2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
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(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。

2018年04月10日

「太田道灌状」の久下と久下氏

1.久下氏の出自
「太田道灌状」第24段にいわく「(前略)(文明11年)十二月十日金谷談所へ着陣仕り候処、忍城の雑説候由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下(くげ)へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候ば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」と。
*金谷談所=本庄市児玉町金谷の寺の学問所
*成田下総守=成田親泰、忍城主
 1479年(文明11年)12月に、道灌軍が陣を寄せた久下という所と国人領主久下氏を調べます。国道17号線を北上して熊谷市に入ると、中山道の久下という交差点にきます。そこを左折して荒川の方へ入った地域が久下です。
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治著)によると次のようです。私市(きさい)党の久下為家は大里郡久下村に住み久下氏の祖となりました。重家、則氏と伝えて代々久下太郎と称しました。則氏の二子憲重の子久下権守直光は石橋合戦以来源頼朝に従い、一の谷その他の戦いに参加して武功がありました。
2.久下氏の菩提寺・東竹院
熊谷市久下の曹洞宗東竹院久杉寺は、久下直光が開基した久下氏の菩提寺です。境内には「久下権守直光公 次郎重光公墓所」という墓標があり、その奥に2基の五輪塔があります。東竹院は久下次郎重光(法名は東竹院)が開基で、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基となりました。
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(墓所の標)
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(久下氏の墓所)
頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主久下重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けました。したがって久下氏の家紋も東竹院の家紋も「丸に横一文字」です。
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(東竹院の寺紋「丸に横一文字」は久下氏の家紋「一番」に因む)
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしています。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕ええました。
成田氏が熊谷市上之から忍(おし)へ来て忍城を堅固にして行田町を整備しました。成田氏は築城に際し近隣の一族、別府、玉の井、奈良氏はもちろん、酒巻、須賀、中條、久下、吉見の各氏の助力を得て、水路を開き、良田を整備し農地をひらき勢力を増しました。この頃、成田氏に雑説(謀反のうわさ)が起こったので、道灌は文明11年の年末に、久下館の近隣に陣を寄せて成田氏と会い、成田氏の成氏側への寝返りを防いだのでした。おそらくは道灌が久下氏を信頼していたので、その館近くに陣を取ったと思われます。
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(久下古城の荒川河川敷)
熊谷市教育委員会の郷土史編纂室によると、太田道灌が訪れた久下氏の居館の跡は、現在の東竹院からすこし南方の、荒川河川敷の中と思われるものの、発掘調査の結果は何も出なかった、ということであります。荒川は昔から名にし負う暴れ川であるので、私が「荒川の氾濫で遺構も遺物もすべて流されたかもしれませんね」と余計なことをいうと担当者は黙っていました。返事のしようがなかったのでしょう。
久下氏居館跡と推測される所は今、灌木が茂り野の花が咲き、風が通るだけのだだっ広い河川敷となっています。

2018年03月19日

太田資正の軍資金か

1.遺跡で大量の埋蔵銭(メディアの報道)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は9日、中世武士の館跡とされる同県蓮田市の「新井堀の内遺跡」から、大きな甕(かめ)に納められた埋蔵銭が見つかったと発表した。10万〜20数万枚の銭が入っていると想定され、1つの甕から見つかった量としては国内最大級という。銭のほかに墨で文字が書かれた木簡も見つかった14〜18日に熊谷市の県文化財収蔵施設で特別公開する。
 県道の建設工事に伴う事前の緊急発掘中に館跡の一角から出土した。15世紀前半に焼かれた「常滑焼」の大甕で容量は約280リットル。一定数の銭がひもでつづられた状態で納められ、石蓋が閉まっていた。甕の中からは墨で文字が書かれた木簡も見つかり、判明した文字から銭の枚数は約26万枚の可能性があるという。
 これまでに19種類の銭種を確認した。中国・明の「永楽通宝」が多いことから、同事業団は「最終的な埋設時期は少なくとも15世紀以降と考えられる」と指摘。さらに分析を進め、詳細を明らかにする方針だ。(日本経済新聞電子版2018/3/9)
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 (熊谷市の埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.特別公開「国内最大級の埋蔵銭」
 私は早速、埼玉県埋蔵文化財調査事業団へ出向き、この世紀の大発見物を見ることにしました。川越市より国道254号で北上し、柏崎という三叉路で国道407号に入り、しばらく走って東平で右折して県道66号に入ります。少し走ると「文化財調査事業団」の表示が見えます。事業団の門へは、次々と車が入って大盛況だったので、職員総出で来訪者を迎えてくれました。本棟とは別棟の展示場に、発掘された埋蔵銭の大甕と説明板がありました。
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(特別公開「国内最大級の埋蔵銭」と標示)
 「新井堀の内遺跡」(埼玉県蓮田市黒浜地内)で発見された大甕の埋蔵銭の量は国内最大級です。常滑焼の甕には精巧な蓋がつき、甕の中には、墨で書かれた木簡も発見されました
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(埋蔵金・ノーフラシュで撮影OK)
 中国製の銭はわらのひもを通され、ズシリと積み重なっています。現在甕は、掘り出されたままで、中の方がどうなっているかわからない、ということです。
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(甕を覆っていた蓋)
甕の蓋は、秩父の山から切り出したような、緑泥片岩でできています。
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(大甕をのぞき込む見学者)
このような埋蔵金をみると、見学者は必ず「現代のお金にするとどれくらいですか」と尋ねます。すると説明員は必ず、やや困惑した表情を見せます。中世の貫高制は変動相場制なので、使われた時と所でその値打ちは相当違ってくるからです。この日の説明員の答えは「当時の京都で、家2軒半を買える値打ちのようです」というものでした。私は「じゃあ、1憶円くらいですね」と横から口を出しました。しかし「これは20憶円くらいにはなりますよ」と言う人もいて、ロマンが広がります。
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(木簡の写真・右は赤外線写真)
 甕から出た木簡には「三」「いのとし」「二百六十」と書かれています。これは「3(月)」「いの(しし)年」「二百六十(貫)」の意味と説明されています。したがって古銭の束は、260個あると推測されています。
説明員からさらに面白い説明がありました。「今回の埋蔵金は、地下2メートルで発見されたが、その上に同様の二つの甕を掘り出して埋めた痕がありました。したがって『新井堀の内遺跡』には、三つの甕の埋蔵金があったに違いありません。舘の主はなにかの事情で一番深い所に埋めた一つを、忘れてしまったようです」という話でありました。
展示場でいただいた説明書には、次のように記されています。
「(埋蔵金が見つかった)『新井堀の内遺跡』の南東約52Kmには、太田氏が治めていた岩付城があります。また、谷を挟んで北東約1.8Kmには、江の埼城が位置しています。
 周辺には、いくつかの舘跡が分布しています。『新井堀の内遺跡』にあった舘の主が仕えていたとされる、太田資正は、1564年に岩付城を追われています。常陸の国に逃れ、城を奪い返そうとしましたが失敗に終わっています。そのため、『新井掘の内遺跡にあった舘跡』もその後、武士の舘としての役割を終えたと考えられます」。
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(発掘の様子を展示)
この説明書には、舘の主は岩槻城主太田資正(すけまさ)の家臣野口多門であったと伝わっているとし、「太田氏略系図」も添えられています。この埋蔵金が、太田資正の家臣野口多門が隠匿した、太田氏の軍資金であることが強く暗示されています。「岩槻巷談」によると、太田資正の配下に野口多門という足軽隊長がいました。
3.私の推測と石原太田氏の埋蔵金
1565年(永禄8年)太田道灌の曽孫・太田資正は、後北条方の陰謀に引っかかった長男氏資のクーデターにより岩槻城を追われ、常陸の佐竹氏の客将となりました。そのとき城内にいた足軽隊長野口多門は、城の藏から軍資金をもちだし、配下の足軽兵数十人に分散して持たせ、水濠に作ってあった秘密の浅瀬から脱出して野口舘へ運び、土中の甕に隠しました。多門は後に、大甕二つの軍資金を資正に届け、大甕1個の軍資金を後々のために土中に保管しておきました。資正は常陸で活躍したものの後北条方から岩槻城を取り戻せず、1591年(天正19年)片野城(石岡市)で69年間の波乱万丈の生涯を終えました。やがて多門も老いていわゆる認知症になり、軍資金のことは忘れて子孫にも伝えられませんでした。16世紀の武蔵でこれほどの軍資金を持てる実力者は、太田資正しか考えられません。
蓮田市「新井堀の内遺跡」の近くの五庵橋には、太田道灌手植えの松の子松と伝えられる見事な松があり、そのあたりは往時から太田家有縁の地域でした。
実は、このようなことが東京都調布市の石原太田氏の太田塚近くでもありました。1995年(平成5年)太田塚近くの道路工事現場から、壺に入った約1万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は唐銭でした。調布市立郷土博物館でその古銭の山を見て、私はびっくり仰天しました。近くに住んでいる石原太田氏の前当主は「あれはうちのものだが、証明する証拠がない」と語っていました。
4.40万個の埋蔵物・古代人のメッセージ
埋蔵銭の展示場を出ると、埋蔵文化財の展示場に案内されます。本館2階の展示場に入って、再びびっくりしました。この展示場のおびただしい数の収納ケースのなかに、40万個の土器や埴輪がぎっしりつまっていました。私は今まで、土器や埴輪は、博物館にあるだけと思っていました。それが大きな間違いであることに気づきました。埼玉県の各地に、昔からたくさんの人が住み、日常的にたくさんの土器をつくって使っていたのです。これらの様々な土器や埴輪を見ていると、それを作って使った人々の生活や性格や考えが想像されてきます。土器は古代人のレガシ―(遺産)でありメッセージでもあるからです。
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(収納ケースの埴輪)
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(同じものが二つとない土器の山)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員はみな、降って湧いたような突然の来訪者に戸惑いながらも、親切で一生懸命でした。なによりも有難かったのは、一般の博物館と違って、写真を撮り放題に取らせてくれたことです。
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2018年02月14日

