2019年05月24日

高田馬場駅前の道灌と山吹の里

早稲田口のアトム壁画
JR高田馬場駅前で早稲田通りを渡ると、手塚プロダクションが画いた巨大なアトム壁画が2枚目につきます。2008年(平成20年)に完成した壁画には、この界隈ゆかりの人物と出来事が描かれています。登場する人物は、太田道灌、堀部安兵衛、小泉八雲、夏目漱石、江戸川乱歩などです。この壁画の山吹の里に登場する太田道灌は、私の知人によると「丸首ブーン」だそうです。
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(アトム壁画の太田道灌と山吹の女)
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(高田馬場ゆかりの道灌、安兵衛、八雲、漱石、乱歩) 
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(壁画のアトムの世界)
因みに、早稲田通りを西に小滝方面へ6,7分も歩くと、手塚治虫行きつけの中華飯店があり、店内に手塚治虫の資料が展示されています。

おとめ山公園
アトム壁画後方の栄通りに入ってから神田川沿いに少し歩き、東京富士大学の手前で右折しておとめ山通りを行くと、新宿区立おとめ山公園へきます。そこから神田川に沿って東へ1キロも行くと、面影橋の山吹の里へ至ります。
おとめ山公園は、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、立ち入りを禁止されていたので「御留め山」とよばれていました。近年、「御留め山」が「乙女山」と表記が変わり1969年(昭和44年)に新宿区立おとめ山公園となりました。湧水、流れ、樹林、広場をもつ風致地区で山吹の花が咲いています。そのためか最近、おとめ山公園の「おとめ」を「山吹の女」になぞらえて、山吹の里とは、おとめ山公園であるという人が現れています。
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(おとめ山公園の湧水池)
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(園内の説明板)
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(園内の山吹の花)
ここは、高田馬場駅から至近のいいところで、昼間は憩いといやしのスポットです。
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2019年04月08日

秩父往還の古道(布夫道)を行く

秩父往還すなわち秩父から峠を越えて武蔵原中へぬける道は、古来三筋ありました。釜伏峠(580m)を越える熊谷通り、粥仁田峠(かゆにたとうげ)(540m)を越える河越通り、正丸峠(760m)を越えて飯能へぬける吾野通りの三筋です。
釜伏峠を越える道は、江戸時代に忍(おし)藩が整備したメインロードであるので、今回私たちは、釜伏峠と荒川南岸の間の風布(風夫)にあった中世の隠れ道・風夫道(ふっぷみち)を踏査しました。寒気が去って木の芽吹きがはじまったばかりで、まだ峠の見通しがきく3月末に仲間と出かけました。

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(雉が岡城址・本庄市児玉)
『太田道灌状』第25段には「その後景春の飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。文明12年正月、長尾景春は児玉(雉が岡城)で蜂起し、児玉・皆野ルートで秩父へ入りました。
『太田道灌状』第26段には「国中御安泰となり秩父へ御発進候処、古河様御変改」とあります。一方の太田道灌は、関東管領上杉顕定とともに長尾景春を追って峠を越えて秩父の大森御陣に入りました。上杉軍と道灌軍の秩父入りしたルートとして、釜伏峠越えの道や風夫道が考えられます。当時、荒川南岸沿いの道は波久礼(はぐれ)の難所と称される断崖で、渇水期に辛うじて人が通る程度でありました。

秩父市の郷土史家山中雅文氏が依拠する井上文書(1568年)には「小屋の儀は、金尾、風夫、鉢形、西乃入相定め候」とあります。これらの地名の場所には、鉢形城主北条氏邦が支配する見張り小屋があったという意味です。そしてそのことは、この場所に鉢形、皆野間の往還道があったということでもあります。今回私たちは、風布地域の大鉢形(おおはちがた)と阿弥陀が谷(あみだがやつ)を通る古道・風夫道をたどりました。

鉢形城を車で出発し、日本百名水のひとつ日本水(やまとみず)を経由して塞神峠(さいのかみとうげ)へきました。GPSで測ると標高480mでした。
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(塞神峠)     
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(「風布と秩父困民党」環境省の説明板)
風布は秩父困民党事件の発祥の地であったため「風布と秩父困民党」と題する環境省の説明板がありました。明治初年この地域には多数の養蚕農家があったものの、生糸の暴落で生活が困窮し、1885年(明治18年)10月31日、80戸180人の「風布組」がこの地から決起しました。

塞神峠に車を置き、そこからは山中氏の先導で山道に入りました。枯葉に覆われた道を15分も下ると大鉢形という集落にきました。峠の寒さが嘘のように感ずる温暖な小盆地で、隠れ家のような民家があり、山桜が満開でした。
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(山桜にかこまれた民家) 
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(桜源郷のような小盆地)

大鉢形から道路をすこし歩くと、阿弥陀が谷という集落へきます。かつては20数軒あったものの今は数軒の集落で空き家が目につきます。この辺りの路傍には、土を固めて造った、小振りの炭焼き釜がたくさん残っています。また念仏堂と称する小堂があり、説明板には「回り念仏」という珍しい風習があったと記されています。   
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  (路傍の炭焼き釜) 
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(「風布の回り念仏」環境省の説明板)
阿弥陀が谷から空峠へ上ると馬頭尊の碑がありました。かつてはこの峠道を馬が通っていた証拠です。峠の斜面の道は、しっかり馬蹄で踏み固められている所と倒木で朽ちかけているところがあります。朽ちかけた道を下り街道に出て次はハギノソリ峠へ登りました。
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 (馬頭尊の碑)    
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 (馬蹄で踏み固められた峠の古道)
私たちがハギノソリ峠で休んでいると、初老の農民が鎌(イノシシ用か)をかついでふらりと現れました。そして「迎えにきたよ。尾根道を左へ行けば千馬山城だよ。子供のころはこの峠を毎日越えて、学校に通っていたよ」と語りました。私は、偶然出会った農民が冗談を言っていると思いましたが、実は山中氏があらかじめ頼んでおいた案内人でした。
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(古い道標) 
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(倒木で朽ちかけた古道)
そこからは案内人の先導で、峠の斜面の落ち葉の中を下って根小屋といわれている集落まできました。私たちの別の車を置いてもらっている民家の前へくると、道で遊んでいた小さな女の子(孫か)が走ってきて、案内人の初老の男に抱きついてきました。男は歩みを止めて、かすかに微笑みました。

1480年(文明12年)の上杉軍の秩父入りはこのルートによる可能性があります。なぜなら当時関東管領上杉顕定は鉢形城に在城し、『太田道灌状』に記されている「田野陣衆」とはこの近くの下田野という所の農兵であったとも思われるからです。
この日私たちが歩いた距離はわずか一万歩であったものの、峠を三つも越え、二度も道に迷い、民俗学的に面白い集落を通ったので、現代の秘境を旅したような不思議な気分になりました。

*「ハギノソリ峠」の「ソリ」とは、『地名の研究』(柳田国男)によると、焼き畑農地という意味です。熊倉城(秩父市)下に「ヤトウソリ」という所があります。熊倉城近くの「高差山(タカサスヤマ)」の「サス」も同様の意味です。

