2021年12月19日

太田道灌有縁の二つの稲荷社

1. 渋谷道玄坂の千代田稲荷
JR山手線渋谷駅のスクランブル交差点は今や、人流を計る場所として、誰にも知られています。そこに立って周囲を見渡すと、放射状にでているまわりの道はみな、たしかにゆるやかなのぼり坂です。ブラタモリで、渋谷駅は谷底にある、と言っていたのを思い出します。
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(しぶや百軒店)
数ある坂の内でひときわ目立ってにぎやかなのが,名にし負う道玄坂です。この坂をのぼって「道玄坂」の道路標識のあるところで右を向くと「しぶや百軒店」の横看板があります。そこをくぐってまたやや登って、赤い場所をさがすとそこが千代田稲荷です。
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(千代田稲荷)
私は、史跡探訪でしばしば稲荷社をさがします。近くまで来るときょろきょろ周りを見て、赤いものを探します。すこしでも赤いものを見つけて近づけば必ず、きつねが迎えてくれます。伏見稲荷大社では、朱色が豊穣と魔除けを表す色とされています。
どこの稲荷も赤系統ですが、千代田稲荷とその横の末社中川稲荷の朱色は格別で、これほど見事な朱色を、私は初めて見ました。
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(由緒)
この稲荷社の由緒は、由緒書きに詳しく記されています。それによると当社は、1457年(長禄元年)太田道灌江戸築城のとき、守護神として伏見稲荷を勧請したのを創始としています。徳川家康の江戸築城後、千代田稲荷として各地を経て、大正12年関東大震災後、現在地である元梨本宮邸跡に遷座しました。
由緒の最後は次のように結ばれています。「稲荷の神はもともと農業の神であり、米一粒が何倍にも殖えるように、広く殖産の神としてあがめられ、商売繁盛の福の神はもとより諸産業の守護神として、あらゆる職業の人に信仰される。」と。

2.矢先稲荷の天井絵馬
東京メトロ銀座線の田原町あるいは稲荷町でおりて、合羽橋道具街を進み、合羽橋本通手前で、赤い幟旗(のぼりはた)をさがして横へはいると矢先(やさき)稲荷神社があります。
このあたりは東京のど真ん中ですが、江戸の下町の気風がやや残っているせいか、地元の人と話しても「正直と親切」という人倫の基本が感ぜられて安堵します。
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(稲荷神社の幟旗が目立つ)
1642年(寛永19年)弓師備後が幕府の土地を拝領して、三十三間堂と矢場(弓の稽古場)を造り、隣接して矢先稲荷神社が創建されました。元禄の江戸大火により三十三間堂は消失して移転しました。隣接していた矢先稲荷神社は、住民の熱誠によりこの地の産土神(うぶすなかみ)としてそのまま鎮座することになりました。
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(台東区教育委員会の説明板)
昭和35年、当社が再建された際、海老根俊堂画伯の熱誠により、社殿の格天井(ごうてんじょう)に100枚の馬乗絵を飾ることになり、約5年の歳月を費やして完成しました。社殿の格天井全面に描かれた日本史上の100人の馬乗姿は圧巻です。聖徳太子や徳川家康など超有名人から初めて名前を聞くような人物もいて、考えながら見ていると知らないうちに時間がたちます。それぞれの絵にその人のエピソードが込められているので、全部を念入りに見れば数日はかかるでしょう。
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(格天井全面の馬乗図は圧巻)
100枚の中から太田道灌の絵を探すのがたいへんです。その中の第58番目が、太田道灌の絵です。馬上の太田道灌に、賤の家の娘が雨中で山吹の枝を差し出しています。そして道灌が怪訝そうな顔をしている例の図柄です。
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(格天井の真ん中辺にある道灌の絵)
太田道灌のエピソードで最も有名なのは、この絵の山吹伝説です。事実か伝承かに関係なく、実によく人に知られています。その理由は、かつて教科書に載っていたということだけでなく、この話自体が、民衆の心にすっと入ってしまう要素を持っているからだと思います。
posted by 道灌紀行 at 11:42| Comment(0) | 太田道灌有縁の二つの稲荷社