道灌紀行ニュースNO.10 太田道灌イベント2題

1.講談「太田道灌」を聴く会(東京都北区赤羽・静勝寺)
2018年1月26日(金)東京都北区赤羽西の自得山静勝寺の本堂で講談「太田道灌」を聞く会が催されました。これは、江戸東京博物館友の会の「道灌倶楽部」の企画と静勝寺の協力で行われました。
まだ路傍に雪が残り、冷たい空っ風が吹く晴れた日に、一行約50名が赤羽駅に集まりました。最初に太田道灌が社殿を再興したと伝えられる赤羽八幡神社や道観山稲荷社などを見学し、稲付城址すなわち静勝寺の階段53段を上りました。
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(赤羽八幡神社)
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(静勝寺・道灌堂)
この日は、太田道灌の命日にちなむ26日であったので、静勝寺の道灌堂が開扉されていました。一行は、道灌堂の太田道灌像を参拝したあと、本堂に集まりました。最初に静勝寺の高崎住職より、太田道灌と静勝寺のゆかりについて解説がありました。ここは太田道灌の砦址で、道灌没後に道灌寺が建てられ、江戸時代には道灌の子孫の掛川城主太田資宗が境内を整備し、太田家の菩提寺となりました。
そのあと前座の田辺凌天につづき、真打田辺凌鶴の講談「太田道灌」が演ぜられました。これを聞けば太田道灌の一生がわかるという内容の熱演でした。
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     (真打田辺凌鶴)

2.講演会「太田道灌小机城を攻める」(横浜市鶴見区・鶴見川流域センター)
2018年2月12日(月)、横浜市の小机城址近くの鶴見川流域センターで「篠原城と緑を守る会」の企画で、講演会「太田道灌小机城を攻める」が行われました。この日もまた、冷たい風が吹きすさぶ好天の日でした。JR横浜線の小机駅から流域センターへ向かって歩いていると、往時はたしかにこのあたりは低湿地で、小机城の防御線になっていたことが実感できます。
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    (小机城址の空堀)
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   (鶴見川流域センター遠望)
流域センターは、鶴見川縁に立つ立派な公共施設です。この日の講演会には約50名が集まり、3人の講師が太田道灌と小机城を語りました。地元の研究者でなければわからない貴重な調査や面白い伝承が聞けて、貴重な研修でした。
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  (小机城をバックにしている案内書)
文明10年4月11日、太田道灌が小机城を攻めたとき、陣を張った亀の甲山とは正反対の方向にある篠原城を経由して、羽沢の硯松のあたりから一気に奇襲攻撃をかけたという説は、まことに興味深く新鮮なものでした。

2018年01月18日

道灌紀行ニュースNO.9

      「太田道灌と江戸」・国立公文書館の企画展、盛況
2018年1月13日(土)より3月10日(土)まで、東京都千代田区の国立公文書館で「企画展 太田道灌と江戸」が行われています。1月17日(水)には、イベントギャラリートークと称して、企画者の解説があったので、私は早速いってきました。
東京メトロの竹橋駅で降り、毎日新聞社側の地上に出るとすぐ竹橋があります。橋をわたって右側の東京国立近代美術館を過ぎると国立公文書館です。ちょうど江戸城の北はね橋門の前あたりです。
国立公文書館1階にコの字型の展示スペースがあり、その約半分が今回の展示スペースです。私が行ったときは、約100人の入館者が熱心に説明を聞きながら展示ケースの中に見入っていました。この日は解説日であったためか、予想外の大盛況でした。次回の解説日は、2月21日(水)です。この展示は、入場無料です。
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(国立公文書館)
解説の企画員は開口一番「最近、応仁の乱や享徳の乱の書物がベストセラーになっているので、それに呼応して、私たちも中世関東の戦国時代の幕開けに活躍した太田道灌の展示を企画しました、(趣意)」と語り、説明にはいりました。
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(企画員の解説を聞く来館者)
総計30点の文書が、次の4グループに分けられて展示・解説されています。
T道灌の誕生と伝説 
U道灌と関東の戦乱 
V道灌と江戸 
W戦乱の終結と晩年
その中には、普段聞くことのない珍しい道灌関連文書がいくつかありました。
「太田道灌兵書」(昌平坂学問所)というものを、私は初めて見ました。江戸時代のものだそうですが、30連戦無敗の太田道灌の兵書の現物を、私は日を改めて是非拝見したいと思っています。
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(太田資長書状写) 

この展示に関連して、2月1日(木)19:00、千代田区立図書文化館で「太田道灌と江戸」と題する江戸歴史講座が行われます。講師は、国立公文書館の上席公文書専門官である小宮山敏和氏です。詳細については、日比谷図書文化館のHPをご覧ください。
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2017年12月09日

太田資康の最期を追う

1.新井城址(三浦市)と衣笠城址(横須賀市)、三浦氏滅亡の地
三浦半島の国道134号を南下し、城ケ島の手前引橋のあたりで海岸へ向かうと有名な油壷があります。油壷湾と小網代湾の間の半島が新井城址です。新井城址二の丸址がマリンパークとなっています。本丸址の一番いい所には、東京大学臨海実験場の建物があり、門のところに「関係者以外の立ち入りを禁止する」と書いてあります。私は、実験場の事務所へ行って特別の許可を得て地図や資料もいただき、周辺の土塁と堀をしらべました。遺構はやや崩れてはいるものの、良好に残っています。
1513年(永正10年)三浦義同(よしあつ)、義意(よしおき)父子は北条早雲の軍勢に追われ、ついに最後の拠点新井城に籠城しました。このとき太田道灌の嫡男資康の一隊は、舅の三浦義同に加勢するために衣笠城のあたりで、圧倒的な大軍である北条軍と果敢に戦って敗れたと思われます。墓碑銘によると、資康45歳でありました。
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(衣笠城址・桜の名所)
新井城は海上に突き出たような要害であったので、さすがの北条軍も攻め込むことはできず、兵糧攻め作戦で包囲しつづけました。やがて三浦水軍の海上補給も絶たれ、城兵が3年間も籠城したあと終に新井城の兵糧は尽きました。1513年(永正13年)7月10日夜半に全城兵で酒宴を催し、翌日早暁に千数百人の城兵は全員切って出て激戦を繰り広げました。21歳の嫡男三浦義意は、羅刹の如く戦って北条兵を恐れさせたものの衆寡敵せず、三浦父子は自刃して名族三浦氏はここで滅亡しました。三浦氏の墓は、二の丸址にあります。
新井城址の土塁を静かに歩くと、今も城兵の壮烈と悲愁の気がただよい、戦国の栄枯盛衰の非情に打たれます。「落城を前に、城中の7人が夜中に小舟で脱出したそうです。その人たちの子孫が先日ここへきました」と臨海実験場の職員が語っていました。おそらくはその人たちが、衣笠城近くの大明寺に、武運拙く討ち死にした太田資康の墓を建てたのでありましょう。衣笠城址は衣笠駅から徒歩20分です。

