2023年07月10日

五十子(いかっこ)陣跡に説明板(道灌紀行ニュースNo.19)

享徳の乱の主戦場
1454年(享徳3年)関東で「享徳の乱」が起りました。1476年(文明8年)には、本庄市五十子で長尾景春の乱が勃発し、その抗争は一層複雑になりました。
利根川を境に、関東管領上杉氏と古河公方の対立抗争が約30年間つづきました。その中で、「都鄙の和睦」を目指す、太田道灌の活躍がひときわ光彩を放っていました。
本庄市では、毎年11月に「本庄まつり」が行われ、諏訪町の太田道灌の山車をはじめ10基の山車が、中山道の宿場町跡を練り歩きます。

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 (本庄まつり・諏訪町・太田道灌の山車) 

享徳の乱の主戦場、五十子陣跡は、本庄市東五十子を貫く国道17号線で分断され、重要史跡としてはややさみしい風景でした。私はコロナ禍もあって、先日しばらくぶりで五十子陣跡を訪れたところ、陣跡の公園に、本庄市教育委員会の立派な説明板(令和3年3月)を発見し、大いに喜びました。
この説明板は、今、史跡内にある建物の陰になりやや人目に付きにくいところにあります。しかしそこには、五十子陣と享徳の乱のことが簡にして要を得て書かれ、貴重な資料の写しも添えてあるので、一見お勧めです。 

五十子陣城説明板.jpg
(本庄市教育委員会の説明板「五十子陣跡」)

『武蔵野鑑』(むさしのかがみ)の「五十子古城図」
説明板の記事を一部転記します。
「江戸時代に書かれた書物の『武蔵野鑑』には、塀や土塁を配置した本丸や、周辺の集落名等が描かれており、当時の五十子陣の様子を今に伝えています。五十子陣に関連する遺構は、これまでの調査によって、東五十子地区を中心に、小山川を挟んだ深谷市側も含む広範囲におよんでいたことが確認されています。」
説明板の五十子古城図を拡大します。これが現存する唯一の五十子古城図です。

五十子古城図.jpg
(五十子古城図)

この図では、本丸が小山川と女堀川にかこまれ、現在の状況と似ています。左下には蔵国寺があります。この寺の由緒には、1466年関東管領扇谷上杉顯房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。また『松陰私語』(五十子の記)の執筆者松陰は、この寺で執筆をつづけ80余歳で没しました。
 またこの図の右下に、榛沢(はんざわ)という2文字があります。『太田道灌状』に度々出てくる榛沢御陣とは、この辺りでないかと思われます。
 かつてこの辺りには、扇谷上杉氏、山内上杉氏、岩松氏の軍勢が常駐し、兵士の生活を支える各種商人たちも多数住んでいました。
 説明板を見て、地勢をながめ、昔日の合戦を偲ぶことができます。