2019年03月09日

道灌紀行ニュースNO.14 越生梅まつりで大河の署名

現在、埼玉県の越生梅林では梅まつり(2月16日〜3月21日)が盛況です。白梅や枝垂れ梅、福寿草が満開で、多くの観光客でにぎわっています。休日には、地元の有志が獅子舞などの出し物で歓迎してくれます。
今年は特に梅林の中で、十数本の「太田道灌を大河ドラマへ」の旗が目立っています。その旗のもとで、地元の道灌・道真有縁の建康寺(けんごうじ)の檀家戸口氏等が元気いっぱいで署名活動を行っています。署名の場所はそのほかに越生駅前、休養村、オーテック等7か所です。
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  (白梅、紅梅、枝垂れ梅が満開)
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  (太田道灌を大河ドラマに)
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  (署名する観光客)
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(くつろぐ観光客)
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(樹齢650年の古梅魁雪と説明板)
古木魁雪(こぼくかいせつ)の説明板にいう「越生の梅は、南北朝時代の観応元年(1350)に九州大宰府から、小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられている。魁雪はその頃の梅・越生野梅(おごせやばい)が、ここまで生きながらえたものと推定される。
太田道灌の父道真は引退後、越生に居館自得軒を構えていた。歌人としても名をなした道真は、川越(河越)城での連歌会『河越千句』では、
   梅さきぬ なお山里を 思うか哉
と詠んでいる。この会にも同席した当代一流の連歌師心経や宗祇も越生の梅を讃えた句を残している。(後略)」(越生観光協会)

2019年02月08日

道灌軍の進軍ルート(江戸城ー笛吹峠)

戦記物に軍勢の移動ルートや駐屯地のことはほとんど記されていません。しかし実は、このことは移動する軍勢にとっては極めて重要なことです。司令官がルートの決定を誤れば、兵は徒に疲弊し甚だしい場合は餓死します。太田道灌軍は五十子、用土原、鉢形城など武蔵中原へはたまた広馬場など上州の山麓へしばしば進軍しました。そのとき道灌軍はどのようなルートで移動してどこに駐屯したかを考察してみます。
今回は江戸城から笛吹峠(埼玉県鳩山町)までのルートを辿ります。
  
1. 江戸・河越間 
現在、東京都千代田区と川越市の間には、川越街道(国道254号線)があります。道灌の時代に江戸城と河越城の間には、鎌倉街道上道(かみつみち)の脇街道があり、それは現在の川越街道とほぼ一致するものでした。岡城(朝霞市)は伝城(つたえじろ)として足軽隊の休憩場所、食料の貯蔵や幕営用具の保管の場所として役割を果たしていたと思われます。岡城は江戸城と河越城のほぼ中間にあり、三つの郭を持ち小振りながら一種の道灌がかりです。
『太田道灌状』第11段に「(豊島氏の妨害で)江戸・河越通路不自由により」とあるので、道灌の時代には、古道をつなぎ合わせて江戸・川越間に立派な軍用道路が出来上がっていたと思われます。
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(岡城本丸跡)

2. 河越・苦林間
埼玉県毛呂山町の苦林(にがばやし)は鎌倉街道上道の遺構と宿場跡があることで知られています。
1477年文明9年、小机城(横浜市)の矢野兵庫助が長尾景春と示し合わせて河越城攻撃をもくろみました。矢野軍が一気に上道を北上して苦林に着陣したとき、太田資忠と上田上野介の軍勢が河越城から出撃して苦林で矢野軍と遭遇しました。矢野軍は太田軍を追ったものの勝原(すぐろはら)で馬返しの策にはまり敗れました。
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(毛呂山町市場の鎌倉街道遺跡)
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(毛呂山町大類の鎌倉街道遺構)
『太田道灌状』第14段にいう「矢野兵庫助以下の者、河越城を押すため苦林へ陣を張り候処、河越留守の衆、(文明9年)4月10日に打ち出で、彼の陣際を相散らし兇徒を勝原に招き出だし合戦せしめ勝利を得候」と。
また『太田道灌状』第20段には「(文明10年)3月10日河越より浅羽陣へ差し掛り追い散らし候」とあります。
この記録によると河越城から浅羽(坂戸市)を経由して苦林宿まで道があったと思われます。このことについて、毛呂山歴史民俗資料館で学芸員に尋ねると、現在のところ川越と苦林の間に古道の遺構は発見されていないということです。遺構は発見されていなくとも古書の記録から言って間違いなく河越・苦林間に上道の枝道があったというべきでありましょう。今日の川越坂戸毛呂山線すなわち県道39号線は、そのなごりであると推測します。
大類に残る鎌倉街道遺構を見ると道幅は3〜5mで、古老が「棒道」と呼んだごとくどこまでもどこまでも南北まっすぐです。

3. 苦林・笛吹峠間
毛呂山町の苦林から越辺川(おっぺがわ)の渡河点を越えてまっすぐ北上すると鳩山町のおしゃもじ山へきますが、そのあたりまでは古道の遺構が発見されていません。おしゃもじ山から埼玉県道171号線を北上して鳩山町役場を通過してさらにまっすぐ北上して国道41号線で笛吹通りに入ります。
少々の坂道を登ると頂上が笛吹峠です。鎌倉街道唯一の峠で昔は難所でした。この峠を、太田道灌をはじめ多くの武人、農民、巡礼者、佐渡への流人も通り、峠を挟んで度々合戦も行われました。
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(笛吹峠の表示、説明板、石碑)
笛吹峠とは由緒ありげな名前です。鳩山町の説明板と観光ガイドブックにその由緒が記されています。
1352年(正平7年)2月25日、新田義貞の3男新田義宗ら2万の軍勢が宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて足利尊氏の8万の軍勢と戦いました。戦の最中宗良親王は、月明かりの中で笛を吹いたとの伝承があります。新田軍はこの峠で「鳥雲の陣」をしいたものの敗れ、足利尊氏の室町幕府への道を開きました。
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(峠の頂上を貫く鎌倉街道上道・笛吹通り)
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(峠で鎌倉街道と直角に交わる慈光寺巡礼通り)
往時は、都幾川町の古刹慈光寺へ参る巡礼者たちもこの峠を通りました。この峠から秩父や上州の山々が見えるといわれてはいるものの今は、杉林のため眺望が遮られていて残念です。
鳩山町は、ど真ん中を鎌倉街道上道が貫き、笛吹峠のような史跡を持っています。鳩山町の名所名物は何?と問われたならば私は「鎌倉街道」と答えます。
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(笛吹峠の嵐山側の麓にある鎌倉街道碑)
この峠を下ると、菅谷原、高見原など中世の合戦場が開けてきます。
*「河越」は徳川時代になり「川越」と表記が変わりました。

2018年10月23日

道灌紀行ニュースNO.13

第1回日暮里道灌まつり
平成30年10月20日(土)21日(日)(於・東京都荒川区JR日暮里駅前)
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(日暮里道灌まつりのポスター)
去る10月13日(土)14日に伊勢原市で、恒例の「第51回伊勢原観光道灌まつり」が盛大の行われ、その一週間後に、JR日暮里駅前のイベント広場で「第1回の日暮里道灌まつり」がにぎやかに開催されました。第51回と第1回とは、面白い数字のめぐりあわせでありました。
JR山手線の日暮里駅で降り、東口の通称「道灌口」から出ると、駅前で太田道灌騎馬像と山吹の女の像が迎えてくれます。
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(回天一枝の像)
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(山吹の花一枝の像)
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(イベント広場・お祭り会場)
21日の朝10時からは、お祭り広場の舞台でセレモニーがおこなわれました。最初に西川太一郎荒川区長(東京23区・特別区長会会長)から主催者あいさつがあり、つづいて太田道灌顕彰会の太田資暁理事長から祝福のあいさつがありました。
諸関係者のあいさつのあと、伊勢原、越生、太田酒造、福島県などから販売品等のアピールがありました。
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(西川太一郎荒川区長)
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(太田資暁理事長)
圧巻は伊勢原甲冑隊の「太田道灌そろい踏み」と小倉恵子さんの熱唱「ああ太田道灌」でした。甲冑隊は演技のあと見物人とともに勝どきを挙げて、会場を練り歩きました。
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(伊勢原手造り甲冑隊)
引きつづき「古今亭駿菊」の青空落語などが披露され、さらに芸人が次々と登場して会場はおおいに盛り上がりました。
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(古今亭駿菊の青空落語)
この日会場では、「太田道灌の大河ドラマ」実現を目指す署名活動が行われました。また荒川区の観光ボランティアにより、道灌ゆかりの本行寺、江戸城の出城址であった道灌山や夕焼けだんだん、繊維街などのウオーキングツアーも行われました。
私はこの日、久しぶりに会った道灌友達から、かつて俳人の正岡子規が道灌山をたびたび訪れてたくさんの俳句を作った、という話を聞きました。子規の句にいう、
    柿くふや 道灌山の 婆が茶屋
この日は、晴天、温暖、無風に恵まれたので、多くの人が訪れて各店舗も繁昌し「第一回日暮里道灌まつり」は大成功でありました。