2.大明寺(横須賀市)、太田資康の墓
 JR横須賀線の衣笠駅から三浦学園という学校を目指して10分も歩くと、学校のとなりに金谷山大明寺という日蓮宗の古刹があります。参道を上ると広い境内に本堂や日蓮像があります。
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(大明寺境内)
本堂裏手の墓域には太田資康の墓という標示があり、その場所はすぐにわかります。広い墓所に五輪塔が立ち、そばに墓碑銘があります。となりに土まんじゅうと碑が立っています。
寺の由緒に次のように記されています。「(前略)寺内の裏山には、太田道灌の子、太田資康の墓であるといわれる土まんじゅうがあります。太田資康は、三浦道寸義同の娘を妻としていましたので、三浦氏が北条早雲に攻められたとき、途中で北条軍を迎え撃って戦死しました。永正10年(1513)9月29日のことです」。
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(案内板)
「墓碑銘」にいわく「五輪の塔墓誌 太田資康の墓 江戸城主太田道灌の嫡子、源六郎資康法名法恩斉、日恵、妻は相模の三浦義同(道寸)の娘。永正十年(一五九三)北条早雲の軍と戦い九月二十九日討ち死にした。大明寺に葬られた。元服の年を文明十年(一四七八)とすると四十五歳であったと推定される。三浦義村の末孫・三浦重一の妻 三浦妙光 八十歳」と。
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(墓碑銘)
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(太田資康の五輪塔)
 「太田家記」(1714年)にいう「三浦大明寺は御葬送、是は三浦党御縁者故、尊骸を江戸まで送らずして、其の所に於て葬たるものなり」と。
大明寺の住職の話によると、この寺は明治初年に火災に会って文書を全て焼失したので、太田資康にかかわる記録は全く無くて伝承のみが伝えられているとのことであります。
太田資康の最期については異説があります。「太田家記」には、立川原合戦での戦死説も併記してあり、「赤城神社年代記録」には「1498年(明応7年)太田源六生涯」とあります。太田資康の墓があるのは、大明寺のみです。

3.女子(おなご)は門を開く
 古諺に「女子は門を開く」とあります。昔は系図に名も残らぬ女性が、実は人のネットワークを広げて一家一族繁栄の要となるということです。
太田資康の曽孫於勝の方は、徳川家康の側室となり一子を設けたものの夭折したため、家康の側室於万の方が生んだ第11子頼房の養母となりました。そして頼房は水戸徳川家の祖となり、於勝は英勝院と号して英勝寺の開基となりました。於勝の甥太田正重は水戸徳川家家老として、もう一人の甥大田資宗は掛川城主五万三千石として栄えました。
一方於万の方は安房勝浦城主の正木氏の娘であり、正木氏の祖は三浦義意の弟時綱と伝えられています。於万が生んだ、家康の第10子頼宣は紀州徳川家の祖となり、於万は養珠院と号し、その実兄三浦為春は紀州徳川家家老として栄えました。
太田道灌と三浦道寸の絆が、連綿として江戸時代まで続き、女子が一族繁栄の要となっている感がします。
posted by otadoukan at 16:47| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2017年10月17日

道灌紀行ニュース NO.8

    川越まつりと伊勢原観光道灌まつりの太田道灌
2017年10月14日(土)と15日(日)の両日に、川越まつりと伊勢原観光道灌まつりが同時に行われました。私は、14日に川越を、15日に伊勢原を訪れてまつりを楽しみました。両日とも空模様はあいにくで、一部行事が中止になったものの大勢の老若男女が押しかけて大賑わいでありました。

川越まつりは、1646年(慶安元年)川越城主松平信綱の時代に始まった伝統的なまつりで、ユネスコ文化遺産に指定されています。
14日(土)、川越市連雀町の大田道灌の山車は、覆いをかけたまま会所前で止まり、晴天を待っていました。曳っかわせのとき、山車の囃子台では、笛、太鼓、鉦で天狐が踊りつづけていました。貴重な山車と人形を、雨で濡らすわけにはいきません。多くのファンが待ち続けたものの、この日終に空は晴れず、道灌さんは立ち上がることができませんでした。
連雀町山車.JPG 
 (覆いをかけた大田道灌山車)
参考に昨年の川越まつりの道灌山車と道灌さんの写真を掲載します。
道灌山車.JPG

道灌表情.JPG

残念がった道灌ファンの観光客は、祭り会館へ行って別の太田道灌人形を見て心を慰めました。 
まつり会館の道灌.JPG 
 (祭り会館の道灌さん)

第50回伊勢原観光道灌まつりでは、伊勢原駅周辺の各地で、数多くのイベントが行われました。
15(日)日には、天候が心配であったものの、辛うじて太田道灌鷹狩り行列が実施され、俳優の北村有起哉演ずる太田道灌と高野志穂演ずる北条政子がパレードを行い、最終地点まつり広場の舞台の紹介式に登場しました。北村有起哉は太田道灌の子孫でもあるので、黒岩神奈川県知事など多くの来賓が駆けつけ大いに盛り上がりました。  
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 (太田道灌・北村有起哉と北条政子・高野志穂、左は高山伊勢原市長)
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 (トークショーの北村有起哉と高野志穂夫妻)
★北村有起哉プロフィール
1974年生まれ、東京都出身。98年舞台「春のめざめ」映画「カンゾー先生」でデビュー。その後、各種の賞を多数授賞。映画「太陽の蓋」で初主演。出演作は舞台「道元の冒険」映画「関ケ原」など多数。2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」大山格之助で出演予定。
☆高野志穂プロフィール
1979年生まれ、東京都出身。幼少女期をバーレーン、シンガポール。ロンドンで過ごす。2002年、NHK朝の連続ドラマ「さくら」でデビュー。以後、数々のテレビドラマ、映画、舞台、コマーシャルにし出演。映画「Music Of My Life」が今秋公開予定。
(佐藤哲男さんから写真の提供を受けました。)
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2017年09月28日

道灌軍と戦った村山党金子氏の故地 

本年9月24日に私は、武蔵村山市民会館での郷土史講演会で太田道灌と村山の陣について話をさせていただきました。その際、参加者の中に金子さんという方がおられて、終了後に懇談をしました。私はふと気が付いて「もしや、太田道灌が村山の陣から奥三保へ攻め込んだとき戦った、小沢城(愛川町)の金子掃部助の子孫ですか」ときくと「そうです」とおっしゃったので、いっそう話が弾みました。金子氏は、この地で「武士団村山党の会」の甲冑隊のリーダーとして活躍されています。
後日私には、太田道灌に二度も小沢城攻めをさせた、景春与党の勇猛な金子一族の出自と故地を調べてみようという気が、急に強く湧いてきたのであります。「武蔵武士」(渡辺世裕・八代国治 著)の中に「(村山党の金子氏は)武勇を以って最も著はる。(中略)各地に転戦して軍功多し」と記されています。

1.武蔵武士村山党のふるさと
旧青梅街道を西へ走り、武蔵村山市を過ぎて瑞穂町にはいるとすぐに殿ヶ谷というところへきます。そのあたりで山側へ右折すると村山氏の菩提寺福正寺という古刹があります。福正寺には村山一族の墓があり、村山土佐守の位牌があります。福正寺の近くに玉林寺公園があり、その中に村山土佐守の銅像が立っています。土佐守は笠をかぶっているので、残念ながら表情は見えないものの、はるか遠くを指さしてなにかを見つめています。台座の説明板に次のように記されています。
㉜−1村山土佐の守銅像.JPG
(村山土佐守の像・玉林寺公園)
福正寺.JPG     
(福正寺本堂)
     村山土佐守
平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任(よりとう)を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山市最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
 この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。  
      平成25年3月吉日      瑞穂町
『新編武蔵国風土記稿』(1830年)には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とあります。

