歴史家の色川大吉先生の「歴史の現場に立てば歴史の真実が見えてくる」という教えに従い、約250か所の太田道灌史跡、関連地を訪れて『道灌紀行』を書き、20年余り経ちました。『道灌紀行』の最終地は伊勢原で、そこでの論点はやはり「道灌非業(ひごう)の最期」となります。それが太田道灌の生涯の最大の謎です。
そして『太田道灌状』には、道灌遭難にいたる伏線が、随所に沈められています。『上杉定正消息』ならびに『太田資武状』も引いて考察します。
*「非業の最期」とは、業(カルマの法則、因果の理法)に非(あら)ざる最期すなわち「納得のいかない最期」という意味です。karma=Sanskrit,act, Buddhism,Hinduism.
T 最初に結論(概説)
@ 報復の連鎖
関東では、1439年(永享11年)の「永享の乱」につづき、1454年(享徳3年)に「享徳の乱」が勃発して28年間もつづきました。その間「京都方」と「関東方」は苛烈かつ悲惨な報復合戦を繰り返し、双方の当主や家族、傍輩が多く討たれました。
太田道灌とその父道真は、古河公方足利成氏と関東管領上杉顕定との間の宿命的な「報復の連鎖」を止めようとして「都鄙の和睦(とひのわぼく)」を推進しました。「都」とは「京都方」すなわち室町幕府と両上杉氏、「鄙」とは「関東方」すなわち古河公方と関東八家等です。
➁「都鄙の和睦」の実現
1478年(文明10年)1月4日、豪雪による広馬場(群馬県榛東村(しんとうむら))の相引(あいびき)で、上杉方の実質的な指揮官太田道真と古河公方方の筆頭家老梁田(やなだ)持助が主導して「都鄙御合体の和議」を実現しました。この和議では、古河公方足利成氏の朝敵赦免と将軍、公方、管領の関東新秩序、千葉宗家の復権などを推進するという申し合わせがなされたと推測されます。その後道灌は、その新体制実現に向かい尽力しました。
しかし一方、京都方総大将の山内上杉顕定はこの和議に対して「御承引なく候」と記されている通り内心では納得していませんでした。広馬場の和議後も顕定は、古河公方への報復の思い断ちがたく、新秩序を推進する太田父子との間でわだかまりが生まれてきました。(『太田道灌状』第18段)
1482年(文明14年)古河公方の願望と越後守護上杉房定の注進で、第8代室町将軍足利義政が御内書を発して「都鄙の和睦」が実現し、関東に和平が回復しました。
B 太田資康の古河城出仕
1485年(文明17年)12月25日、太田道灌の嫡男資康(すけやす)は元服してまもなく、古河城の古河公方の許(もと)へ出仕しました。(『赤城神社年代記録』)道灌は、「関東方」と「京都方」との間の「報復の連鎖」の残滓(ざんし)を消して「都鄙の和睦」という将軍足利義政裁定の大義を確実なものにするため、和睦の証人(人質)として嫡男を古河公方の許へ送ったと思われます。それは以前古河公方が、身内(息子あるいは甥)の熊野堂守実(くまのどうもりざね)を和睦の証人として武蔵国へ派遣したことへのお返しかもしれません。(『太田道灌状』第23段)
またこのとき道灌は資康の出仕を、上杉顕定より上位の古河公方の指示による緊急的作戦実行のように考え、両上杉氏の了解を十分には得ずに決断専行したかもしれません。とすればそれは、「良かれと思えば素早く行動する」道灌の江戸っ子気質によるといえましょう。
あるいはまた道灌は、ひそかにわが身の危険を予感し、嫡男の危険をさけるため出仕させたのかもしれません。
C 上杉定正忘恩の妄動
両上杉氏の古河公方に対する報復の執念は消えがたく、太田道灌の嫡男資康の古河城出仕を引き金にして、上杉顕定と定正は道灌に対する猜疑心を強くしました。すなわち両上杉氏は「太田道灌は上杉氏を差し置き、両上杉氏の仇敵古河公方家へ尽くしているのではないか」と疑いました。
