2023年10月03日

サプライズ 道灌登場(道灌紀行ニュースNo.20 )

本庄まつり
今年もまた11月2日(木)3日(金)、埼玉県の本庄まつりでは、諏訪町(すわちょう)の太田道灌の山車をはじめ10基の山車が、中山道の宿場町跡を曳き廻されます。
本庄市諏訪町では今、祭りの準備で大わらわです。地元の人たちのお話によると、青年が文武両道でたくましく成長することを願い、正直で親切で勇敢な文武両道の名将、太田道灌の山車が曳かれるとのことです。
そういえば、埼玉県越生駅前の太田道灌銅像の台座にも、「文武両道」と彫られています。
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(諏訪町の太田道灌山車)

享徳の乱シンポジウム
2023年(令和5年)10月1日(日)に本庄公民館で、五十子(いかっこ)会によりシンポジウム「関東の大乱・享徳の乱」が開催されました。当日、思いがけなくも会場に、おおくの参加者とともに、太田道灌とやまぶきの女性が登場しました。道灌山車の地元、諏訪町の人たちの好意による最大のサプライズでした。おかげさまでシンポジウムは大いに盛り上がり、地元ケーブルテレビでも放映されました。

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(参加者の皆さん)
参加者は遠く、渋川、秩父、東京からもあつまりました。
 
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(太田道灌、山吹の女性と3人の講師)
その日登場の道灌さんは、りりしい狩り姿で弓をもっていました。山吹の女性は文字通り山吹色の着物姿でありました。
享徳の乱の主戦場の一つ五十子陣城では太田道灌はもちろん長尾景春、古河公方、上杉顕定などの実力者たちが戦いました。五十子陣城跡は今後、増国寺などとともに関東中世の重要史跡として訪れる人もますます多くなることでしょう。

2023年08月23日

越生まつり・道灌の法被を着た男たち

今年7月22日、23日、越生まつりがおこなわれ、町の慈光寺道(中つ道の支道)で、昔ながらの6台の山車(だし)の曳き回しがおこなわれました。
越生町で太田道灌の大河ドラマ実現を推進しているT氏から「越生まつりで道灌の法被(はっぴ)を着た男たちが仲町の山車を曳いてる。しかし道灌の人形はいない」とメールがあったので、急いで越生へ行きました。
まだ夕日が高いころから、あちこちで2台の山車が出っくわし、笛や鉦(かね)、太鼓のお囃子で対抗するのはたいへん面白い見ものでした。越生では、相手の山車のお囃子のリズムに引き込まれた方が、負けなんだそうです。 
    
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(仲町の山車)
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(本町の山車のひょっとこおどり)

仲町の山車は、昭和29年に、東京神田の「だし鉄」と越生町上野の棟梁長谷竹松が共同で制作した、江戸型の山車で唐破風屋根の囃子台、回り舞台を備えています。
仲町の山車の上に道灌はいないものの、綱を引く男たちは確かに道灌の法被を着て、女性たちは道灌の法被を腰に巻いています。

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(仲町の道灌法被をきた男)

私は、何人かの男たちに、道灌法被のいわれを尋ねてみましたが「よくわからない」ということでした。地元の物知り長老に会って尋ねてみると「町内の話し合いでは、当初、山車の上に道灌の人形をのせる予定であったものの、諸般の事情で道灌はのらないことになったので、法被だけ着ています」とのことでありました。

上町の山車には、豊島左衛門の尉経泰がのってます。豊島経泰は、太田道灌が江古田が原で戦った相手豊島泰経とは字の順序がちがいます。

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(新しい太田道灌のうちわ)

新しい、太田道灌図柄のうちわも販売されていました。
そして夕闇が迫ってくるころ、山車は駅前の太田道灌の銅像の前に結集し始めました。その頃にわかに黒雲が現れましたが、文武両道の太田道灌銅像はライトアップされて、面白い雰囲気を醸し出していました。

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(新しい旗にかこまれた、道灌銅像)

私は、いつか仲町の山車に、太田道灌の人形がのることを想像しながら帰途につきました。

2023年07月10日

五十子(いかっこ)陣跡に説明板(道灌紀行ニュースNo.19)

享徳の乱の主戦場
1454年(享徳3年)関東で「享徳の乱」が起りました。1476年(文明8年)には、本庄市五十子で長尾景春の乱が勃発し、その抗争は一層複雑になりました。
利根川を境に、関東管領上杉氏と古河公方の対立抗争が約30年間つづきました。その中で、「都鄙の和睦」を目指す、太田道灌の活躍がひときわ光彩を放っていました。
本庄市では、毎年11月に「本庄まつり」が行われ、諏訪町の太田道灌の山車をはじめ10基の山車が、中山道の宿場町跡を練り歩きます。

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 (本庄まつり・諏訪町・太田道灌の山車) 

享徳の乱の主戦場、五十子陣跡は、本庄市東五十子を貫く国道17号線で分断され、重要史跡としてはややさみしい風景でした。私はコロナ禍もあって、先日しばらくぶりで五十子陣跡を訪れたところ、陣跡の公園に、本庄市教育委員会の立派な説明板(令和3年3月)を発見し、大いに喜びました。
この説明板は、今、史跡内にある建物の陰になりやや人目に付きにくいところにあります。しかしそこには、五十子陣と享徳の乱のことが簡にして要を得て書かれ、貴重な資料の写しも添えてあるので、一見お勧めです。 

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(本庄市教育委員会の説明板「五十子陣跡」)

『武蔵野鑑』(むさしのかがみ)の「五十子古城図」
説明板の記事を一部転記します。
「江戸時代に書かれた書物の『武蔵野鑑』には、塀や土塁を配置した本丸や、周辺の集落名等が描かれており、当時の五十子陣の様子を今に伝えています。五十子陣に関連する遺構は、これまでの調査によって、東五十子地区を中心に、小山川を挟んだ深谷市側も含む広範囲におよんでいたことが確認されています。」
説明板の五十子古城図を拡大します。これが現存する唯一の五十子古城図です。

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(五十子古城図)

この図では、本丸が小山川と女堀川にかこまれ、現在の状況と似ています。左下には蔵国寺があります。この寺の由緒には、1466年関東管領扇谷上杉顯房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。また『松陰私語』(五十子の記)の執筆者松陰は、この寺で執筆をつづけ80余歳で没しました。
 またこの図の右下に、榛沢(はんざわ)という2文字があります。『太田道灌状』に度々出てくる榛沢御陣とは、この辺りでないかと思われます。
 かつてこの辺りには、扇谷上杉氏、山内上杉氏、岩松氏の軍勢が常駐し、兵士の生活を支える各種商人たちも多数住んでいました。
 説明板を見て、地勢をながめ、昔日の合戦を偲ぶことができます。