 尚、今年10月27日(土)には、静岡県の熱川温泉で恒例の「第6回石曳き道灌まつり」が行われました。これは太田道灌が江戸城の石垣の石を、この辺りから切り出して船で運んだという故事に因みます。

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2018年09月30日

「塩売原」で考える「地名は言葉の化石」

2018年9月、台風24号が近づいて小雨が降る中、前橋市富士見町の『太田道灌状』にかかわる史跡調査に出かけました。国道17号線を北上し、前橋市で荒牧町を過ぎてから291号線に入ります。萩原朔太郎ゆかりの政淳寺入り口で右折します。しばらく進んで政淳寺を過ぎて右の方へ行くと「横室古墳公園」へきます。公園の入口の説明板の表題に「陣場・庄司原」と地名が記されています。この地が、1477年(文明9年)10月11日に上杉方・大田道灌軍と古河公方方・長尾景春軍が小競り合いをした古戦場の庄司原(塩売原)であったことを物語っています。
案内してくれた地元の郷土史家長谷川氏の解説は次の様でした。
「この近くに荒牧(道灌状では「荒巻」)という地名があるように、この辺りには古来牧がたくさんあり、多数の馬が放牧されていました。馬には塩を与えなければならなかったので、この地で塩の売買が行われました。したがってこの地が「塩売原」(しおうりはら)といわれ、やがてなまって「庄司原」(しょうじっぱら)と呼ばれるようになりました。そして「庄司原」の西南に字「陣場」があり、この地が古戦場であったことを物語っています」
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(横室古墳公園)
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(陣場・庄司原古墳群の説明板)
『太田道灌状』16段にいう、
「十月二日道灌は荒巻へ上り、並びに引田辺の陣場等を見て廻り、其の心当に候処、案の如く結城、両那須、佐々木、横瀬、其他彼の国の諸勢申し請い、景春並びに同名六郎多勢を以って寄せ来り候。兼て覚悟の前に候の間、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前に当てて陣取り、天子の御旗を出され候ば、其の時合戦に及ぶべき旨存候処、聊示の趣で異見申される方共候か。其義なく候の処、十一月十四日御敵退散せしめ候」
(10月2日に道灌は荒巻へ上り、すぐに引田辺りの陣場等を見て廻り、其の地での作戦を練っていたところ案の定、結城、両那須、佐々木、横瀬、其の他彼の国の諸勢が申し合わせ、景春並に同名六郎等多勢で寄せて来ました。(道灌は)兼ねて予想をしていたので、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前にして陣取り、(顕定が)天子の御旗を出されれば、その時合戦に及ぶだろうと考えていました。ところが、思いつきの考えで意見をする人がいたのでしょうか、その作戦は実行されないまま、十一月十四日に敵は退散しました)
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(引田)
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(横室古墳)
長谷川氏の案内ですぐ近くの引田という所へ行ってみると、そこはやや高くなっていて横室との間に窪地があるので、道灌はそこを切所と考えたと思われます。切所とは、勝敗のきめてとなる厳しい地形のことです。全てが『太田道灌状』の記述と合致する地名と地形であるので、いつもながら感動します。私は10年ほど前にこの近辺を廻りましたが、今回は長谷川氏の案内で地名と地形と両軍の動きを詳しく検証しました。言語学では「地名は言葉の化石である」といわれています。そのことが間違いないことがよくわかります。
この地に道灌軍と景春方の結城氏など関東八家の大軍が軍旗をなびかせて押し寄せました。古墳の頂上に登ってみると、前橋市街や周囲に広がるブロッコリー畑がよく見えるので、ここは最初に太田道灌がそのあと長尾景春も登って物見をしただろうと想像されて面白くなってきます。上州の山々が見えないのが少々残念です。
さあ台風が日本列島に近づいているので、帰らねばなりません。



2018年08月18日

太田家軍旗

2018年7月14日(土)から9月2日(日)まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館で「企画展・古文書大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」が開催中です。
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(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
この展示に「太田家軍旗」(日の丸に鏑矢紋絹地旗印)が展示されています。これは、15世紀に合戦の最中に使用された軍旗です。絹地に「日の丸」と太田家の替紋「違い鏑矢紋」を配した軍旗は、太田家の歴史を記した「太田家譜」にも記されています。軍旗の大きさは、よこ約250cmm、たて約40cmmで、先端はちぎれたようになっています。残念ながら撮影禁止ですのでやむを得ず私は、その軍旗をスケッチしてきました。
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(私がスケッチした「太田家軍旗」)
展示の説明によると、この軍旗は東大阪市の専宗寺に伝わる岩付太田氏関係資料で、太田道灌の曽孫太田資正の三男資武の末裔にあたる子女が、専宗寺の兄弟寺河内の慈明寺に嫁いだ縁から、同寺に伝わったということです。東大阪市の専宗寺のブログを見ると、確かに「太田道灌と専宗寺は親戚である」旨が記されています。
この軍旗は、今回初めて博物館で展示されたそうです。
昨日、知人より「太田家軍旗」の写真が送られてきました。ネット上で出回っているそうです。写真を見ると確かに現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されているものと同じ旗です。どこでいつ撮影されたものかわかりませんがその写真を掲載します。
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(太田家軍旗、撮影場所不祥)
岩槻系の太田道灌曽孫太田資正の許には、道灌使用の軍配、道灌遺愛の琵琶「千鳥」、香木「蘭奢待」、そして多分「太田道灌状」など貴重な道灌遺品が伝わっていました。そのことを考えると、この軍旗は、太田道灌が実戦に使ったもので太田資正が所持していたものである蓋然性は極めて高いと思います。

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2018年07月16日

道灌紀行ニュースNO.12

1.第19回「太田道灌の集い」平成30年7月29日(日)(伊勢原市)
太田道灌大河ドラマ推進実行委員会は、道灌の大河ドラマ要望の署名が、5月末に15万2千筆を越えたと発表しました。その盛り上がりの中で、恒例の太田道灌の集いは、平成30年7月29日(日)伊勢原市市民文化会館ホールで、開催されます。
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(「道灌の集い」チラシ)
第1部 午後1時より・文化・芸能発表
尺八演奏
成瀬児童合唱団
民謡踊り・友遊庭
伊勢原手作り甲冑隊
第2部 午後2時より・あいさつと報告
太田資暁 道灌の集い会長
伊勢原市長(予定)
伊勢原市議会議長(予定)
衆議院議員(予定)
他県市町自治体の報告
第3部 午後3時より・芸能発表
歌手 小倉恵子さん
舞踊 五条詠寿郎さん
落語 三遊亭遊吉師匠
三上利栄実行委員長は「多くの人々が、お気軽に来場してくれるよう望んでいます」と語っています。