1486年(文明18年)7月26日に上杉定正は、道灌を相州の糟屋館(現・伊勢原市丸山城址)の新築祝いに呼びました。定正は「遠路来訪のねぎらいに風呂を馳走する」と言って、家臣の曽我兵庫に命じて風呂場で道灌を殺害してしまいました。上杉定正は古河公方への報復の念に駆られ、古河公方の代わりに太田道灌を誘殺するという忘恩の暴挙を犯してしまいました。
「道灌が下剋上するかもしれない」という定正の恐れは、ごく軽微な追加的理由であったに過ぎなかったでしょう。なぜならば、道灌のように、降人や傍輩に対しても義理堅く約束を守ろうとする人間が、主君への忠義心を捨てる可能性が極めて低いことを、誰よりも定正がよく知っていたからです。
⓹ 上杉定正のフェイク(偽情報)作戦
両上杉氏は道灌謀殺後1485年(長享3年)3月に「上杉定正消息」というなりすまし書をつくり、多くの写本で、太田道灌の下剋上説を世にばらまき、自己の正当化をはかりました。
曰く「太田道灌堅固之堅塁をなし(中略)剰(あまつさ)え謀乱を思い立ち」と(『上杉定正消息』第32段)。
当時江戸城の近傍東側には利根川が流れ、その向こうは千葉氏の勢力範囲でした。道灌が江戸城を堅固にするのは当然の仕事で、堅固でない城は無用の長物でした。
道灌が顕定に対して、作戦上の不満や自己の手柄を述べることはしばしばありました。それは、「腹に物を隠せない」という道灌の江戸っ子気質に拠ることでした。道灌はそれを「誠に自称を申す事、還って傍若無人に候か」と自省しています。(『太田道灌状』第26段)
『太田道灌状』最終段・39段の言葉「国に三不詳あり、云々」を語った晏嬰(あんえい)(中国春秋時代の斉の政治家)のことは、道灌没後の二七日(ふたなのか)に万里集九が読んだ祭文(さいもん)の中にあります。おそらくそれは、祭文を聞いた山内上杉家の家老高瀬民部等が道灌に対する善意あるいは、上杉顕定・定正の道灌謀殺を正当化するための忖度(そんたく)として付け加えたものでありましょう。
成りすまし書「上杉定正消息」の写本増刷は、ちょうど現代において、SNSでフェイク(偽情報(にせじょうほう))を方々に発信して偽(いつわ)りの世論を作り上げるかのごときでありました。それは当時大きな効力を発揮し、今もなおまだその影響は「太田道灌謀乱説」として実体のないまま続いています。
*SNSとは、Social Network Service インターネットによる通信、Line、Facebook、Instagram、Xなど。
E 上杉氏の室町将軍に対する下剋上志向
1479年(文明11年)太田道灌は、「都鄙の和睦」に反対する千葉孝胤(のりたね)を臼井城に攻めました。そのとき関東管領上杉顕定は、道灌の度重なる援軍要請を無視したため太田軍は、太田資忠が戦死するなど多大の犠牲をはらいました(『太田道灌状』第22段)
また古河公方が双方の和睦を推進するために、身内の熊野堂守実を和睦の証人として武蔵国へ派遣した際、上杉氏はまったく受け入れようとしなかったため、守実は路頭に迷いやむなく突然、江戸城へ馬を入れました。(『太田道灌状』第23段)
室町将軍足利義政が「御内書」で指示した「都鄙の和睦」という大義を妨害する行動をとりつづけた両上杉氏こそ「下剋上」を志向した、という全く別の風景が見えてきます。
U 京都方対関東方の具体的な「報復の連鎖」(詳説)
