中です。
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(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
この展示に「太田家軍旗」(日の丸に鏑矢紋絹地旗印)が展示されています。これは、15世紀に合戦の最中に使用された軍旗です。絹地に「日の丸」と太田家の替紋「違い鏑矢紋」を配した軍旗は、太田家の歴史を記した「太田家譜」にも記されています。軍旗の大きさは、よこ約250cmm、たて約40cmmで、先端はちぎれたようになっています。残念ながら撮影禁止ですのでやむを得ず私は、その軍旗をスケッチしてきました。
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(私がスケッチした「太田家軍旗」)
展示の説明によると、この軍旗は東大阪市の専宗寺に伝わる岩付太田氏関係資料で、太田道灌の曽孫太田資正の三男資武の末裔にあたる子女が、専宗寺の兄弟寺河内の慈明寺に嫁いだ縁から、同寺に伝わったということです。東大阪市の専宗寺のブログを見ると、確かに「太田道灌と専宗寺は親戚である」旨が記されています。
この軍旗は、今回初めて博物館で展示されたそうです。
昨日、知人より「太田家軍旗」の写真が送られてきました。ネット上で出回っているそうです。写真を見ると確かに現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されているものと同じ旗です。どこでいつ撮影されたものかわかりませんがその写真を掲載します。
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(太田家軍旗、撮影場所不祥)
岩槻系の太田道灌曽孫太田資正の許には、道灌使用の軍配、道灌遺愛の琵琶「千鳥」、香木「蘭奢待」、そして多分「太田道灌状」など貴重な道灌遺品が伝わっていました。そのことを考えると、この軍旗は、太田道灌が実戦に使ったもので太田資正が所持していたものである蓋然性は極めて高いと思います。

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2018年07月16日

道灌紀行ニュースNO.12

1.第19回「太田道灌の集い」平成30年7月29日(日)(伊勢原市)
太田道灌大河ドラマ推進実行委員会は、道灌の大河ドラマ要望の署名が、5月末に15万2千筆を越えたと発表しました。その盛り上がりの中で、恒例の太田道灌の集いは、平成30年7月29日(日)伊勢原市市民文化会館ホールで、開催されます。
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(「道灌の集い」チラシ)
第1部 午後1時より・文化・芸能発表
尺八演奏
成瀬児童合唱団
民謡踊り・友遊庭
伊勢原手作り甲冑隊
第2部 午後2時より・あいさつと報告
太田資暁 道灌の集い会長
伊勢原市長(予定)
伊勢原市議会議長(予定)
衆議院議員(予定)
他県市町自治体の報告
第3部 午後3時より・芸能発表
歌手 小倉恵子さん
舞踊 五条詠寿郎さん
落語 三遊亭遊吉師匠
三上利栄実行委員長は「多くの人々が、お気軽に来場してくれるよう望んでいます」と語っています。

2.伊勢原市議会「太田道灌大河ドラマNHKへ要望」を決議
7月29日の第19回「太田道灌の集い」を間近にして、伊勢原議会6月定例会において「太田道灌をテーマしたNHK大河ドラマ誘致についての決議」を満場一致で可決しました。
決議は、道灌の墓所が市内にある経緯に触れ、「道灌の活躍の足跡は、関東各地に残され、ゆかりのある各地の自治体にとって地方創生の観光資源となる」と述べています。
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(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

3.太田図書の墓前祭(佐倉市)
2018年7月14日(土)午前11時より、佐倉市の臼井城址公園で太田図書の墓の墓前祭が行われました。主催した臼井文化懇話会の岡野敦会長、中野英樹相談役、吉田とく名誉理事また太田家から太田資暁氏、太田盛明氏、佐倉市教育委員会の関係者など約20名が参列して、厳粛に執り行われました。
太田道灌の弟、太田図書之助資忠は、1479年(文明11年)7月15日、臼井城の合戦で壮烈な最期とげ、その場所に葬られました。
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(太田図書の墓)
法要のあと、市内で懇話会が行われ、太田図書の墓建立の経緯や太田道灌大河ドラマへの期待など、話が盛り上がりました。

