2017年02月11日

五十子の増国寺・松陰終焉の地

東京から国道17号線を北上し、本庄市に入るとすぐに五十子陣城址があります。少し進んで鵜森という信号で左折しました。その日は、小雪がちらつく寒い日であったので、道を尋ねる人にも会わず、私はいつものように勘を働かせて、とある旧家で増国寺を尋ねました。幸いにもその家は、増国寺の檀家副総代であったので、おかみさんが快く道を教えてくれました。そこから100メートルもいくと、曹洞宗の雷雲山増国寺がありました。ここが、太田道灌の盟友松陰西堂終焉の地です。庫裏を訪ねると、住職が松陰の墓所と墓誌へ案内してくれました。
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(増国寺山門)
道灌の時代の関東の戦乱について、「太田道灌状」(1480年)と同様に史料的価値が高いといわれているものに「松陰私語」(1509年)があります。上野の長楽寺(太田市)の陣僧松蔭は、享徳の乱(1454年)の渦中にあって活躍し、後に回想録「松陰私語」五巻を書きました。「太田道灌状」には、武蔵、下総、相模の動乱が多く記されているのに対して「松陰私語」には、上野、下野、武蔵の出来事が多く記されています。儒教の五常(仁義礼智信)にちなみ五部構成となっているものの、第三部は目録を残して本文は欠落しています。
「松陰私語」の中に、「道灌は金山へ越すべき日限を相定め、肴十駄を両度越す事」と題する面白い挿話が記されています。1478年(文明10年)7月、太田道灌が別府陣(熊谷市)にいたとき、松蔭が岩松家の家宰であった横瀬国重と相談し、道灌に招待状と雪花(花束)を送りました。道灌は返礼として書状を送り、更に表敬訪問の日に合わせて肴十駄を二度にわたって送りました。
道灌は金山城を訪問して横瀬国重と陣僧松陰とに会い、三日間金山城に滞在し、書道、歌道、兵書などについて語り合いました。太田道灌と松陰はおそらくは足利学校の同窓生であったから、二人はこの広大な山城を視察しながら、以心伝心の含蓄深い対話をつづけたと思われます。道灌は金山城を視察して「近比明城」(近年の名城)と賞賛しました。
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(松陰西堂の卵塔)
松陰は、1438年(永享10年)生まれで、新田松陰軒とも称しているので、新田岩松家の出自と思われるものの詳細は不明です。おそらくは、武家の二、三男に生まれ、優秀であったので跡目争いを起こさないように、新田家の先祖累代の墓がある長楽寺(太田市)に入れられ、後に足利学校で学び、岩松家の陣僧になって戦の指揮をしたと思われます。
「続武将感状記」(1716年)には、面白い、松陰の略伝が記されています。その一部にいわく「(松陰は)忍辱の衣を脱ぎて、折伏の鎧を着し、慈悲の袈裟を捲きて、降魔の保呂をひるがえす事、諸凡僧の見識に及ぶべきにあらねども、今まで仏寺に住して安眠し、仏餉(ぶっしょう)を食して抱腹せし恩を思うが故に、告げ奉ると言いて、寺より馬に乗りて立ち出で、直ちに敵と寄り合いて首をとる、これより終に寺に帰らず」と。
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(金山城址)
難攻不落の金山城(太田市)を縄張りして70余日で完成し、貴重な記録「松陰私語」を残した松陰は、複雑で難しい時代と場所で、不思議な存在感を発揮しました。僧と武士という二役で、五十子合戦を見つづけた松陰は、長楽寺を引退したあと五十子の増国寺(本庄市)に住み、「松陰私語」(別名・五十子記)を執筆し、八十余歳で歿したと思われます。増国寺の松陰の墓は卵塔で、その位牌には「前惣特当寺中興開山新田松陰西堂禅師」と記されています。卵塔とは、主に禅宗寺院で住職の墓としてつくられた卵型の仏塔です。松陰の墓前に立つと、仏の教えと軍事作戦が松陰の中でどのようにリンクしたのか、聞いてみたい気がしてきます。
 増国寺は本庄市東五十子の五十子陣跡の近傍にあり、寺の由緒によると、1466年扇谷上杉顕房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。まさしく増国寺は、五十子合戦の真っただ中にある寺でした。

2017年02月27日

道灌紀行ニュース NO.5

1.越生梅まつりで大河ドラマの署名(越生町)
太田道灌のふるさと越生の梅まつりは、2017年2月18(土)から3月20日(月、祝)に行われています。今年は好天に恵まれ、開花も順調で、近隣からの多くの人たちで賑わっています。越生梅林の中に「太田道灌を大河ドラマに」ののぼり旗が立ち、地元の戸口訓男氏等が、入園者に署名を呼び掛けています。来園者の大河ドラマ「太田道灌」への関心は強く、署名の筆数は順調に増えています。西湖梅を江戸城の梅林坂に植えた太田道灌も、「梅花無尽蔵」を書いた万里集九なども突然現れて署名をしてくれそうな雰囲気が、ここにあります。梅林の他、越生町役場やコーヒーショップ里の駅など約10カ所に、無人の署名所が設置されています。
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(越生梅林で大河ドラマ署名) 
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(満開の梅と賑わう人々)
太田道灌大河ドラマ推進の署名運動は、関東各地で進められ、現在9万余筆に達しています。

2.大森御陣と長尾景春の武者絵(秩父市、小鹿野町)
2017年2月18日(土)秩父市の荒川公民館で、「長尾景春の伝承地を歩く会」が「太田道灌状」の勉強会を開きました。その日の教材はちょうど第6段で、長尾景春と太田道灌の会談が決裂し、景春が鉢形城で決起するところでした。
席上、参加した郷土史家山中雅史氏より、「太田道灌状」にでてくる大森御陣の場所について、新発見の資料に基づきくわしい報告がありました。上影森村の元村長関田家の土蔵で、明治17年以降に画かれた3枚の古絵図が発見されました。その古絵図には、諏訪神社の近傍に土塁跡が認められ、大門という地名が記されています。山中氏の詳細な検証の結果、そこには陣屋の土塁と大手門があって、神原(陣原)には軍勢が駐屯したことが確認されました。したがって、文明12年、熊倉城に楯籠る長尾景春の軍勢を攻めるため、関東管領上杉顕定は、ここに大森御陣を開いて総指揮をとったと思われます。
  
またその日、小鹿野町の画家小菅光夫氏が画いてくれた長尾景春の武者絵が披露されました。これは、氏が、双林寺の長尾景仲(景春の祖父)の木像を参考にして画いた、本邦初の景春武者絵です。3枚の長尾景春武者絵は、秩父市荒川の歴史民俗資料館に展示されることになると思います。
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(長尾景春の武者絵)
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(長尾意玄入道景春)
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(長尾景仲像・渋川市双林寺蔵)
posted by otadoukan at 11:35| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.5