「歴史は常に過去と折り重なって展開する」とは、「享徳の乱」の著者峰岸純夫氏の言葉です。さて上述の「報復の連鎖」をもたらした、「京都方」と「関東方」の争いの経過を、現地を訪問しながらやや詳しくたどってみましょう。鎌倉で幼少時代をすごし、後に「享徳の乱」の真っただ中を駆け抜けた太田道灌は、そのすべてを聞くか見ていたことでしょう。
@ 1439年(永享11年)〔道灌8歳〕永享の乱【京都方の攻撃】
1434年(永享6年)第4代鎌倉公方足利持氏は、室町幕府の第7代将軍足利義教を還俗(げんぞく)将軍、くじあたり将軍と軽んじ、義教を呪詛(じゅそ)するため鶴岡八幡宮に「呪詛怨敵」の血書願文を奉納しました。1439年(永享11年)将軍足利義教が駿河の今川範忠等に命じて、将軍職に野心を抱いたとして鎌倉公方足利持氏の追討を命じました。足利義教と足利持氏は二人とも、稀に見るほどの苛烈な性格の人物でした。
同年2月10日、関東管領の上杉憲実は、将軍義教の厳命に抗しきれずに持氏を攻めました。持氏は鎌倉二階堂谷(にかいどうがやつ)の永安寺(ようあんじ)で、息子、娘ら7人を自らの手にかけて自害し、嫡男義久も鎌倉報国寺で自刃しました。
永安寺址の碑文にいう「持氏時の将軍義教と隙(げき)あり、兵敗れて窮まれり」と。永安寺跡の碑は現在、近くの民家庭に移されています。あまりにも凄惨な持氏最後の場所を、土地の人々は敢えて秘匿し供養してるのかのようです。

鶴岡八幡宮
鎌倉永安寺跡の碑
かくて「永享の乱」がはじまり、1449年までの10年間、鎌倉公方不在のまま、関東管領上杉憲実が、関東の実権を握りました。
➁1440年(永享12)〔道灌9歳〕 結城合戦【関東方の反撃と敗北】
1440年7月29日、関東八家の結城(ゆうき)氏朝が、足利持氏の遺児安王丸と春王丸とともに難攻不落の結城城(結城市)に決起し、幕府・上杉連合軍と戦い翌年4月16日に結城氏は敗北しました。上杉憲実の弟清方が結城城攻撃の大将をつとめました。
結城城の土塁址(結城市)
落城の翌日首実検に供された数は、首注文記録によると城主の結城氏朝はじめ長野氏、小幡氏など上州一揆の面々150でありました。安王丸と春王丸は、将軍足利義教の厳命で美濃の垂井で処刑されました。幼い万寿王丸(後の足利成氏)だけは、この合戦に参加しなかったためか不思議に命をながらえて、母方の信濃国大井氏のもとに身を隠しました。
➂ 1441年(嘉吉1)〔道灌10歳〕嘉吉の乱【関東方へ追い風】
1441年6月24日将軍足利義教が、結城合戦の祝勝会と言われ、播磨・備前・美作三国の守護赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)邸に招かれて、赤松の兵によってあっけなく謀殺されました。
E 1449年(宝徳1)〔道灌18歳〕鎌倉府再興【関東方の復権】
1449年1月、足利持氏の遺児万寿王丸(成氏)が12歳で、鎌倉西御門(にしみかど)邸に迎えられて鎌倉公方となりました。長尾景仲の主導により、関東管領には山内上杉憲実の嫡男憲忠が16歳で就きました。両者とも旧家臣に囲まれ、戦乱による父祖の悲劇を深くかつ重く心に刻んでいました。特に成氏は憲忠を「父持氏殺害に加担した上杉憲実の子である」として感情的に許せなかったのです。
D 1450年(宝徳2)〔道灌19歳〕 宝徳の乱(江ノ島合戦)【京都方の攻撃】
1450年8月、長尾氏の氏神鎌倉権五郎神社が建つ名字の地の所有権をめぐり、長尾景仲と太田道真が軍事行動を起こし、鎌倉の腰越と由比ガ浜で足利成氏方諸将と合戦しました。成氏は江ノ島に避難し、上杉方は糟屋庄七沢へ退いて10月に和睦しました。主導した長尾景仲と太田道真が隠遁することで手打ちがなされました。
長尾景仲木像(双林寺)
鎌倉権五郎神社・長尾氏発祥の地(横浜市)