2.金子氏の本貫地
JR八高線の拝島より電車に乗ると、二つめが金子駅(埼玉県入間市)です。瑞穂町からは車で15分も走ると隣接する入間市の金子につきます。このあたりは、村山党金子氏の本貫地で、今も町を歩くと狭山茶の看板と「金子〇〇」の看板がいたるところで目につき、今も金子一族が住んでいることがわかります。
金子駅から、車で5分も行くと金子氏の居館跡すなわち金龍山木蓮寺瑞泉禅寺跡があり、丘の中腹に金子氏の先祖墓があります。
金子氏墓碑.JPG
(金子十郎家忠の墓碑)
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(金子一族墓所)
村山頼任の孫家範は平安時代末より入間郡金子村を本貫地とし、金子十郎を名乗りました。家範の子家忠は、保元の乱、平治の乱で活躍しました。その後金子氏は、武蔵国の国人として山内上杉氏に属しました。

3.勇猛な金子一族に道灌軍も大苦戦
1477年(文明9年)3月、金子掃部助(かもんのすけ)が長尾景春に与して相模国小沢城(愛川町)に籠り、上杉方の太田道灌と戦いました。山内上杉氏に従っていた金子氏は、長尾景春が白井長尾氏の嫡流でその父祖、景信、景仲に恩顧があったので、景春に味方して道灌軍と戦いました。
Q−2高田橋からのぞむ小沢城址.JPG
(相模川縁の小沢城址)
小沢城は相模川縁の絶壁の上にある要害であったので、城を囲んだ道灌軍は大苦戦をし、一か月後の4月18日にようやく落城させました。しかしながら道灌軍が移動すると、金子勢は再び小沢城を占拠し、翌年の4月に道灌軍が小机城をせめたとき後詰めとして背後を脅かしました。小机城落城とともに小沢城は、再び自落しました。そしてさらに翌年1478年(文明10年)道灌軍が相模の奥三保をせめたとき、金子勢は三度太田資忠軍の行く手に立ちはだかりしぶとく抵抗したもののやがて敗れました。けだし金子氏は、多摩の国人衆として各地に転戦し、最も顕著な武勇を著わし続けた、なにし負う武蔵武士村山党の一族でありました。

2017年08月04日

道灌紀行ニュース NO.7

   大河ドラマを目指す「道灌の集い」(伊勢原市)
2017年7月22日、伊勢原市民文化会館で「第18回太田道灌の集い」が開催され、約800人が参加しました。午前には「道灌サミット」が開催され、太田道灌大河ドラマ実現を目指す各自治体(千代田区、荒川区、伊勢原市、川越市、越生町等)の代表者が参加し、挨拶と報告がありました。午後には、大ホールで「道灌の集い」が賑々しく開催されました。
第1部:
文化発表、伊勢原甲冑隊のパフォーマンス、小倉恵子さんの「ああ太田道灌」熱唱等。
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   (伊勢原甲冑隊のパフォーマンス)
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   (花手毬)
第 2部:
式典、高山伊勢原市長等の挨拶、三上会長よりの、さる7月11日太田道灌大河ドラマ!推進実行委員会がNHKを訪れ、11万151筆を提出して陳情したことなどの報告等。
第 3部:
松沢成文さんの講演「大河ドラマへ!江戸城天守再建の展望」と三遊亭遊吉さんの落語。
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  (講演する松沢成文さん)
最後は、山口甲冑隊長の音頭で「大河ドラマをみんなで頑張ろう」と勝どきをして終わりました。
(写真は、伊勢原観光ボランティア&ウォーク協会HPより転載)
  

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2017年07月25日

伊勢原の立原(たてっぱら)探訪

1.地名に秘められた歴史
伊勢原市上粕谷の産業能率大学の周辺を土地の人は「たてっぱら」と呼び、そこには気になる地相と地名がたくさんあります。元々このあたりは、古代人の遺跡や上杉舘があったところといわれ、産能大学のキャンパスの説明板には「この地はかつて扇谷上杉氏の館があった地であり、太田道灌が非業の最期を遂げた所である」と記されています。しかしこの広大かつ複雑な形状の台地原には、なにかもっといろいろな歴史が秘められているような気がして、以前より私は気にかけていました。ときあたかも、新東名高速道路の建設がこの台地に進み、巨大な橋げたが方々に見えはじめています。この地の歴史を今のうちに、しっかり調べておかなければ、開発が進んで史跡は破壊され、その痕跡も消えてしまうにちがいありません。
変貌する立原.JPG    
   (変貌する立原)
ちょうど今年7月5日、伊勢原観光ボランティアガイド&ウォーク協会の企画で「太田道灌コース、道灌ゆかりの史跡、上杉舘をめぐる」という史跡探訪ツアーが行われました。しかも案内人は、この地を隅々まで知り尽くしている、地元の山口氏でありました。私は、絶好のチャンスと思ってツアーに参加し、山口氏から懇切な説明をうけました。地名等はいずれも、今も残っていて使われている名称です。地名は埋蔵物と同様に、歴史を語る証拠です。
@五霊神社(スタート地点)
道灌没後1494年(明応3年)に北条早雲が、旧友であった道灌の菩提を弔うため、家臣の山田伊賀守に命じ、道灌の冑を五霊神社に納め、太田三徳命として合祀しました。三徳とは、智、仁、勇です。山田伊賀守の子孫は今も隣接地に住み、庭にご先祖の供養塔があります。
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  (出発地の五霊神社)
五霊神社から、大山道を通って東へ行くと、立原の台地へきます。
A西の大手門跡
立原の台地は、北西が山地につづき、他の三方は急に谷となり、自然の城塞となっています。ここは西の上り口で、上杉舘の大手門と推定されています。
西の大手門跡.JPG   
    (西の大手門跡の道祖神)
B打出(うちで)
太田道灌の足軽隊が出撃する前に、駐屯した所と考えられます。1477年(文明9年)3月18日に、道灌の足軽隊は、ここから出撃して溝呂木城、小磯城、小沢城を攻略したと思われます。道灌は、相州勢を率いて、当初豊島氏を攻める予定であったものの、大雨で多摩川や相模川が越えられなくなったので、急遽作戦を変更し、相模の3城攻略に向かったのです。
打出.JPG  
   (打出・足軽隊の駐屯地))
「太田道灌状」第11段にいわく「相州勢を密つ密つ途中へ召し越し、3月24日(豊島氏を)夜詰め致すべくてあて候之処、大雨降り候て、多破河調議相違せしめ候」と。
C大門跡
大門の周囲には、土塁がせりあがり、一応の防備となっています。今「大門跡」の石碑は、椎の古木の陰にあります。ちなみに秩父市上影森の上杉氏の大森御陣跡にも、「大門町」「神(陣)原」という地名が残っています。
大門跡.JPG
(大門跡の土塁)
D的場(まとば)
立原の東側の小字は的場です。往時ここで、道灌の足軽隊は弓の訓練をしたと思われます。道灌の心友万里集九は「梅花無尽蔵」(1508年)の中で、江戸城の足軽訓練について「弓場を築く、毎日幕下の士数百人を駆りその弓手を試む、上中下に分かつ、その令甚だ厳なり」と記しました。
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(的場、足軽隊の訓練場)
E立原(舘原)(たてっぱら)
立原とは、柳田国男の「地名の研究」によると、尾根の先の平地のことで、その地名は方々にあります。伊勢原の立原は東西約1000メートル南北約500メートル(甲子園球場38個分)です。その平地の北端の段丘に上杉舘があったので、舘原とも記されました。
立原.JPG   
    (立原、かなたに産能大)
F上杉舘址(産能大学)
ここは、上杉氏の根小屋すなわち平時における居住地があったところと思われます。三段丘の上であるので見晴らしもよく、領主の舘の地としてふさわしい所です。現在は、産能大学の校舎が林立しています。
23章:上杉館址に建つ産業能率大学.JPG
    (上杉舘址・産能大学)
G馬防口(ませぐち)
産能大学の裏、県道の北側一帯を土地の人は「ませぐち」と呼んでいます。上杉舘のからめ手口と推測されます。
H湯殿入り
産能大学の北側の谷をさかのぼった、秋山川源流地点のことです。湯殿とは普通、浴室のことです。なぜ、こんな名前がついたのかよくわかりません。
I千石せき
上杉舘が攻撃を受けたとき、巨大な空堀に水を通すための水路で、その後、灌漑用水として利用されました。
J空堀
自然の谷に人手を加えた巨大な防御施設であり、今は、堀の底が産能大学のテニスコートや洋弓場となっています。
空堀.JPG   
    (空堀の発掘調査)
K洞昌院・道灌の墓(ゴール地点)
空堀から山王神社と七人塚を過ぎ、ゴール地点、洞昌院の道灌墓所にきて少々驚きました。道路際の樹木は、治安維持のためすべて伐採され、墓域はあっけらかんとした雰囲気になっていました。
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 (洞昌院・道灌墓所での説明)