2.伊勢原市議会「太田道灌大河ドラマNHKへ要望」を決議
7月29日の第19回「太田道灌の集い」を間近にして、伊勢原議会6月定例会において「太田道灌をテーマしたNHK大河ドラマ誘致についての決議」を満場一致で可決しました。
決議は、道灌の墓所が市内にある経緯に触れ、「道灌の活躍の足跡は、関東各地に残され、ゆかりのある各地の自治体にとって地方創生の観光資源となる」と述べています。
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(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

3.太田図書の墓前祭(佐倉市)
2018年7月14日(土)午前11時より、佐倉市の臼井城址公園で太田図書の墓の墓前祭が行われました。主催した臼井文化懇話会の岡野敦会長、中野英樹相談役、吉田とく名誉理事また太田家から太田資暁氏、太田盛明氏、佐倉市教育委員会の関係者など約20名が参列して、厳粛に執り行われました。
太田道灌の弟、太田図書之助資忠は、1479年(文明11年)7月15日、臼井城の合戦で壮烈な最期とげ、その場所に葬られました。
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(太田図書の墓)
法要のあと、市内で懇話会が行われ、太田図書の墓建立の経緯や太田道灌大河ドラマへの期待など、話が盛り上がりました。

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2018年07月01日

西武球場の真ん前に「太田道灌の御神木」

先日知人から西武球場の真ん前の寺に、「太田道灌の御神木」があると聞きました。「えー」と私はびっくり仰天です。そこは、東大和市の我が家から車で10分のところです。私は道灌の史跡調査で越生、秩父方面へ行くため、多摩湖を横断し、月に数回西武球場前を通っています。行ってみると、確かに「太田道灌の御神木」がありました。「灯台もとくらし」とはこのことです。
西部鉄道狭山線の西武球場前駅は野球ファン専用の駅です。西武球場正面(南側)に狭山山不動寺があり、その山門右手に「太田道灌御神木」と説明板があります。
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(御神木の説明板)
説明板にいう「御神木、この銀杏の大木は、江戸城を築いた太田道灌が城砦を構えていた城山城跡にあったものである。徳川時代から今日まで御神木として崇敬された。関東大震災の時は、大勢の人がこの大樹の下に寄って難をまぬかれ、神験のあらたかさを喧伝されたものです。その後区画整理の際、樹齢五百年のこの大木を切るに忍びず、当境内に移植して造化の神秘をしのぶよすがとし、社会科の教材として保存することにしたものです」
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(太田道灌の御神木・大銀杏)
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(御神木の幹)
狭山山不動寺は、埼玉県所沢市上山口にある天台宗別格本山の寺院です。山号は狭山山、寺号は不動寺、本尊は不動明王、埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られています。
1975年(昭和50年) 西武グループが各地にプリンスホテルを建設した際に、東京プリンスホテルの近くの芝増上寺をはじめ隣接する各地の文化財を、西武鉄道終点のこの地に集めました。そして西武鉄道が、当時のオーナーであった堤義明氏と親しかった寛永寺の助力を得て、天台宗別格本山として不動寺をこの地に建立し、集めた文化財を境内に設置しました。
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(不動寺の勅額門・)
不動寺にある文化財は次のようなものです。
勅額門=(ちょくがくもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。後水尾天皇の筆による『勅額』門とされ、国指定重要文化財です、
御成門=(おなりもん)増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設しました。
総門=長州藩主、毛利家の江戸屋敷に建てられた門で、素材はすべてケヤキです。
その他各地の由緒ある建造物やたくさんの石灯篭があります。
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(本堂と江戸時代の石灯篭)
さてところで、道灌の御神木の説明板にある「城山城跡」とはどこでしょうか。私は、いろいろな人に聞きまわり、ようやくわかってきました。
東京都港区の東京プリンスホテルの周辺には、亀塚公園、愛宕山、仙石山など太田道灌が出城を築いた場所がいくつかあります。仙石山には道灌の時代に、江戸城の出城として番神山城(太田道灌塁)が築かれ、その城域は現在の城山トラストタワーやホテルオークラのあたりまでつづいていたと思われます。城山を開発するとき、道灌の御神木と伝えられる樹齢500年の大銀杏は、伐採するには忍びがたく、プリンスホテル社長堤義明氏の英断で不動寺に移植されたもの思われます。堤氏は、とかくの非難を浴びながらも都市開発のため、その他多くの歴史的な建造物を所沢の田舎の寺の境内へ次々と移動させました。日本の高度成長時代の財界の巨魁の剛腕と財力には、唯々驚くばかりです。
おかげで、おそらくは道灌手植えの大銀杏は、都塵をはなれた静かな山里で、涼風に吹かれて蘇生し、年々美しい若芽を伸ばしています。不動寺の境内は広く起伏に富み、そこには一基の墓もなく祈祷所が一か所あるだけです。したがってそこはまるで文化財の展示場のようです。
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(東京プリンスホテルと東京タワー)
東京都の港区立郷土資料館で職員に訊くと「東京プリンスホテルができた頃に、多くの文化財等が所沢に移動されたことは承知しています。しかし当時は、東京オリンピック(1964年)もあったので、この地域の再開発のどさくさで、どれだけの文化財が移動されたかを記録にとってはありません」とのことであります。
所沢に移動された文化財等は、歴史的にまた美術的にも一見の価値があります。ここは、道灌の御神木の説明板にあるように、社会科の勉強のためにも一度は来るべきところです。

2018年06月06日

道灌紀行ニュース N0.11 

日暮里駅前に「山吹の花一枝」の像
東京都荒川区は、2018年5月23日(水)JR日暮里駅前に、荒川区ゆかりの武将太田道灌に山吹の枝を差し出す女性をモチーフにした「山吹の花一枝」(やまぶきのはないっし)と題する女性の像を設置しました。同じ場所に、太田道灌の騎馬像「回天一枝」(かいてんいっし)が設置してあり、荒川区は新たな観光スポットとしてPRしたい考えです。
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(ほぼ等身大の「山吹の花一枝」像)
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(山吹の花一枝を持つ像)
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(台座の銘板)
「山吹の花一枝」の像は、彫刻家で荒川区顧問の平野千里氏が制作し、東京荒川ライオンズクラブより寄贈されました。
除幕式に出席した西川太一郎区長は「素晴らしい彫刻です。日暮里は成田空港からの便が良く、海外から多くの来客を見込めます。区の新たなシンボルになってほしい」と語りました。
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(説明板)
説明板には、太田道灌の山吹伝説、道灌略伝、道灌山や本行寺の道灌丘碑のことなどが記されています。
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 (制作者 平野千里)
平野千里氏は、1948年東京生まれ、彩色木彫の第一人者。1998年に荒川区ふるさと文化館の「芭蕉旅立ち」の像を制作。現在、荒川区顧問、荒川区地域振興公社理事、太平洋美術会理事、荒川区美術連盟顧問。
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(」「回天一枝「」の像、中央下方に「山吹の花一枝」の像)
「山吹の花一枝」の像は、太田道灌の騎馬像からやや離れたところに、山吹の花一枝をもって、道灌の方を見つめて立っています。その清楚な姿から、ほどなく道灌とのロマンス話が、まことしやかに伝えられるようになるでありましょう。どこから聞いたのか、この像を見にきて、写真を撮る人の姿が絶えません。
posted by otadoukan at 10:35| Comment(0) | 道灌紀行ニュース N.11