E 1454年(享徳3年)〔道灌23歳〕享徳の乱【関東方の報復】
1454年12月27日鎌倉公方足利成氏が、関東管領山内上杉憲忠と家宰の長尾実景等を鎌倉西御門(にしみかど)の館に招いて謀殺しました。そして成氏方はその夜に、鎌倉山の山内上杉邸をも襲撃しました。結城氏朝の四男成朝(しげとも)が主導し、新田岩松持国の軍勢もこの夜襲に参加しました。享徳の乱が勃発しました。
鎌倉西御門・享徳の乱勃発地
このことを記した室町幕府の官人中原康富は「父房州(上杉憲実)の申し沙汰の御憤(いきどおり)か」とコメントしています。成氏の父持氏は憲忠の父憲実の沙汰(手配)により永安寺で自害に追い込まれたので、成氏は憲忠に激しい報復感情をいだいていたということです。
F 天譴(天の裁き)思想
1454年(享徳3年)11月、12月に関東に大地震がありました。それを天の怒りとして、足利成氏一統は、上杉氏に対する報復こそ天誅であるとの思いを強くしました。
*頻発する天災に関連して、峰岸純夫氏は『享徳の乱』(講談社)に次のように「天譴思想」を指摘しています。
「前代から引き継いだ持氏・成氏の父子二代にわたる上杉氏との対立関係と怨念、その復讐としての誅殺を合理化するものとして自然災害=天譴とする思考法の存在を考えてもよいと思う」と。
G 1455年(康生1年)〔道灌24歳〕分倍河原の戦い【関東方の追撃】
1455年1月22日、足利成氏方の結城成朝率いる軍勢は府中分倍河原(ぶばいがわら)で、扇谷上杉家当主顯房(あきふさ)率いる軍勢を潰走させました。成氏軍の追跡は続き、武蔵夜瀬(町田市)で包囲された顕房(20歳)は24日に討ち死にしました。
府中分倍河原古戦場
H 1455年(康正1年)〔道灌24歳〕御花園天皇綸旨【京都方の報復】
1455(康正1年)4月、足利成氏追討の「関東御退治の綸旨(りんじ)」と御旗が御花園天皇より関東管領上杉房顕(ふさあき)に下賜され、成氏は朝敵となりました。
同年6月16日、幕府軍の将今川範忠が鎌倉に足利成氏を攻めました。成氏は直臣の野田持定の領地古河に逃げて古河城を築きました。古河は利根川につづく水運と東山道につづく陸運の要衝でした。
古河公方館跡(古河市)
古河城本丸跡・渡良瀬川の河畔
I 五十子合戦
1456年(康生2年)大ほうき星・ハレー彗星が出現し、政情不安の要因となり世の「天譴(てんけん)思想」はさらに強くなり、「京都方」と「関東方」は互いに報復の正当性を確信しました。
やがて五十子(本庄市)に両軍は陣を築き、利根川を境にして五十子合戦がつづき、山内上杉憲忠の弟関東管領上杉房顕は五十子(いかっこ)で陣没しました。
岩松家の陣僧松蔭は五十子陣近傍の増国寺(ぞうこくじ)にいて「京都方・関東方終日見合い々々馬を入れ誠に勝劣未だ定らずの大陣なり」(『松陰私語』)と記しています。

五十子陣跡の説明板
近年五十子陣跡に本庄市教育委員会の説明板ができ、その最後に「関東は機内に発生した「応仁の乱」にさきがけて戦国動乱に突入しました」と記されています。
J 『河越千句』太田道真・道灌の真意(国ものどけきに)
太田道真は1470年(文明2年)に、宗祇(そうぎ)や心敬(しんけい)等とともに『河越千句』で百韻を十回行いました。『河越千句』百韻十回の中で道真は「あらそえることなく国ものどけきに」と詠み、鎌田満助が「あつま都もおさまれるはる」とつづけました。それが道真・道灌の願望でした。
したがって二人は、「享徳の乱」の最中にも「都鄙の和睦」による「関東御無為」すなわち関東がのどけき国になることを望んでいました。太田氏父子はこのころすでに、古河公方や上杉氏の天誅報復の修羅道とはやや別の世界にいたというべきです。