2.私の大胆な推測・太田舘の所在地
1351年(観応2年)扇谷上杉藤成が相模糟屋庄の政所の職にあったことが確認されます(円覚寺文書)。また太田道真が光明寺(相模原市)に出した文書の封紙に「かすやより東しん」とあります。したがって、扇谷上杉氏も家宰の太田氏もまた糟屋庄に舘を持っていたと思われます。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられています。扇谷家の家宰・相模守護代であった太田道真も、時により糟屋で政務をとったと思われます。現在は、上粕谷と下糟屋「かすや」の漢字が違っているものの土地の古老に聞くと、往時はどちらも「糟屋」の文字であったそうです。
大手門とか大門という地名が残っていることは、この地に武将の舘があったということです。そして打出とか的場という地名があるということは、この地に軍勢が駐屯し、軍事訓練を受け、時に出撃したということです。
それにしてもこの広大な高台は不思議なところです。要塞状の高台とはいえ戦闘の城というほどの厳しい防備はありません。どちらかというと、ゆるい防備を備えた、いわゆる根小屋と称する、平時の居住地のようです。そしてなお風変わりなことは、的場のような兵の訓練場や打出のような兵の駐屯地があることです。
私の大胆な推測としては、今の産能大学のキャンパスの地には、相模守護上杉氏の根小屋があり、立原と的場の境には守護代太田氏の根小屋があり、的場は道灌の足軽隊の弓の訓練場であったということです。上杉氏と太田氏によりこの広い立原の高台は、多目的に活用されたと考えるべきです。そして厳しい戦闘が予想される場合は、防備が固い相模守護所すなわち丸山城へ立て籠もったと考えられます。 
発掘調査現場.JPG
  (立原の発掘調査現場)
現在、新東名の工事予定地数か所で、大規模な発掘調査が行われています。このあたりの台地は、南向きの山の根で湧き水もあるので、古代から条件の良い居住地でありました。発掘現場から何が出るかはこれからのお楽しみです。太田氏の舘の遺構などが出るのではないか、と私は期待しています。

2017年06月02日

下総の八幡と天神

関八州には、太田道灌ゆかりといわれる神社仏閣が、私が現在掌握しているだけで107か所あります。古文書に明記されている場合あるいは寺社自らの由緒書きにその旨記されている場合に、道灌ゆかりとしてカウントしています。歴史的事実は定かではないものの、文化人類学的にはたいへん面白いことです。おそらくは道灌が、民衆に人気があったので、寺社の格を上げるため道灌ゆかりとしたこともあったと思います。今回は、市川市の八幡と天神を訪問します。
◎太田道灌修復の葛飾八幡宮
日暮里駅で京成本線に乗ると、約20分で京成八幡駅につきます。駅から線路に沿って約100メートルも東へ歩くと左側に葛飾八幡宮の鳥居が見えます。広い境内の随神門を経て直進すると、奥に本殿があり「下総国総鎮守葛飾八幡宮の御由緒」が記されています。
総鎮守とは、俗な表現をすると神社の総元締めみたいなもので、境内を歩いてもなんとなくその威勢を感じます。1479年(文明11)に道灌はまずここで、源氏の氏神たる八幡へ戦勝祈願をして千葉氏との激戦へ臨みました。
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  (随神門)
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  (本殿)
境内にある市川市教育委員会の説明板に、この神社の歴史がわかりやすく記されているので、その説明文の前半を以下に転載します。
「寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自らも参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には、千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。
また文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行いました。さらに天正11年(1591)徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。
明治維新の神仏分離の時までは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は、往時を物語る貴重な遺物です。
また、山門には、仁王像が行徳の徳願寺に移されて、その後に左右両大臣が置かれ、随神門と呼ばれるようになりました。この随神門は、市指定有形文化財です。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また。寛政5年(1793)に発掘された、元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定有形文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます(後略)」
「江戸名所図会」(1836)にも、葛飾八幡宮として、海辺から本殿への長い参道が描かれています。
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  (千本公孫樹)
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  (鐘楼)
境内の鐘楼を見ると、神仏習合の証拠を見たような気がします。また当宮の祭礼は9月15日から6日間行われ、俗に「八幡のボロ市」とよばれる農具市が立ちます。
17世紀頃、下総と武蔵に葛飾郡があり、現在のJR総武線と京成線の間の県境近辺に、葛飾の地名は方々に残っています。

◎白幡天神社と永井荷風の歌碑
葛飾天満宮から北西へ10分も歩くと、白幡天神社へきます。神社の御由緒によると当宮の創建と歴史はやや不詳であるものの、1180年(治承4)源頼朝がここで白旗を立て、その後太田道灌が社殿を造営したといわれています。境内は静かで、清浄の気が満ちています。
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   (白幡天神社)
道灌ゆかりのこととともに、私の関心を強くひいたのは、境内の永井荷風の歌碑です、いわく、
「松しげる 生垣つづき花飾る 菅野はげにも 美しき里
白幡天神祠畔の休茶屋にて
牛乳を飲む 帰途り緑陰の
生垣を歩みつつユーゴーの詩を詠む
砂道半にして 人来らず
唯馬語の欣々たるを聞くのみ」     (断腸亭日乗)
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   (長井荷風の歌碑)
歌碑中央の永井荷風の文字は、荷風の揮毫と思われます。菅野とはここの地名です。荷風が寄ったのはどんな茶屋だったのだろうか、荷風はユーゴーのどんな詩を詠んでいたのだろうか、おそらくはフランス語の原語で読んでいただろう、馬の鳴き声を馬語とは、荷風はおそらく馬の鳴き声を言語と解したのだろう、などといろいろ思いをめぐらして面白くなります。「断腸亭日乗」とは荷風の日記です。荷風は1957年78歳で、現在の市川市八幡三丁目に転居し、そこが彼の終の棲家となりました。永井荷風に関心を持つ人は、ここへ来るべきでしょう。
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2017年04月07日