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2018年07月01日

西武球場の真ん前に「太田道灌の御神木」

先日知人から西武球場の真ん前の寺に、「太田道灌の御神木」があると聞きました。「えー」と私はびっくり仰天です。そこは、東大和市の我が家から車で10分のところです。私は道灌の史跡調査で越生、秩父方面へ行くため、多摩湖を横断し、月に数回西武球場前を通っています。行ってみると、確かに「太田道灌の御神木」がありました。「灯台もとくらし」とはこのことです。
西部鉄道狭山線の西武球場前駅は野球ファン専用の駅です。西武球場正面(南側)に狭山山不動寺があり、その山門右手に「太田道灌御神木」と説明板があります。
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(御神木の説明板)
説明板にいう「御神木、この銀杏の大木は、江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城跡にあったものである。徳川時代から今日まで御神木として崇敬された。関東大震災の時は、大勢の人がこの大樹の下に寄って難をまぬかれ、神験のあらたかさを喧伝されたものです。その後区画整理の際、樹齢五百年のこの大木を切るに忍びず、当境内に移植して造化の神秘をしのぶよすがとし、社会科の教材として保存することにしたものです」
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(太田道灌の御神木・大銀杏)
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(御神木の幹)
狭山山不動寺は、埼玉県所沢市上山口にある天台宗別格本山の寺院です。山号は狭山山、寺号は不動寺、本尊は不動明王、埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られています。
1975年(昭和50年) 西武グループが各地にプリンスホテルを建設した際に、東京プリンスホテルの近くの芝増上寺をはじめ隣接する各地の文化財を、西武鉄道終点のこの地に集めました。そして西武鉄道が、当時のオーナーであった堤義明氏と親しかった寛永寺の助力を得て、天台宗別格本山として不動寺をこの地に建立し、集めた文化財を境内に設置しました。
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(不動寺の勅額門・)
不動寺にある文化財は次のようなものです。
勅額門=(ちょくがくもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。後水尾天皇の筆による『勅額』門とされ、国指定重要文化財です、
御成門=(おなりもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。
総門=長州藩主、毛利家の江戸屋敷に建てられた門で、素材はすべてケヤキです。
その他各地の由緒ある建造物やたくさんの石灯篭があります。
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(本堂と江戸時代の石灯篭)
さてところで、道灌の御神木の説明板にある「城山城跡」とはどこでしょうか。私は、いろいろな人に聞きまわり、ようやくわかってきました。
東京都港区の東京プリンスホテルの周辺には、亀塚公園、愛宕山、仙石山など太田道灌が出城を築いた場所がいくつかあります。仙石山には道灌の時代に、江戸城の出城として番神山城(太田道灌塁)が築かれ、その城域は現在の城山トラストタワーやホテルオークラのあたりまでつづいていたと思われます。城山を開発するとき、道灌の御神木と伝えられる樹齢500年の大銀杏は、伐採するには忍びがたく、プリンスホテル社長堤義明氏の英断で不動寺に移植されたもの思われます。堤氏は、とかくの非難を浴びながらも都市開発のため、その他多くの歴史的な建造物を所沢の田舎の寺の境内へ次々と移動させました。日本の高度成長時代の財界の巨魁の剛腕と財力には、唯々驚くばかりです。
おかげで、おそらくは道灌手植えの大銀杏は、都塵をはなれた静かな山里で、涼風に吹かれて蘇生し、年々美しい若芽を伸ばしています。不動寺の境内は広く起伏に富み、そこには一基の墓もなく祈祷所が一か所あるだけです。したがってそこはまるで文化財の展示場のようです。
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(東京プリンスホテルと東京タワー)
東京都の港区立郷土資料館で職員に訊くと「東京プリンスホテルができた頃に、多くの文化財等が所沢に移動されたことは承知しています。しかし当時は、東京オリンピック(1964年)もあったので、この地域の再開発のどさくさで、どれだけの文化財が移動されたかを記録にとってはありません」とのことであります。
所沢に移動された文化財等は、歴史的にまた美術的にも一見の価値があります。ここは、道灌の御神木の説明板にあるように、社会科の勉強のためにも一度は来るべきところです。

