『太田道灌状』第25段には、長尾景春が太田道灌に敗れ、武蔵で最後の抵抗を試みてから秩父の峠を越える直前の、各勢力の複雑な動きが記されています。その中に次のような一節があります。
(秩父の峠のポピー)
本文
正月四日、景春児玉へ令蜂起候之間、同六日塚田へ罷越、其儘諸勢お相集、修理太夫大谷へ寄陣、同十三日沓掛へ相進。
読み下し文
正月四日、景春は児玉へ蜂起せし候の間、同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相い集め、修理太夫は大谷へ陣を寄せ、同十三日沓掛へ相い進む。
現代語訳
(文明十二年)正月四日、景春は児玉で蜂起したので、(道灌は)同六日塚田へ出陣し、其のまま諸勢を結集し、修理太夫(しゅりだいぶ)は大谷(おおや)へ陣を寄せ、同十三日沓掛(くつかけ)へ進軍しました。
*修理大夫=上杉定正
『太田道灌状』には遠征や野戦が多く記されているため、「参陣(7回)」「張陣(6回)」「寄陣(6回)」「取陣(5回)」「着陣(4回)」「出陣、立陣、払陣、逃陣(各1回)」という具合に陣にかかわる言葉が多く、それぞれ使い分けられています。
そのうち「寄陣」という言葉は、移動先の陣所のようなところに自軍の軍勢を寄せる、という意味で使われています。
第20段では二宮城に寄陣、また砦のような村山の真福寺に寄陣、第21段では青鳥城へ寄陣、第22段では臼井城に寄陣、第24段では久下氏の館に寄陣と記されています。さて第25段には「修理太夫大谷へ寄陣」と記されいます。修理太夫・上杉定正が道灌と行動を共にするため、陣を寄せた「大谷(おおや)」とは一体どこの陣所でしょうか。「大谷」という地名は現在、深谷市と東松山市にあります。
1.深谷市の大谷
深谷市役所教育委員会で尋ねると、『深谷中世文書集』第2集(深谷上杉・郷土史研究会編集)により、深谷市大谷の堀之内を教えてくれました。
(深谷市大谷の堀之内)
早速に深谷市大谷396番地の堀之内へ行ってみました。深谷市の「大谷」は、現在広大な畑地で民家が点在しています。農作業をしていた人に尋ねると、近所の古老の家まで車で案内してくれました。古老は87歳で、深谷・上杉の郷土史研究に携わり、このあたりでの太田道灌と長尾景春との戦について熟知していました。古老は身辺から文献を引っ張り出しながら、次のように話してくれました。
『このあたりには「堀之内」「館野」という小字が残っていますが、土塁や堀の跡は認められません。地名から考えて、ここに領主が居住したことは間違いないが、その人物の名前はわかりません。
そして結論として『太田道灌状』に記されている「大谷」は、「塚田(寄居町の赤濱)」「大谷(深谷市の堀之内)」「沓掛(深谷市)」「児玉(本庄市)」と、鎌倉街道上道の支道で結ばれるので、深谷市であったと考えられます。
しかし定正が、なにかの事情で東松山市の「大谷」へ陣を寄せた可能性も否定はできません。』
この古老の話は、深谷市教育委員会で示された『深谷中世文書集』157頁の内容と一致しています。
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(塚田の赤濱・荒川の獅子岩)
(児玉・雉が岡城址)
*後日わかりましたが、私がたまたま「堀之内」でお会いした古老は、『深谷中世文書集』の編集委員のお一人、吉橋孝治氏でした。
2.東松山市の大谷
『新編 埼玉県史』(2)431頁には、次のように記されています。
「道灌は、六日、塚田(寄居町赤濱)を通り兵を集め定正のいる大谷の陣(東松山市大谷)に合流した。」
『埼玉県史』では、「修理太夫大谷へ寄陣」を「(道灌は)定正のいる大谷の陣へ合流した)と解釈しています。また、「大谷」を東松山市としながらも、その陣所がどこか具体的には記していません。
東松山市の大谷も畑作地帯ですが、隣接する森林公園(滑川町)に山田城址があります。私は、国営武蔵丘陵森林公園の中にある山田城址と鎌倉街道を訪ねました。
(東松山市大谷)
(山田城址近くの鎌倉街道)
森林公園南口の右手の丘陵が山田城址です。南口から入り土塁を一気に登ると、9100平米の広大な廓が広がります。小学校のグラウンドくらいの廓の周囲の土塁と空堀は、ほぼ原形のまま保存されています。これだけの広さがあると相当数の軍勢が寄陣できます。
(山田城址の空堀)
(山田城址説明版)
城跡の説明版には伝承記録として「創築年代は不明ですが、忍の成田氏の被官、小高大和守父子及び贄田摂津守等が居住し、平山城として城郭を整えていたものと思われます。(後略)」とあります。
『太田道灌状』第24段には、文明11年末、太田道灌は急遽久下へ行き、成田下総守に会い激励した旨記されています。それにより、定正の山田城すなわち大谷の陣への寄陣が安泰になったと考えることができます。
山田城址の近くに、踏み固められた鎌倉街道がまっすぐに通り、昔日のにぎわいを伝えています。
私が訪問した夏の終わりには、コロナ騒動のためか人影もまばらなので、城址入口で大ぶりのヤマカガシに出会ってしまいました。森林公園の職員にそのことを告げると「また出ましたか、今日の日報に書いておきます」と語っていました。
3.私の推測
深谷市の「大谷」から「沓掛」へは、直線距離で約8キロしかなく、少し迂回しても約10キロ程度です。
一方東松山市の「大谷」近くの山田城跡から「沓掛」までは、直線距離で約24キロあり、少し迂回しても約30キロとなり、一日で行軍できる距離です。
また、川越城から東松山市の「大谷」までは、直線距離で約24キロで一日の移動距離です。
私も深谷市堀之内の古老と同じように、『太田道灌状』の「大谷」が深谷市か東松山市か大いに迷うところですが、敢えて推測してみます。
深谷市の堀之内には、土塁や堀跡の遺構が全くありません。そのことから推測すると、そこに居住した領主の館は小規模なもので、厳寒の頃、定正の軍勢数百名が寄陣するのは無理だったかもしれません。
定正が河越城から移動した可能性と陣所(山田城)の遺構の規模を考慮すると、私は、『埼玉県史』の「大谷」東松山市説の方がやや蓋然性が高いと考えます。
それにしても『太田道灌状』の中にただ一度だけでてくる「大谷」という地名に、私はずいぶんとこだわり、方々駆けずり回ってしまったものです。
2020年10月02日
『太田道灌状』第25段の「大谷」とはどこか。
posted by 道灌紀行 at 07:54| Comment(0)
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