伊奈町の道灌子孫・平川氏

太田源三郎資行
埼玉県の川越市より北東へ車で小一時間走り、国道17号線を越えると伊奈町へきます。伊奈町内宿台で近所の人に平川家を尋ねると、立派な門構えの家を指さしてご大尽と呼んでいました。平川家の蔵の隣に、小針村平川家碑識と称される石碑と供養碑があります。この碑は、平河家13代の平川大作氏が、明治17年に建立したものです。その碑識の碑文によると、平川氏の先祖は、備中ノ守太田持資入道道灌でその子資行(1486年〜1574年)は北条氏の臣下となり、川越夜戦で戦うなどして戦功をあげたものの、後に小針村に帰農しました。資行は「平川城(江戸城)は、かつて我が住したる故郷なり、よってこれを姓にする」として、平川氏をなのって家紋を桔梗から剣酢漿草(けんかたばみ)に変えました。
「岩槻市史」によると、資行の嫡男資吉は岩槻城の北条(太田)氏房の家臣となり、小田原落城後に氏房とともに高野山へ赴きました。その後資吉は、氏房にしたがい朝鮮出兵のため肥前唐津の名護屋城に移ったものの、氏資が在陣中に病没したため小針村に帰りました。そのとき、ともに名護屋城へ赴いた太田一族の中の太田資長、資重兄弟等が、肥前嬉野に残って帰農し、今日の嬉野太田一族となったと私は推測しています。徳川の世となってから嬉野太田は、豊臣の配下にいたことを隠すため、その出自を語らなくなったものと思われます。
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(平川家碑識と供養碑・右)
その後も小針村の平川資吉の血筋は連綿として続き、江戸時代には名主、地頭用人として苗字帯刀と居宅門構えを許され、明治以降は戸長や村会議長などをつとめてきました。平川家の蔵には、源三郎資行の自筆の詩書、腰刀一振り、馬の鞍一個や1742点の平川家文書(江戸時代のもの)が所蔵されていましたが、今は埼玉県立文書館等へ寄託しているのことです。
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(平川家の門構え)
また平川信行氏の平成22年の詳述によると、太田資行の母つまり道灌の妻は、斉藤小四郎基行の娘とされています。その妻の実家斉藤家が道灌の軍師斉藤新左衛門安元あるいは道灌松を持つ蓮田市の斉藤家となにか関係があるかどうかはわかりません。
またこの碑識に記されている太田資行は、生年から考えて上州の吾妻郡の中澤家にかかわる太田資行と同一人物ではないと思われます。
平川家の供養碑には、浄慶禅定門(太田資行)天正二年三月十八日と妙旅禅尼(資行の母)天正二年十月二十九日などが記されています。

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2017年03月29日

太田道灌コーナー(東京国際フォーラム)《道灌紀行ニュース NO.6》

   東京国際フォーラムに太田道灌コーナー(千代田区)
東京国際フォーラムのガラス棟の太田道灌銅像前に、太田道灌コーナーが開設され、3月28日(火)10時30分より除幕式が行われました。席上、東京国際フォーラムの上條清文社長、太田道灌顕彰会の太田資暁理事長等がテープカットを行い、上條氏、太田氏から挨拶がありました。
朝倉文夫氏制作の太田道灌銅像前に、「太田道灌のプロフィール」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「道灌の戦績とその後」と題する日英両語の解説版と「12体の太田道灌銅像写真」のパネル版が設置されました。また中央には「江戸城(寛永度)天守閣」の模型も置かれています。
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(挨拶する太田理事長)
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(太田道灌のプロフィール)
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(説明版は日英両語)
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(各地の太田道灌銅像12体の写真)
これらのパネル版は、国内外の観光客のため、恒常的に設置されています。
東京国際フォーラムは、JR山手線の有楽町駅より徒歩1分です。

2017年02月27日

道灌紀行ニュース NO.5

1.越生梅まつりで大河ドラマの署名(越生町)
太田道灌のふるさと越生の梅まつりは、2017年2月18(土)から3月20日(月、祝)に行われています。今年は好天に恵まれ、開花も順調で、近隣からの多くの人たちで賑わっています。越生梅林の中に「太田道灌を大河ドラマに」ののぼり旗が立ち、地元の戸口訓男氏等が、入園者に署名を呼び掛けています。来園者の大河ドラマ「太田道灌」への関心は強く、署名の筆数は順調に増えています。西湖梅を江戸城の梅林坂に植えた太田道灌も、「梅花無尽蔵」を書いた万里集九なども突然現れて署名をしてくれそうな雰囲気が、ここにあります。梅林の他、越生町役場やコーヒーショップ里の駅など約10カ所に、無人の署名所が設置されています。
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(越生梅林で大河ドラマ署名) 
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(満開の梅と賑わう人々)
太田道灌大河ドラマ推進の署名運動は、関東各地で進められ、現在9万余筆に達しています。

2.大森御陣と長尾景春の武者絵(秩父市、小鹿野町)
2017年2月18日(土)秩父市の荒川公民館で、「長尾景春の伝承地を歩く会」が「太田道灌状」の勉強会を開きました。その日の教材はちょうど第6段で、長尾景春と太田道灌の会談が決裂し、景春が鉢形城で決起するところでした。
席上、参加した郷土史家山中雅史氏より、「太田道灌状」にでてくる大森御陣の場所について、新発見の資料に基づきくわしい報告がありました。上影森村の元村長関田家の土蔵で、明治17年以降に画かれた3枚の古絵図が発見されました。その古絵図には、諏訪神社の近傍に土塁跡が認められ、大門という地名が記されています。山中氏の詳細な検証の結果、そこには陣屋の土塁と大手門があって、神原(陣原)には軍勢が駐屯したことが確認されました。したがって、文明12年、熊倉城に楯籠る長尾景春の軍勢を攻めるため、関東管領上杉顕定は、ここに大森御陣を開いて総指揮をとったと思われます。
  
またその日、小鹿野町の画家小菅光夫氏が画いてくれた長尾景春の武者絵が披露されました。これは、氏が、双林寺の長尾景仲(景春の祖父)の木像を参考にして画いた、本邦初の景春武者絵です。3枚の長尾景春武者絵は、秩父市荒川の歴史民俗資料館に展示されることになると思います。
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(長尾景春の武者絵)
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(長尾意玄入道景春)
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(長尾景仲像・渋川市双林寺蔵)
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2017年02月11日

五十子の増国寺・松陰終焉の地

東京から国道17号線を北上し、本庄市に入るとすぐに五十子陣城址があります。少し進んで鵜森という信号で左折しました。その日は、小雪がちらつく寒い日であったので、道を尋ねる人にも会わず、私はいつものように勘を働かせて、とある旧家で増国寺を尋ねました。幸いにもその家は、増国寺の檀家副総代であったので、おかみさんが快く道を教えてくれました。そこから100メートルもいくと、曹洞宗の雷雲山増国寺がありました。ここが、太田道灌の盟友松陰西堂終焉の地です。庫裏を訪ねると、住職が松陰の墓所と墓誌へ案内してくれました。
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(増国寺山門)
道灌の時代の関東の戦乱について、「太田道灌状」(1480年)と同様に史料的価値が高いといわれているものに「松陰私語」(1509年)があります。上野の長楽寺(太田市)の陣僧松蔭は、享徳の乱(1454年)の渦中にあって活躍し、後に回想録「松陰私語」五巻を書きました。「太田道灌状」には、武蔵、下総、相模の動乱が多く記されているのに対して「松陰私語」には、上野、下野、武蔵の出来事が多く記されています。儒教の五常(仁義礼智信)にちなみ五部構成となっているものの、第三部は目録を残して本文は欠落しています。
「松陰私語」の中に、「道灌は金山へ越すべき日限を相定め、肴十駄を両度越す事」と題する面白い挿話が記されています。1478年(文明10年)7月、太田道灌が別府陣(熊谷市)にいたとき、松蔭が岩松家の家宰であった横瀬国重と相談し、道灌に招待状と雪花(花束)を送りました。道灌は返礼として書状を送り、更に表敬訪問の日に合わせて肴十駄を二度にわたって送りました。
道灌は金山城を訪問して横瀬国重と陣僧松陰とに会い、三日間金山城に滞在し、書道、歌道、兵書などについて語り合いました。太田道灌と松陰はおそらくは足利学校の同窓生であったから、二人はこの広大な山城を視察しながら、以心伝心の含蓄深い対話をつづけたと思われます。道灌は金山城を視察して「近比明城」(近年の名城)と賞賛しました。
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(松陰西堂の卵塔)
松陰は、1438年(永享10年)生まれで、新田松陰軒とも称しているので、新田岩松家の出自と思われるものの詳細は不明です。おそらくは、武家の二、三男に生まれ、優秀であったので跡目争いを起こさないように、新田家の先祖累代の墓がある長楽寺(太田市)に入れられ、後に足利学校で学び、岩松家の陣僧になって戦の指揮をしたと思われます。
「続武将感状記」(1716年)には、面白い、松陰の略伝が記されています。その一部にいわく「(松陰は)忍辱の衣を脱ぎて、折伏の鎧を着し、慈悲の袈裟を捲きて、降魔の保呂をひるがえす事、諸凡僧の見識に及ぶべきにあらねども、今まで仏寺に住して安眠し、仏餉(ぶっしょう)を食して抱腹せし恩を思うが故に、告げ奉ると言いて、寺より馬に乗りて立ち出で、直ちに敵と寄り合いて首をとる、これより終に寺に帰らず」と。
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(金山城址)
難攻不落の金山城(太田市)を縄張りして70余日で完成し、貴重な記録「松陰私語」を残した松陰は、複雑で難しい時代と場所で、不思議な存在感を発揮しました。僧と武士という二役で、五十子合戦を見つづけた松陰は、長楽寺を引退したあと五十子の増国寺(本庄市)に住み、「松陰私語」(別名・五十子記)を執筆し、八十余歳で歿したと思われます。増国寺の松陰の墓は卵塔で、その位牌には「前惣特当寺中興開山新田松陰西堂禅師」と記されています。卵塔とは、主に禅宗寺院で住職の墓としてつくられた卵型の仏塔です。松陰の墓前に立つと、仏の教えと軍事作戦が松陰の中でどのようにリンクしたのか、聞いてみたい気がしてきます。
 増国寺は本庄市東五十子の五十子陣跡の近傍にあり、寺の由緒によると、1466年扇谷上杉顕房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。まさしく増国寺は、五十子合戦の真っただ中にある寺でした。