太田道真の連歌数寄(れんがすき)は相当の域で、後年宗祇・兼載が撰んだ「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」に二句入集しました。
道灌と連歌を詠んだ心敬は、伊勢原に住み浄業寺に没しました。その跡に今、心敬塚があります。
河越城富士見櫓
心敬塚(伊勢原市)
K 1471年(文明3年)〜1472年(文明4年)〔道灌40歳〜41歳〕館林城合戦、古河城奪還【京都方の攻撃、関東方の反撃】
1471年5月、太田道灌は妙義神社(東京都豊島区)で戦勝祈願をしました。太田道灌・資忠兄弟、長尾景信・景春親子等が赤井氏の館林城を攻め、次いで古河城の足利成氏を攻めました。6月下旬に成氏は千葉孝胤(のりたね)を頼り本佐倉(もとさくら)城(酒々井町、佐倉市)へ逃げました。このとき太田道灌と長尾景春は戦友でした。
本佐倉城址・土塁と堀
翌年1472年(文明4年)、結城氏広等の奮戦で足利成氏が反撃し、古河城を奪還しました。1473年(文明5年)11月扇谷上杉家の当主上杉政真(22歳)は五十子陣で成氏に急襲されて戦死しました。
L 都鄙御合体の和議
1478年(文明10年)の広馬場(群馬県榛東村)の相引と「都鄙御合体の和議」は、上杉方の太田道真と古河公方方の筆頭家老梁田(やなだ)持助が主導しました。双林寺に待機していた上杉顕定は休戦協定に「御承引なく候」と記されています。顕定は不満を持ちながらも、公方と約束したことだという道真に押し切られて追認した模様です。(『太田道灌状』第18段)
広馬場(群馬県榛東村)
このような勝利のためまた目的達成のための太田氏の決断専行は、道真・道灌の30連戦の中で時々ありました。たとえば1477年(文明9年)用土が原の戦で道灌は、自分より格上であった山内上杉家の家宰長尾忠景の反対を押し切って、次郎丸から鉢形城を攻めて長尾景春軍を誘き出し勝利しました。(『太田道灌状』第15段)
M 1482年(文明14年)〔道灌51歳〕「都鄙の和睦」「享徳の乱」終結【関東方の復権】
1482年11月27日、実権をもっていた大御所足利義政が、越後守護上杉房定の注進と足利成氏の願望に応じて「御内書」を発し、「都鄙の和睦」が進展しました。室町将軍足利義尚と古河公方足利成氏との和睦が正式に成立し、堀越公方足利政知には伊豆一国が安堵され、「京都方」と「関東方」の「報復の連鎖」は溶けたかに見えました。(喜連川文書)
江戸城乾濠(東京都千代田区)
1485年(文明17年)秋に道灌は、詩友万里集九を江戸城に招き、上杉定正とともに歓迎宴を開きました。(梅花無尽蔵)このとき太田道灌と上杉定正は親密さを維持していました。しかしそれは、かりそめの小康でした。
N 上杉氏の古河公方にたいする忌避行動
両上杉氏の古河公方に対する忌避(きひ)行動は、度々ありました。さきに述べたように、道灌の臼井城攻めのときの非協力、熊野堂(本源因守実)が武蔵国へきたときの受け入れ拒否、古河公方が秩父熊倉城へ向かったときの、道灌への出撃命令などです。(『太田道灌状を読み解く』第22段、第23条、第26段)
〚太田道灌状』を見る限り、古河公方をめぐっての顕定と道灌の間には、いつもわだかまりが起こっていました。「(古河公方に)御礼等御申して然るべき旨申し候処(顕定が道灌に対して)ご疎遠の様に候か(避けている)」の一句に、顕定の本心がはっきりと表われています。(『太田道灌状』第23段)