2018年06月06日

道灌紀行ニュース N0.11 

日暮里駅前に「山吹の花一枝」の像
東京都荒川区は、2018年5月23日(水)JR日暮里駅前に、荒川区ゆかりの武将太田道灌に山吹の枝を差し出す女性をモチーフにした「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)と題する女性の像を設置しました。同じ場所に、太田道灌の騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)が設置してあり、荒川区は新たな観光スポットとしてPRしたい考えです。
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(ほぼ等身大の「山吹の花一枝」像)
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(山吹の花一枝を持つ像)
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(台座の銘板)
「山吹の花一枝」の像は、彫刻家で荒川区顧問の平野千里氏が制作し、東京荒川ライオンズクラブより寄贈されました。
除幕式に出席した西川太一郎区長は「素晴らしい彫刻です。日暮里は成田空港からの便が良く、海外から多くの来客を見込めます。区の新たなシンボルになってほしい」と語りました。
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(説明板)
説明板には、太田道灌の山吹伝説、道灌略伝、道灌山や本行寺の道灌丘碑のことなどが記されています。
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 (制作者 平野千里)
平野千里氏は、1948年東京生まれ、彩色木彫の第一人者。1998年に荒川区ふるさと文化館の「芭蕉旅立ち」の像を制作。現在、荒川区顧問、荒川区地域振興公社理事、太平洋美術会理事、荒川区美術連盟顧問。
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(」「回天一枝「」の像、中央下方に「山吹の花一枝」の像)
「山吹の花一枝」の像は、太田道灌の騎馬像からやや離れたところに、山吹の花一枝をもって、道灌の方を見つめて立っています。その清楚な姿から、ほどなく道灌とのロマンス話が、まことしやかに伝えられるようになるでありましょう。どこから聞いたのか、この像を見にきて、写真を撮る人の姿が絶えません。
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2018年06月01日

道灌愛用の「古天明霰釜」

さいたま市の大宮で東武野田線に乗り換えて、岩槻の一つ手前の七里(ななさと)で下車します。線路沿いに大和田方面へ10分も歩くと、曹洞宗の鷲嶽山大園寺(だいえんじ)という古刹にきます。駅から近いものの入り口がわかりにくいので、住民に訊かなければなりません。
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(大円寺)
大円寺の縁起によると、1525年(大永5年)、岩槻城主太田持資の曽孫太田資正の奥室、陽光院殿が開基となり、栄春禅師が開山となり、武蔵野の風渡野(ふっとの)台地に大円寺が建立されました。
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(大円寺法因縁起)
今年、5月24日、開基450回忌の法恩授戒會が行われ、これに因み3日間のみ特別に、太田道灌愛用の「古天明霰釜」が公開されました。私は、絶好のチャンスと思い、早速出かけて説明を聞き、写真を撮らせていただきました。
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(ガラスケースに入った道灌愛用の古天明霰釜)
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(同上、霰無地の茶釜)
寺の山門脇にあるさいたま市教育委員会の説明板にいう。
「さいたま市指定文化財工芸品
大円寺古天明霰釜(だいえんじこてんみょうあられがま)
大円寺は室町時代の創建で、その頃このあたりは岩槻太田氏の領地に組み入れられていました。太田氏と大円寺とのかかわりは深く、この窯は太田道灌が茶の湯に愛用していたと伝えられ、後に大円寺に寄贈されたものです。寄贈者は陽光院殿で、同寺に参詣するときは、この釜で茶をたて、道灌の位牌に供えたと言われています。
天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は室町時代後期までにつくられたものの総称です。西の芦屋、東の天明と言われ、茶の湯釜の双璧と称されました。
大円寺釜は古天明としてはめずらしく霰文(あられもん)ですが、他に文様を入れない霰無地で、その気品ある形とともに、古天明の味わいを持つ貴重な釜と言えます」。
太田道灌愛用の茶釜は、資家、資頼、資正と伝えられ、資正の奥室陽光院が所持していたものと思われます。
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2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
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(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。