2017年01月01日

道灌紀行ニュース NO.4

大田道灌の新銅像が登場(越生町)                            
埼玉県越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌の新しい銅像が登場しました。これは、第12体目の太田道灌銅像です。2016年12月5日朝8時30分より、越生町役場玄関ロビーにて、太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。除幕式には、新井町長はじめ、町議会議長、観光協会長、教育長、埼玉県立越生高校の校長と美術科教諭、地元の代表などが出席しました。
この銅像は、従前より越生町の町長室に秘蔵されたいた、三枝惣太郎氏制作の小さな太田道灌像を原像とし、地元の埼玉県立越生高校美術科の六田教諭が制作したものです。80cm位の木製の台に立つこの銅像は、基盤の幅が110cmで、高さがあやい笠まで130cmであるので、やや小振りの太田道灌像です。
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(弓矢をもって踏ん張る道灌像)
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(若き日の道灌像・戸口訓男氏撮影)
この像は、弓を持った狩り姿であるものの、足を踏ん張り半身になって身構える、極めて躍動的な道灌像です。道灌像の表情はやや若く、その背後のガラスに山吹の里歴史公園の絵が焼き付けられています。したがってこの像は、道灌が若き日に、父道真のもとを訪れたときの情景をほうふつとさせる傑作です。越生町にまた観光名所が一か所増えて、めでたしめでたしというべきです。
ちなみに、原像の制作者である彫刻家の三枝惣太郎氏とは以下のような人です。
◆ 三 枝 惣 太 郎 【略 歴】
昭和9年 第15回帝展第三部彫刻部 初入選
昭和10年  東京芸術大学卒業
昭和16年  構造社会員となる
以来、帝展・文展・日展・新日展に連続出品(連続入選)
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(越生町役場町長室秘蔵の三枝惣太郎制作の太田道灌像の原像)
日展名古屋展中日賞受賞。
名古屋タイムス秀抜店 秀選展出品
紺綬褒章受賞
日展会友
日本美術家連盟会員
日本彫塑会会員
新構造社(絵画)会員
東海彫塑会会員
名古屋芸術大学美術学部名誉教授

追記
現在、東京国際フォーラムのガラスホール1階入り口で太田道灌銅像写真展(1月1日〜6日)が行われています。残念ながら、越生の道灌銅像写真は、今回間に合っていません。
また地下1階では、日本の城ギャラリーが行われています。1月6日13:30と15:30には、この場所に伊勢原甲冑隊が出撃しました。
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(東京国際フォーラムの太田道灌銅像写真展)
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(甲冑隊入城)
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(太田道灌の勝どき)
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(伊勢原甲冑隊)
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2016年12月01日

道灌紀行ニュース NO.3

大田道灌と長尾景春の激戦の地、鉢形城址探訪(寄居町)                               
江戸東京博物館友の会のえど友サークルの中に、道灌倶楽部という、約150名のサークルがあり、太田道灌ゆかりの地を精力的に歩き回っています。
さる11月27日(日)には、道灌倶楽部が太田道灌と長尾景春の激戦地、埼玉県寄居町の鉢形城址を探訪しました。この日参加したのは首都圏からの24名です。一行は、寄居駅から歩いてまず鉢形城歴史館を訪問し、特別展「関東の武具」(関東5枚胴具足を中心に)を見学し、前館長からの懇切丁寧な説明を聞きました。そのあと、地元のボランティアガイド3人の案内で鉢形城址全体を見学しました。東京ドーム5個分の広さがある城域なので歩き甲斐がありました。
正喜橋からの荒川.JPG
(正喜橋からの荒川)
城域の模型を見る.JPG
(城域の模型を見る)
1476年(文明8年)6月、長尾景春が、山内上杉家家宰人事の不満を引き金にして鉢形城に拠り反乱を起こしました。1478年(文明10年)太田道灌が鉢形城を攻撃して景春を秩父へ追い、関東管領山内顕定に鉢形城入城を勧めました。その後1560年(永禄3年)頃、北条氏邦がこの城を居城としました。
このあたりは交通の要衝で、秩父往還道と鎌倉古道上道(かみつみち)の交わる地点でした。荒川の絶壁上にある本曲輪跡には、田山花袋作、武者小路実篤書の文学碑がありいわく、
「襟帯する山河好く、雄視する関八州
古城の跡空しく在り 一水尚東へ流る」(読み下し文)と。
本曲輪の文学碑.JPG
(本曲輪の文学碑)
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(二の曲輪の障子堀跡を見る)
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(外曲輪の土塁跡)
ガイドの説明にしたがい、鉢形城歴史館を出発して外曲輪、二の曲輪、三の曲輪。本曲輪と見て回り、15時頃終了して万歩計を見ると、ちょうど1万歩でありました。ここは国指定史跡でよく整備されています。どなたにも、一度はおいでいただきたい所です。
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2016年11月01日

前ヶ崎城と太田六郎

千葉県松戸市の長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)は、日蓮大聖人の六老僧の一人日朗が地元の豪族平賀氏の屋敷内に開堂した古刹です。この寺はその後、千葉氏とその庶流高城(たかき)氏の庇護をうけて発展しました。またこの寺に伝わった、中世の「下総国小金本土寺過去帳」(千葉県指定有形文化財)は、歴史家にとって貴重な古文書です。
「続群書類従」の「下総国小金本土寺過去帳」の某年11月3日の項に「太田六郎殿 前崎落城打死、同戸張彦次郎殿討死」とあります。この年この日に、前ヶ崎城が落城し、太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にしたということです。このときとはいつか、前ヶ崎城で何が起こったのか、太田六郎、戸張彦次郎とはいかなる人物かを調べることにしました。
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(本土寺の山門)
私はJR山手線西日暮里から地下鉄千代田線で北小金へ行き、北小金駅から約10分歩き、先ず、松戸市の本土寺を見学しました。この寺は今では、あじさい寺として有名です。本土寺の門前通りに黒門屋という漬物店があります。そこで漬物を買い、若おかみに前ヶ崎城址への道を尋ねると、実に要領よく手振り身振りを添えて教えてくれました。おかげで、そこから約20分歩き、迷わずに前ヶ崎城址へ着きました。
またJR常磐線の柏駅からならば、東武バスに15分も乗ると流山運転免許センターへ着きます。免許センターの前の高台が、標高20m、比高13mの前ヶ崎城址です。
前ヶ崎城の築城年と城主については、特定はし難いものの、付近の小字名に「追手橋」とか、「刑部郭」の名称があったことから、室町時代に千葉氏庶流の高城氏家臣・田島刑部少輔がいたのではないかという説があります。(東葛飾郡誌)。
城は、かつては三本の東西の谷津に達する空堀によって、大きく三郭に分かれていました。今日では、土取りと宅地化によって先端部の一郭しか残ってないものの、そこは土塁によって本郭らしい感じを保ち、中世城郭の名残りが見える貴重な史跡となっています。
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(前ヶ崎城址入り口)
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(本郭址)
付近に戸張城、小金城、馬橋城等、約20カ所の城址があり、ほとんどが千葉氏庶流の高城氏の城でした。戸張城は、手賀沼の西南端部へ向けて突き出したような舌状台地上に築かれた城でした。戸張城も、築城年代や築城者について詳細は伝わっていません。「東葛飾郡誌」は、相馬系図を引用して相馬師常の三男行常が戸張八郎と称して、戸張城に在城したとも伝えています。