2018年06月01日

道灌愛用の「古天明霰釜」

さいたま市の大宮で東武野田線に乗り換えて、岩槻の一つ手前の七里(ななさと)で下車します。線路沿いに大和田方面へ10分も歩くと、曹洞宗の鷲嶽山大園寺(だいえんじ)という古刹にきます。駅から近いものの入り口がわかりにくいので、住民に訊かなければなりません。
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(大円寺)
大円寺の縁起によると、1525年(大永5年)、岩槻城主太田持資の曽孫太田資正の奥室、陽光院殿が開基となり、栄春禅師が開山となり、武蔵野の風渡野(ふっとの)台地に大円寺が建立されました。
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(大円寺法因縁起)
今年、5月24日、開基450回忌の法恩授戒會が行われ、これに因み3日間のみ特別に、太田道灌愛用の「古天明霰釜」が公開されました。私は、絶好のチャンスと思い、早速出かけて説明を聞き、写真を撮らせていただきました。
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(ガラスケースに入った道灌愛用の古天明霰釜)
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(同上、霰無地の茶釜)
寺の山門脇にあるさいたま市教育委員会の説明板にいう。
「さいたま市指定文化財工芸品
大円寺古天明霰釜(だいえんじこてんみょうあられがま)
大円寺は室町時代の創建で、その頃このあたりは岩槻太田氏の領地に組み入れられていました。太田氏と大円寺とのかかわりは深く、この窯は太田道灌が茶の湯に愛用していたと伝えられ、後に大円寺に寄贈されたものです。寄贈者は陽光院殿で、同寺に参詣するときは、この釜で茶をたて、道灌の位牌に供えたと言われています。
天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は室町時代後期までにつくられたものの総称です。西の芦屋、東の天明と言われ、茶の湯釜の双璧と称されました。
大円寺釜は古天明としてはめずらしく霰文(あられもん)ですが、他に文様を入れない霰無地で、その気品ある形とともに、古天明の味わいを持つ貴重な釜と言えます」。
太田道灌愛用の茶釜は、資家、資頼、資正と伝えられ、資正の奥室陽光院が所持していたものと思われます。
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2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
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(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。

2018年04月10日

「太田道灌状」の久下と久下氏

1.久下氏の出自
「太田道灌状」第24段にいわく「(前略)(文明11年)十二月十日金谷談所へ着陣仕り候処、忍城の雑説候由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下(くげ)へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候ば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」と。
*金谷談所=本庄市児玉町金谷の寺の学問所
*成田下総守=成田親泰、忍城主
 1479年(文明11年)12月に、道灌軍が陣を寄せた久下という所と国人領主久下氏を調べます。国道17号線を北上して熊谷市に入ると、中山道の久下という交差点にきます。そこを左折して荒川の方へ入った地域が久下です。
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治著)によると次のようです。私市(きさい)党の久下為家は大里郡久下村に住み久下氏の祖となりました。重家、則氏と伝えて代々久下太郎と称しました。則氏の二子憲重の子久下権守直光は石橋合戦以来源頼朝に従い、一の谷その他の戦いに参加して武功がありました。
2.久下氏の菩提寺・東竹院
熊谷市久下の曹洞宗東竹院久杉寺は、久下直光が開基した久下氏の菩提寺です。境内には「久下権守直光公 次郎重光公墓所」という墓標があり、その奥に2基の五輪塔があります。東竹院は久下次郎重光(法名は東竹院)が開基で、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基となりました。
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(墓所の標)
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(久下氏の墓所)
頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主久下重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けました。したがって久下氏の家紋も東竹院の家紋も「丸に横一文字」です。
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(東竹院の寺紋「丸に横一文字」は久下氏の家紋「一番」に因む)
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしています。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕ええました。
成田氏が熊谷市上之から忍(おし)へ来て忍城を堅固にして行田町を整備しました。成田氏は築城に際し近隣の一族、別府、玉の井、奈良氏はもちろん、酒巻、須賀、中條、久下、吉見の各氏の助力を得て、水路を開き、良田を整備し農地をひらき勢力を増しました。この頃、成田氏に雑説(謀反のうわさ)が起こったので、道灌は文明11年の年末に、久下館の近隣に陣を寄せて成田氏と会い、成田氏の成氏側への寝返りを防いだのでした。おそらくは道灌が久下氏を信頼していたので、その館近くに陣を取ったと思われます。
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(久下古城の荒川河川敷)
熊谷市教育委員会の郷土史編纂室によると、太田道灌が訪れた久下氏の居館の跡は、現在の東竹院からすこし南方の、荒川河川敷の中と思われるものの、発掘調査の結果は何も出なかった、ということであります。荒川は昔から名にし負う暴れ川であるので、私が「荒川の氾濫で遺構も遺物もすべて流されたかもしれませんね」と余計なことをいうと担当者は黙っていました。返事のしようがなかったのでしょう。
久下氏居館跡と推測される所は今、灌木が茂り野の花が咲き、風が通るだけのだだっ広い河川敷となっています。

