私は夏の晴れた日に、太田氏発祥の地・丹波の亀岡市へ行きました。京都駅より嵯峨野線に乗り小一時間で亀岡駅につきます。保津川渓谷の鉄橋を何回も渡りトンネルをくぐったりすると、丹波は昔、都から隔絶された僻陬(へきすう)の地であったのではないかという気がしてきます。亀岡駅につくと周囲に田畑が広がっているので、たしかにここには京都とはちがう空気が流れていると実感できます。

(亀岡駅)
太田道灌の心友、万里集九が道灌遭難後の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中に「大田左金吾公道灌は、その先はすなわち丹陽の人なり。しかるに五、六葉の祖、はじめて相州に家す」とあります。
「太田家記」(1714年)によると「太田摂津守資国御法名を道斎と申し奉る。五箇荘の内太田郷を領知し故、資国公御代より太田の御名字を称され候、資の字も資国公より始まり候」とあります。
『寛政重修諸家譜』(1812年)にも、太田資国は、摂津守を名乗って丹波太田郷に住んだ旨、記述されています。
私は亀岡駅前でレンタル自転車をかりて、薭田野(ひえだの)町の太田を目指しました。亀岡市役所を経て亀岡運動公園をすぎ、西へ約5キロも走ると、薭田野神社がありその近くが薭田野町太田です。

(薭田野神社)
この神社は、709年(和銅2年)創建の古社で、なにやら社殿も由緒ありげで五穀豊穣の守護神です。

(薭田野町太田の田園地帯)
太田の地は田園が広がる地域で、仕事をしている若い人に尋ねると、農道を歩いてきた別の老人を指さして「あの人が歴史に詳しいよ」と教えてくれました。その古老は「時間はよろしいか」といいながら立て板に水を流すがごとくに約20分間、丹波、亀岡(亀山)、太田の伝承的歴史を語ってくれました。
山の南面の暖かい水が流れ込むので、この地は米がよくできて大田になりやがて太田になったとのことで、太田資国の伝承は出てきませんでした。
私はその後、南郷公園近くの市立文化資料館へ行き、亀岡市史を見たあと学芸員に太田氏の故地について質問しました。意外にも学芸員は「年に数回、太田氏について問い合わせがあるものの、当地域に太田氏関係の文書や伝承は発見されません。だからと言って太田氏と無関係とは断言できません」と言いました。
太田道灌公墓前祭実行委員会編の「太田道灌公五二〇回忌記念誌」の中で太田道夫氏が亀岡について一文を寄せています。それによると、2002年2月23日付の『亀岡市民新聞』に「亀岡が太田発祥の地・道灌は源三位頼政の子孫で、亀岡が先祖ゆかりの地」という見出しで道灌の生涯が紹介されました。当時、『エクセラン亀岡』など類似の資料が出回っていました。しかしそれらは、一過性の情報であったのか、今地元では、太田道灌のことを知る人は少ないようです。
1252年(建長4年)太田資国とその一族は宗尊親王、上杉重房とともに関東へ下向して750年以上も経ったので残念ながら、太田氏の伝承はこの土地の記憶から消失してしまったのでしょう。歴史的人物がその地を去り、その子孫もまたいなくなると、その人の伝承が絶えてしまう例は珍しくありません。
明智光秀築城の地
亀岡駅や亀岡市役所には、明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」の幟旗(のぼりはた)がならび、明智光秀と細川ガラシャについての各種パンフや資料が氾濫しています。

(亀岡市役所の幟旗)
明智光秀は1577年(天正5年)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築城されましたが当時の縄張りの詳細はわかっていません。

(亀岡城址の明智光秀像)
1580年(天正8年)に丹波国を拝領した光秀は近隣から人を呼び集め、本格的な城下町の整備と領国経営に取りかかりました。しかしそのわずか2年後に、明智軍はこの亀山城から京都へ出撃し、本能寺の変が起こりました。

(南郷公園・亀岡城址)
亀山城が亀岡城に変わったのは、三重県の亀山城と区別するためだということは、稗田野町のあの古老が語ってくれました。