いくつかの太田氏系図には、太田道灌の弟として、太田資忠と太田六郎の名が記されています。また資忠と六郎を道灌の甥としているものもあります。ここでは、二人とも道灌の弟と考えます。
「太田道灌状」第20段に「(文明10年6月)同名図書助、同名六郎自両国奥三保へ差寄候処」とあります。ここに記されている六郎とは、資忠の弟六郎すなわち太田資常と思われます。そして、道灌は相模の奥三保攻略が終ってから、総州攻撃の準備をはじめました。道灌本隊の境根原攻撃に先立ち、文明10年11月3日に、太田六郎は上杉方についていた戸張彦次郎とともに、千葉氏の防衛ラインの一角であった前ヶ崎城への攻撃を開始したと推測されます。しかしそのとき、太田六郎軍は千葉氏方諸城からの猛攻撃に会って敗れ、二人は討ち死にしたものと思われます。前ヶ崎城は本土寺の近傍にあるので「本土寺過去帳」の前ヶ崎城落城に関する記事の信憑性は、極めて高いというべきです。

「太田道灌状」第22段に「(文明10年)十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年(文明11年)向臼井城被寄陣候」とあります。太田道灌の本隊は、前ヶ崎城の合戦から約一月後に、数キロ離れた境根原で千葉軍を打ち破り、臼井城へ追って約半年も包囲して落城させたものの、そこでは太田資忠が討ち死にしました。
同段後半に「於臼井城下、同名図書助並中納言以下親類傍輩被官人等数輩致討死候」とあります。この記述の中の「親類」とは、太田六郎を指していると思われます。この戦の後の文書に、太田六郎(資常)が登場しないことを考えると、六郎はやはり文明10年に前ヶ崎城で討ち死にしたと考えられます。道灌は、総州の戦で二人の弟を含む、多くの味方を失うという大きな犠牲を伴って勝利を得ました。

松戸市、柏市、流山市の境あたりは、一見平坦と思えるけれども、歩き回ってみると城山に適するような小山がたくさんあることに驚かされます。千葉氏はその地域の20余カ所に城を築き、上杉方とりわけ太田氏の江戸城に対する防衛ラインとしていました。道灌は、六郎の討ち死により、このラインを突破することがむずかしいと考えて翌月に、それより南側の江戸川に船橋をかけるという奇策で、国府台に攻め込んだのです。けだし、上杉氏・太田道灌33連戦の中で、道灌が最も苦戦をし、最も多くの犠牲をだしたのはやはり、千葉氏との激戦であったというべきです。
本土寺:千葉県松戸市平賀63
前ヶ崎城址公園:千葉県流山市前ヶ崎字奥の台
戸張城址:千葉県柏市戸張字城山台
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道灌紀行ニュース NO.2

   大田道灌と長尾景春の最終戦の地、熊倉城址探訪(秩父市)                                
さる10月29日(土)埼玉県秩父市荒川で第2回目の熊倉城址探訪が行われました。この企画は、NPO法人「秩父の環境を考える会・山里自然館」の主催で行われ、昨年第1回が行われたところ好評であったので、今年第2回目が、好天に恵まれて27名が参加して行われました。
一行は、朝9時に山里自然館(道の駅あらかわ)に集合し、地元郷土史家の先導で説明を聞きながら、徒歩で約1時間林道を登りました。城址には、堀切、犬走り、大手門、土橋、空堀、土塁、連格式の三つの郭が良好に残されていて、本郭と二郭の間にリニュウアルされた秩父市教育委員会の説明板があります。周囲はどこも急峻な崖となっていて、長尾流の縄張りが実感されます。郭の際には、犬走りならぬけもの道が続いているので、鹿や猪が隊列をなして走っていると思われます。
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(中央の山が熊倉城址)
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(途中、伝承の説明板を見る一行)
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(秩父市教育委員会の説明版)
4.熊倉城址けもの道.JPG
(本郭際のけもの道)

「太田道灌状」には、「(文明12年6月13日、太田道灌は秩父御陣で)先ず日野城(熊倉城)落居を急ぐべく旨仰せ蒙り候間、色々様々心を尽くして仕り候故、彼の城討ち落され候事、是又道灌の功に非ず候哉」とあります。景春軍はこの城に約10日間籠城したあと、道灌軍に水の手を絶たれて落城しました。
歴史の現場に立つと、「場の理論」により、その時の戦の状況が「色々様々」に思い浮かんできて話が弾みました。一行には、茨城県からきた熊倉さんや熊倉城址の地主である、地元の黒沢さんなども参加して貴重な話を聞くことができました。
posted by otadoukan at 14:19| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.2

2016年10月03日

伝・大石氏の葛西城址

JR山手線の日暮里駅で京成本線の各駅停車に乗り換えると、七つ目の駅が青砥(あおと)です。青戸銀座を東の方へ5分も歩くと環状7号線へ出ます。この7号線に沿って、北方すなわち慈恵医大の方へ歩き、医大と青戸小学校を越えるとまもなく青戸7丁目の交差点があります。その交差点の手前右側が葛西城址・葛西城址公園で左側が青砥御殿址・御殿山公園です。中世にはもちろん、両方とも葛西城でした。青砥駅から車に乗る必要もないほどの距離です。
今は幹線道路に貫かれた城址であるものの、近くに中川が流れているので、往時は湿地帯に囲まれた微高地であったと思われます。
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(葛西城址公園)
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(御殿山公園)      
「太田道灌状」第30段にいわく、
「千葉実胤の事は、当方の縁者に渡らせ候といえども、大石石見守に招き出され、葛西へ越され候、公方様ヘ内々申される旨候、然りといえども孝胤出頭の事候間、許容なきにより、濃州辺へ流落し候」。《千葉実胤の事、当方(上杉氏)の縁者でいらっしゃったが、大石石見守に招かれ葛西(城)へ行き、古河公方に(実胤の下総復帰を)内々要望したが、千葉孝胤が出頭したので、許容されず濃州へ流れ落ちました》。
この文面から推測すると、文明10年頃、古河公方と長尾景春の与党であった大石石見守は葛西城にいて、千葉実胤と孝胤を招き談合したと思われます。葛西城は、千葉実胤の石浜城と千葉孝胤の千葉城の中間に位置していました。この談合は、千葉孝胤の口出しにより、実胤にとっては不本意に終わった模様です。そしてまもなく、文明10年暮れに、太田道灌軍は境根原で千葉軍と激突しました。
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(葛西城址公園内)
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(葛西城の城域を示す航空写真、左端は中川)
東京都教育委員会の説明板には、次のように記されています。
「葛西城は、中川の沖積微高地の上に作られた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱により葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の騒乱の舞台となった。後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は将軍の鷹狩りの休憩所・宿舎(青砥御殿)として利用されていた。
この葛西城が、再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和47年から発掘調査が行われ、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である」。

この説明に、葛西城の城主名が明記されていないものの、文明の頃、古河公方や千葉氏に与していた大石氏が葛西城主であった蓋然性は、「太田道灌状」の内容と相まって極めて高いと言うべきです。
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(城址を貫く環状7号線)
発掘された城址は、埋め戻されて環状7号線が建設されたので、葛西城の昔日の姿は永久に見ることができなくなりました。城址にたたずんで、夢幻のように浮かんでくる兵(つわもの)どものありさまも、幹線道路の激しい交通の動きと音によって、すぐにかき消されてしまいます。
葛西城址公園・御殿山公園=東京都葛飾区青戸7丁目21番地
posted by otadoukan at 22:40| Comment(0) | 伝・大石氏の葛西城址