2018年03月19日

太田資正の軍資金か

1.遺跡で大量の埋蔵銭(メディアの報道)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は9日、中世武士の館跡とされる同県蓮田市の「新井堀の内遺跡」から、大きな甕(かめ)に納められた埋蔵銭が見つかったと発表した。10万〜20数万枚の銭が入っていると想定され、1つの甕から見つかった量としては国内最大級という。銭のほかに墨で文字が書かれた木簡も見つかった14〜18日に熊谷市の県文化財収蔵施設で特別公開する。
 県道の建設工事に伴う事前の緊急発掘中に館跡の一角から出土した。15世紀前半に焼かれた「常滑焼」の大甕で容量は約280リットル。一定数の銭がひもでつづられた状態で納められ、石蓋が閉まっていた。甕の中からは墨で文字が書かれた木簡も見つかり、判明した文字から銭の枚数は約26万枚の可能性があるという。
 これまでに19種類の銭種を確認した。中国・明の「永楽通宝」が多いことから、同事業団は「最終的な埋設時期は少なくとも15世紀以降と考えられる」と指摘。さらに分析を進め、詳細を明らかにする方針だ。(日本経済新聞電子版2018/3/9)
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 (熊谷市の埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.特別公開「国内最大級の埋蔵銭」
 私は早速、埼玉県埋蔵文化財調査事業団へ出向き、この世紀の大発見物を見ることにしました。川越市より国道254号で北上し、柏崎という三叉路で国道407号に入り、しばらく走って東平で右折して県道66号に入ります。少し走ると「文化財調査事業団」の表示が見えます。事業団の門へは、次々と車が入って大盛況だったので、職員総出で来訪者を迎えてくれました。本棟とは別棟の展示場に、発掘された埋蔵銭の大甕と説明板がありました。
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(特別公開「国内最大級の埋蔵銭」と標示)
 「新井堀の内遺跡」(埼玉県蓮田市黒浜地内)で発見された大甕の埋蔵銭の量は国内最大級です。常滑焼の甕には精巧な蓋がつき、甕の中には、墨で書かれた木簡も発見されました
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(埋蔵金・ノーフラシュで撮影OK)
 中国製の銭はわらのひもを通され、ズシリと積み重なっています。現在甕は、掘り出されたままで、中の方がどうなっているかわからない、ということです。
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(甕を覆っていた蓋)
甕の蓋は、秩父の山から切り出したような、緑泥片岩でできています。
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(大甕をのぞき込む見学者)
このような埋蔵金をみると、見学者は必ず「現代のお金にするとどれくらいですか」と尋ねます。すると説明員は必ず、やや困惑した表情を見せます。中世の貫高制は変動相場制なので、使われた時と所でその値打ちは相当違ってくるからです。この日の説明員の答えは「当時の京都で、家2軒半を買える値打ちのようです」というものでした。私は「じゃあ、1憶円くらいですね」と横から口を出しました。しかし「これは20憶円くらいにはなりますよ」と言う人もいて、ロマンが広がります。
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(木簡の写真・右は赤外線写真)
 甕から出た木簡には「三」「いのとし」「二百六十」と書かれています。これは「3(月)」「いの(しし)年」「二百六十(貫)」の意味と説明されています。したがって古銭の束は、260個あると推測されています。
説明員からさらに面白い説明がありました。「今回の埋蔵金は、地下2メートルで発見されたが、その上に同様の二つの甕を掘り出して埋めた痕がありました。したがって『新井堀の内遺跡』には、三つの甕の埋蔵金があったに違いありません。舘の主はなにかの事情で一番深い所に埋めた一つを、忘れてしまったようです」という話でありました。
展示場でいただいた説明書には、次のように記されています。
「(埋蔵金が見つかった)『新井堀の内遺跡』の南東約52Kmには、太田氏が治めていた岩付城があります。また、谷を挟んで北東約1.8Kmには、江の埼城が位置しています。
 周辺には、いくつかの舘跡が分布しています。『新井堀の内遺跡』にあった舘の主が仕えていたとされる、太田資正は、1564年に岩付城を追われています。常陸の国に逃れ、城を奪い返そうとしましたが失敗に終わっています。そのため、『新井掘の内遺跡にあった舘跡』もその後、武士の舘としての役割を終えたと考えられます」。
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(発掘の様子を展示)
この説明書には、舘の主は岩槻城主太田資正(すけまさ)の家臣野口多門であったと伝わっているとし、「太田氏略系図」も添えられています。この埋蔵金が、太田資正の家臣野口多門が隠匿した、太田氏の軍資金であることが強く暗示されています。「岩槻巷談」によると、太田資正の配下に野口多門という足軽隊長がいました。
3.私の推測と石原太田氏の埋蔵金
1565年(永禄8年)太田道灌の曽孫・太田資正は、後北条方の陰謀に引っかかった長男氏資のクーデターにより岩槻城を追われ、常陸の佐竹氏の客将となりました。そのとき城内にいた足軽隊長野口多門は、城の藏から軍資金をもちだし、配下の足軽兵数十人に分散して持たせ、水濠に作ってあった秘密の浅瀬から脱出して野口舘へ運び、土中の甕に隠しました。多門は後に、大甕二つの軍資金を資正に届け、大甕1個の軍資金を後々のために土中に保管しておきました。資正は常陸で活躍したものの後北条方から岩槻城を取り戻せず、1591年(天正19年)片野城(石岡市)で69年間の波乱万丈の生涯を終えました。やがて多門も老いていわゆる認知症になり、軍資金のことは忘れて子孫にも伝えられませんでした。16世紀の武蔵でこれほどの軍資金を持てる実力者は、太田資正しか考えられません。
蓮田市「新井堀の内遺跡」の近くの五庵橋には、太田道灌手植えの松の子松と伝えられる見事な松があり、そのあたりは往時から太田家有縁の地域でした。
実は、このようなことが東京都調布市の石原太田氏の太田塚近くでもありました。1995年(平成5年)太田塚近くの道路工事現場から、壺に入った約1万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は唐銭でした。調布市立郷土博物館でその古銭の山を見て、私はびっくり仰天しました。近くに住んでいる石原太田氏の前当主は「あれはうちのものだが、証明する証拠がない」と語っていました。
4.40万個の埋蔵物・古代人のメッセージ
埋蔵銭の展示場を出ると、埋蔵文化財の展示場に案内されます。本館2階の展示場に入って、再びびっくりしました。この展示場のおびただしい数の収納ケースのなかに、40万個の土器や埴輪がぎっしりつまっていました。私は今まで、土器や埴輪は、博物館にあるだけと思っていました。それが大きな間違いであることに気づきました。埼玉県の各地に、昔からたくさんの人が住み、日常的にたくさんの土器をつくって使っていたのです。これらの様々な土器や埴輪を見ていると、それを作って使った人々の生活や性格や考えが想像されてきます。土器は古代人のレガシ―(遺産)でありメッセージでもあるからです。
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(収納ケースの埴輪)
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(同じものが二つとない土器の山)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員はみな、降って湧いたような突然の来訪者に戸惑いながらも、親切で一生懸命でした。なによりも有難かったのは、一般の博物館と違って、写真を撮り放題に取らせてくれたことです。
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2018年02月14日

道灌紀行ニュースNO.10 太田道灌イベント2題

1.講談「太田道灌」を聴く会(東京都北区赤羽・静勝寺)
2018年1月26日(金)東京都北区赤羽西の自得山静勝寺の本堂で講談「太田道灌」を聞く会が催されました。これは、江戸東京博物館友の会の「道灌倶楽部」の企画と静勝寺の協力で行われました。
まだ路傍に雪が残り、冷たい空っ風が吹く晴れた日に、一行約50名が赤羽駅に集まりました。最初に太田道灌が社殿を再興したと伝えられる赤羽八幡神社や道観山稲荷社などを見学し、稲付城址すなわち静勝寺の階段53段を上りました。
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(赤羽八幡神社)
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(静勝寺・道灌堂)
この日は、太田道灌の命日にちなむ26日であったので、静勝寺の道灌堂が開扉されていました。一行は、道灌堂の太田道灌像を参拝したあと、本堂に集まりました。最初に静勝寺の高崎住職より、太田道灌と静勝寺のゆかりについて解説がありました。ここは太田道灌の砦址で、道灌没後に道灌寺が建てられ、江戸時代には道灌の子孫の掛川城主太田資宗が境内を整備し、太田家の菩提寺となりました。
そのあと前座の田辺凌天につづき、真打田辺凌鶴の講談「太田道灌」が演ぜられました。これを聞けば太田道灌の一生がわかるという内容の熱演でした。
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     (真打田辺凌鶴)

2.講演会「太田道灌小机城を攻める」(横浜市鶴見区・鶴見川流域センター)
2018年2月12日(月)、横浜市の小机城址近くの鶴見川流域センターで「篠原城と緑を守る会」の企画で、講演会「太田道灌小机城を攻める」が行われました。この日もまた、冷たい風が吹きすさぶ好天の日でした。JR横浜線の小机駅から流域センターへ向かって歩いていると、往時はたしかにこのあたりは低湿地で、小机城の防御線になっていたことが実感できます。
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    (小机城址の空堀)
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   (鶴見川流域センター遠望)
流域センターは、鶴見川縁に立つ立派な公共施設です。この日の講演会には約50名が集まり、3人の講師が太田道灌と小机城を語りました。地元の研究者でなければわからない貴重な調査や面白い伝承が聞けて、貴重な研修でした。
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  (小机城をバックにしている案内書)
文明10年4月11日、太田道灌が小机城を攻めたとき、陣を張った亀の甲山とは正反対の方向にある篠原城を経由して、羽沢の硯松のあたりから一気に奇襲攻撃をかけたという説は、まことに興味深く新鮮なものでした。

