JR山手線高田馬場駅の早稲田口から、早稲田通りを東へ進み、馬場口で左折して明治通りを進みます。高戸橋で右折して新目白通りをやや進むと、左側に面影橋があり右前方に都電荒川線の面影橋停留所が見えます。
(面影橋とマンション)
橋の下を流れるのが神田川、すなわち道灌の江戸城の東側を流れていた平川です。面影橋を渡るとすぐ右側に、巨大なマンションが新設され、その前のちょっとした空間に、山吹の碑が立っています。元の場所からすこし移動した感じです。
山吹の里の碑は、山吹の茂みに囲まれていたものの残念ながら花は咲いていませんでした。毎年四月には、実のない八重山吹の花が満開になるでしょう。豊島区教育委員会の説明版もあり、詳しい説明文が記されているので紹介します。
(周囲に山吹と百日紅)
(「山吹の里」の碑)
(豊島区教育委員会の説明版)
「山吹の里」の碑 所在地 高田1-18-1
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一隊は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が、鷹狩りに出かけて雨にあい、。農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重花は咲けども山吹のみの(蓑)一つだに無きぞ悲しき」(御拾遺集)
の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図絵」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町だとする説があって定かではありません。ただ神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
平成16年(2004)3月 豊島区教育委員会
(碑の周りに数か所の休憩スポット)
碑の周りには、数か所の休憩場所の配慮があります。JR高田馬場から山吹の里まで歩いてくると約15分かかります。歩いてきた道灌ファンは、ここに腰を下ろして、山吹の花をめで、道灌伝説に思いを馳せることができます。
ちなみに、ここから都電に乗り、荒川の町屋で降り、すこし歩くと、荒川区の山吹伝説の地へ行くことができます。