さいたま市の旧岩槻区役所前にはかつて、岩槻城の築城者とさていた太田道灌の銅像が立っていました。その後、岩槻城築城者について、太田氏、渋江氏、成田氏がエントリーされ、岩槻城築城者の最終決定はペンディング状態となりました。
さらにその後、岩槻市とさいたま市が合併され、岩槻区役所が取り壊されると、太田道灌像は、あと地の駐車場脇にさみしく仮り置きされました。
(歩道にある太田道灌のカルタ絵)
その後、岩槻の道灌さんはどうなったのか気になり、久しぶりに岩槻を訪ねました。岩槻駅を降りて、日光御成街道をのんびり歩くと途中の歩道に「道灌の歴史を残す城下町」というカルタ絵がありました。程なく旧岩槻区役所跡地につきます。
(岩槻人形博物館)
ここに2020年(令和2年)2月22日、さいたま市岩槻人形博物館と交流会館がオープンしました。かつては、岩槻区役所玄関で来る人を迎えてくれた道灌さんは今、博物館の脇にしずかに立って、訪れる人々を見つめています。
(人形博物館の脇の太田道灌像)
ここの道灌さんもまた、笠をかぶり弓矢と太刀を持っています。他の像と違って右手に、たたんだ扇子を持っています。
(道灌像シルエット)
岩槻の道灌さんは、他の道灌像に比べてややふっくらした顔つきをしています。この道灌像は、1985年(昭和60年)岩槻ライオンズクラブが寄贈したものであり、制作者は京都市の作島栄治氏です。
最近岩槻では、大田道灌の曽孫である岩槻城主太田資正をクローズアップしようという話があります。資正は、道灌の再来といわれる名将で、上杉謙信の先鋒として後北条氏等と戦い続け、関八州で波乱万丈の活躍をしました。
2020年09月03日
その後の岩槻の道灌さん
posted by 道灌紀行 at 17:07| Comment(0)
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