2018年01月18日

道灌紀行ニュースNO.9

      「太田道灌と江戸」・国立公文書館の企画展、盛況
2018年1月13日(土)より3月10日(土)まで、東京都千代田区の国立公文書館で「企画展 太田道灌と江戸」が行われています。1月17日(水)には、イベントギャラリートークと称して、企画者の解説があったので、私は早速いってきました。
東京メトロの竹橋駅で降り、毎日新聞社側の地上に出るとすぐ竹橋があります。橋をわたって右側の東京国立近代美術館を過ぎると国立公文書館です。ちょうど江戸城の北はね橋門の前あたりです。
国立公文書館1階にコの字型の展示スペースがあり、その約半分が今回の展示スペースです。私が行ったときは、約100人の入館者が熱心に説明を聞きながら展示ケースの中に見入っていました。この日は解説日であったためか、予想外の大盛況でした。次回の解説日は、2月21日(水)です。この展示は、入場無料です。
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(国立公文書館)
解説の企画員は開口一番「最近、応仁の乱や享徳の乱の書物がベストセラーになっているので、それに呼応して、私たちも中世関東の戦国時代の幕開けに活躍した太田道灌の展示を企画しました、(趣意)」と語り、説明にはいりました。
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(企画員の解説を聞く来館者)
総計30点の文書が、次の4グループに分けられて展示・解説されています。
T道灌の誕生と伝説 
U道灌と関東の戦乱 
V道灌と江戸 
W戦乱の終結と晩年
その中には、普段聞くことのない珍しい道灌関連文書がいくつかありました。
「太田道灌兵書」(昌平坂学問所)というものを、私は初めて見ました。江戸時代のものだそうですが、30連戦無敗の太田道灌の兵書の現物を、私は日を改めて是非拝見したいと思っています。
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(太田資長書状写) 

この展示に関連して、2月1日(木)19:00、千代田区立図書文化館で「太田道灌と江戸」と題する江戸歴史講座が行われます。講師は、国立公文書館の上席公文書専門官である小宮山敏和氏です。詳細については、日比谷図書文化館のHPをご覧ください。
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2017年12月09日

太田資康の最期を追う

1.新井城址(三浦市)と衣笠城址(横須賀市)、三浦氏滅亡の地
三浦半島の国道134号を南下し、城ケ島の手前引橋のあたりで海岸へ向かうと有名な油壷があります。油壷湾と小網代湾の間の半島が新井城址です。新井城址二の丸址がマリンパークとなっています。本丸址の一番いい所には、東京大学臨海実験場の建物があり、門のところに「関係者以外の立ち入りを禁止する」と書いてあります。私は、実験場の事務所へ行って特別の許可を得て地図や資料もいただき、周辺の土塁と堀をしらべました。遺構はやや崩れてはいるものの、良好に残っています。
1513年(永正10年)三浦義同(よしあつ)、義意(よしおき)父子は北条早雲の軍勢に追われ、ついに最後の拠点新井城に籠城しました。このとき太田道灌の嫡男資康の一隊は、舅の三浦義同に加勢するために衣笠城のあたりで、圧倒的な大軍である北条軍と果敢に戦って敗れたと思われます。墓碑銘によると、資康45歳でありました。
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(衣笠城址・桜の名所)
新井城は海上に突き出たような要害であったので、さすがの北条軍も攻め込むことはできず、兵糧攻め作戦で包囲しつづけました。やがて三浦水軍の海上補給も絶たれ、城兵が3年間も籠城したあと終に新井城の兵糧は尽きました。1513年(永正13年)7月10日夜半に全城兵で酒宴を催し、翌日早暁に千数百人の城兵は全員切って出て激戦を繰り広げました。21歳の嫡男三浦義意は、羅刹の如く戦って北条兵を恐れさせたものの衆寡敵せず、三浦父子は自刃して名族三浦氏はここで滅亡しました。三浦氏の墓は、二の丸址にあります。
新井城址の土塁を静かに歩くと、今も城兵の壮烈と悲愁の気がただよい、戦国の栄枯盛衰の非情に打たれます。「落城を前に、城中の7人が夜中に小舟で脱出したそうです。その人たちの子孫が先日ここへきました」と臨海実験場の職員が語っていました。おそらくはその人たちが、衣笠城近くの大明寺に、武運拙く討ち死にした太田資康の墓を建てたのでありましょう。衣笠城址は衣笠駅から徒歩20分です。

2.大明寺(横須賀市)、太田資康の墓
 JR横須賀線の衣笠駅から三浦学園という学校を目指して10分も歩くと、学校のとなりに金谷山大明寺という日蓮宗の古刹があります。参道を上ると広い境内に本堂や日蓮像があります。
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(大明寺境内)
本堂裏手の墓域には太田資康の墓という標示があり、その場所はすぐにわかります。広い墓所に五輪塔が立ち、そばに墓碑銘があります。となりに土まんじゅうと碑が立っています。
寺の由緒に次のように記されています。「(前略)寺内の裏山には、太田道灌の子、太田資康の墓であるといわれる土まんじゅうがあります。太田資康は、三浦道寸義同の娘を妻としていましたので、三浦氏が北条早雲に攻められたとき、途中で北条軍を迎え撃って戦死しました。永正10年(1513)9月29日のことです」。
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(案内板)
「墓碑銘」にいわく「五輪の塔墓誌 太田資康の墓 江戸城主太田道灌の嫡子、源六郎資康法名法恩斉、日恵、妻は相模の三浦義同(道寸)の娘。永正十年(一五九三)北条早雲の軍と戦い九月二十九日討ち死にした。大明寺に葬られた。元服の年を文明十年(一四七八)とすると四十五歳であったと推定される。三浦義村の末孫・三浦重一の妻 三浦妙光 八十歳」と。
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(墓碑銘)
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(太田資康の五輪塔)
 「太田家記」(1714年)にいう「三浦大明寺は御葬送、是は三浦党御縁者故、尊骸を江戸まで送らずして、其の所に於て葬たるものなり」と。
大明寺の住職の話によると、この寺は明治初年に火災に会って文書を全て焼失したので、太田資康にかかわる記録は全く無くて伝承のみが伝えられているとのことであります。
太田資康の最期については異説があります。「太田家記」には、立川原合戦での戦死説も併記してあり、「赤城神社年代記録」には「1498年(明応7年)太田源六生涯」とあります。太田資康の墓があるのは、大明寺のみです。

3.女子(おなご)は門を開く
 古諺に「女子は門を開く」とあります。昔は系図に名も残らぬ女性が、実は人のネットワークを広げて一家一族繁栄の要となるということです。
太田資康の曽孫於勝の方は、徳川家康の側室となり一子を設けたものの夭折したため、家康の側室於万の方が生んだ第11子頼房の養母となりました。そして頼房は水戸徳川家の祖となり、於勝は英勝院と号して英勝寺の開基となりました。於勝の甥太田正重は水戸徳川家家老として、もう一人の甥大田資宗は掛川城主五万三千石として栄えました。
一方於万の方は安房勝浦城主の正木氏の娘であり、正木氏の祖は三浦義意の弟時綱と伝えられています。於万が生んだ、家康の第10子頼宣は紀州徳川家の祖となり、於万は養珠院と号し、その実兄三浦為春は紀州徳川家家老として栄えました。
太田道灌と三浦道寸の絆が、連綿として江戸時代まで続き、女子が一族繁栄の要となっている感がします。
posted by otadoukan at 16:47| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2017年10月17日

道灌紀行ニュース NO.8

    川越まつりと伊勢原観光道灌まつりの太田道灌
2017年10月14日(土)と15日(日)の両日に、川越まつりと伊勢原観光道灌まつりが同時に行われました。私は、14日に川越を、15日に伊勢原を訪れてまつりを楽しみました。両日とも空模様はあいにくで、一部行事が中止になったものの大勢の老若男女が押しかけて大賑わいでありました。

川越まつりは、1646年(慶安元年)川越城主松平信綱の時代に始まった伝統的なまつりで、ユネスコ文化遺産に指定されています。
14日(土)、川越市連雀町の大田道灌の山車は、覆いをかけたまま会所前で止まり、晴天を待っていました。曳っかわせのとき、山車の囃子台では、笛、太鼓、鉦で天狐が踊りつづけていました。貴重な山車と人形を、雨で濡らすわけにはいきません。多くのファンが待ち続けたものの、この日終に空は晴れず、道灌さんは立ち上がることができませんでした。
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 (覆いをかけた大田道灌山車)
参考に昨年の川越まつりの道灌山車と道灌さんの写真を掲載します。
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残念がった道灌ファンの観光客は、祭り会館へ行って別の太田道灌人形を見て心を慰めました。 
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 (祭り会館の道灌さん)

第50回伊勢原観光道灌まつりでは、伊勢原駅周辺の各地で、数多くのイベントが行われました。
15(日)日には、天候が心配であったものの、辛うじて太田道灌鷹狩り行列が実施され、俳優の北村有起哉演ずる太田道灌と高野志穂演ずる北条政子がパレードを行い、最終地点まつり広場の舞台の紹介式に登場しました。北村有起哉は太田道灌の子孫でもあるので、黒岩神奈川県知事など多くの来賓が駆けつけ大いに盛り上がりました。  
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 (太田道灌・北村有起哉と北条政子・高野志穂、左は高山伊勢原市長)
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 (トークショーの北村有起哉と高野志穂夫妻)
★北村有起哉プロフィール
1974年生まれ、東京都出身。98年舞台「春のめざめ」映画「カンゾー先生」でデビュー。その後、各種の賞を多数授賞。映画「太陽の蓋」で初主演。出演作は舞台「道元の冒険」映画「関ケ原」など多数。2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」大山格之助で出演予定。
☆高野志穂プロフィール
1979年生まれ、東京都出身。幼少女期をバーレーン、シンガポール。ロンドンで過ごす。2002年、NHK朝の連続ドラマ「さくら」でデビュー。以後、数々のテレビドラマ、映画、舞台、コマーシャルにし出演。映画「Music Of My Life」が今秋公開予定。
(佐藤哲男さんから写真の提供を受けました。)
posted by otadoukan at 08:21| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.8

2017年09月28日

道灌軍と戦った村山党金子氏の故地 

本年9月24日に私は、武蔵村山市民会館での郷土史講演会で太田道灌と村山の陣について話をさせていただきました。その際、参加者の中に金子さんという方がおられて、終了後に懇談をしました。私はふと気が付いて「もしや、太田道灌が村山の陣から奥三保へ攻め込んだとき戦った、小沢城(愛川町)の金子掃部助の子孫ですか」ときくと「そうです」とおっしゃったので、いっそう話が弾みました。金子氏は、この地で「武士団村山党の会」の甲冑隊のリーダーとして活躍されています。
後日私には、太田道灌に二度も小沢城攻めをさせた、景春与党の勇猛な金子一族の出自と故地を調べてみようという気が、急に強く湧いてきたのであります。「武蔵武士」(渡辺世裕・八代国治 著)の中に「(村山党の金子氏は)武勇を以って最も著はる。(中略)各地に転戦して軍功多し」と記されています。

1.武蔵武士村山党のふるさと
旧青梅街道を西へ走り、武蔵村山市を過ぎて瑞穂町にはいるとすぐに殿ヶ谷というところへきます。そのあたりで山側へ右折すると村山氏の菩提寺福正寺という古刹があります。福正寺には村山一族の墓があり、村山土佐守の位牌があります。福正寺の近くに玉林寺公園があり、その中に村山土佐守の銅像が立っています。土佐守は笠をかぶっているので、残念ながら表情は見えないものの、はるか遠くを指さしてなにかを見つめています。台座の説明板に次のように記されています。
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(村山土佐守の像・玉林寺公園)
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(福正寺本堂)
     村山土佐守
平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任(よりとう)を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山市最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
 この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。  
      平成25年3月吉日      瑞穂町
『新編武蔵国風土記稿』(1830年)には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とあります。

2.金子氏の本貫地
JR八高線の拝島より電車に乗ると、二つめが金子駅(埼玉県入間市)です。瑞穂町からは車で15分も走ると隣接する入間市の金子につきます。このあたりは、村山党金子氏の本貫地で、今も町を歩くと狭山茶の看板と「金子〇〇」の看板がいたるところで目につき、今も金子一族が住んでいることがわかります。
金子駅から、車で5分も行くと金子氏の居館跡すなわち金龍山木蓮寺瑞泉禅寺跡があり、丘の中腹に金子氏の先祖墓があります。
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(金子十郎家忠の墓碑)
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(金子一族墓所)
村山頼任の孫家範は平安時代末より入間郡金子村を本貫地とし、金子十郎を名乗りました。家範の子家忠は、保元の乱、平治の乱で活躍しました。その後金子氏は、武蔵国の国人として山内上杉氏に属しました。

3.勇猛な金子一族に道灌軍も大苦戦
1477年(文明9年)3月、金子掃部助(かもんのすけ)が長尾景春に与して相模国小沢城(愛川町)に籠り、上杉方の太田道灌と戦いました。山内上杉氏に従っていた金子氏は、長尾景春が白井長尾氏の嫡流でその父祖、景信、景仲に恩顧があったので、景春に味方して道灌軍と戦いました。
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(相模川縁の小沢城址)
小沢城は相模川縁の絶壁の上にある要害であったので、城を囲んだ道灌軍は大苦戦をし、一か月後の4月18日にようやく落城させました。しかしながら道灌軍が移動すると、金子勢は再び小沢城を占拠し、翌年の4月に道灌軍が小机城をせめたとき後詰めとして背後を脅かしました。小机城落城とともに小沢城は、再び自落しました。そしてさらに翌年1478年(文明10年)道灌軍が相模の奥三保をせめたとき、金子勢は三度太田資忠軍の行く手に立ちはだかりしぶとく抵抗したもののやがて敗れました。けだし金子氏は、多摩の国人衆として各地に転戦し、最も顕著な武勇を著わし続けた、なにし負う武蔵武士村山党の一族でありました。

2017年08月04日

道灌紀行ニュース NO.7

   大河ドラマを目指す「道灌の集い」(伊勢原市)
2017年7月22日、伊勢原市民文化会館で「第18回太田道灌の集い」が開催され、約800人が参加しました。午前には「道灌サミット」が開催され、太田道灌大河ドラマ実現を目指す各自治体(千代田区、荒川区、伊勢原市、川越市、越生町等)の代表者が参加し、挨拶と報告がありました。午後には、大ホールで「道灌の集い」が賑々しく開催されました。
第1部:
文化発表、伊勢原甲冑隊のパフォーマンス、小倉恵子さんの「ああ太田道灌」熱唱等。
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   (伊勢原甲冑隊のパフォーマンス)
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   (花手毬)
第 2部:
式典、高山伊勢原市長等の挨拶、三上会長よりの、さる7月11日太田道灌大河ドラマ!推進実行委員会がNHKを訪れ、11万151筆を提出して陳情したことなどの報告等。
第 3部:
松沢成文さんの講演「大河ドラマへ!江戸城天守再建の展望」と三遊亭遊吉さんの落語。
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  (講演する松沢成文さん)
最後は、山口甲冑隊長の音頭で「大河ドラマをみんなで頑張ろう」と勝どきをして終わりました。
(写真は、伊勢原観光ボランティア&ウォーク協会HPより転載)
  

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