太田道灌が「大将様」と呼んでいる関東管領上杉顕定に、なぜこれほど度々書簡を書いたのか、それは道灌の決断専行を事後承諾してもらうための道灌の気遣いでもあったようにも思えます。権力の多重構造の許で上杉家の統治組織は不完全であったので、現場の司令官としての太田道灌の苦労はひとしおでありました。
『太田道灌状』(国学院本)
「都鄙の和睦」が実現されると、戦時下では見過ごされていた、豊島氏滅亡後の広大な闕所地(けっしょち)を太田氏が実効支配していたことも、両上杉氏とのわだかまりの原因になったでしょう。しかし「強入部(きょうにゅうぶ)」が常態的になっていたこの時代ですから、この種のことが上杉氏と道灌の間での決定的な対立の原因になったことは、『太田道灌状』の中には見えません。それに引きかえ、古河公方が姿を見せると、上杉氏はかならず古河公方に異常な忌避行動を示しています。
O 1486年(文明18年)【道灌55歳】道灌非業の最期【京都方の報復と自滅の因】
太田道真と道灌は、「京都方」と「関東方」が互いに抱えていた過去の恩讐をこえて「都鄙の和睦」による「関東御無為」を実現しようとして奔走し、ほぼその業(ぎょう)は達成されました。
1485年(文明17年)12月25日、太田道灌の嫡男資康は元服してまもなく、和睦の証人として古河城の古河公方の許へ出仕しました。(『赤城神社年代記録』)
しかし道灌の人生は終始順風満帆とはなりがたく、嫡男の古河公方出仕が引き金となり55歳を一期として、やや早くにその生涯を終えることになってしまいました。
丸山城址・糟屋館跡(伊勢原市)
1486年7月27日、太田道灌は上杉定正により相州糟屋館(伊勢原市)に招かれて、遠路のねぎらいにと風呂を馳走されました。そして道灌は、定正の腹心曽我兵庫により風呂場で謀刹されました。その時道灌は「当方滅亡」と一言叫んだと伝えられています。(太田資武状)
両上杉氏は、「都鄙の和睦」後も、古河公方に対して報復意欲を持ちつづけていたので、嫡男を古河公方に出仕させた太田道灌を、問答無用で報復の対象としました。

七人塚の碑と説明板(伊勢原市)
その日道灌は、遭難の覚悟を決めて伊勢原へ向かいました。ともに戦い戦陣に果てた多くの同志たちのことを思えば、自分だけが逃げるわけにはいかなかったでしょう。道灌の腹には、個人的な怨讐はもちろん下剋上の意図など全くありませんでした。下剋上などやろうと思えばその機会は常にありました。しかし道灌の腹にはその思いは全くなかったのです。
その日道灌はわずか9人の従者を連れて、定正に諸事の真意をつたえるために伊勢原に来ました。9人のうち7人は上杉の兵と戦って腹を切り、2人はこの事実を後世に伝えるため脱出したと伝えられています。その二人の子孫二人の山口氏は今も、伊勢原の洞昌院の近くの7人塚の前に住み、道灌と従者の墓守をしています。
P 能天気の両上杉氏
おそらくは、関東管領上杉顕定が「古河公方により、山内上杉憲忠、房顕そして扇谷上杉顕房、政真と4人の上杉方当主がわずか13年の間に討たれあるいは陣没している。その無念を思うとこのまま「関東方」と和睦することはできない」と定正をはげしく使嗾(しそう)したでありましょう。そして定正の、古河公方との和睦に尽力する太田道灌への反感をつよくかき立てたでありましょう。

宿阿内城址(前橋市女体神社)

上杉氏亡命政権の址の土塁
1476年(文明8年)6月両上杉氏は、長尾景春に五十子陣を攻められ、上野の宿阿内城に拠り亡命政権になりました。そのとき上杉氏は滅亡の一歩手前まで来ていましたが、駿河から帰還した太田道灌に、なにからなにまで助けられました。そのことをけろりと忘れていた、というよりは恩を感じていなかったという能天気型の上杉一族でした。
V カルマの法則
@「長享の乱」そして両上杉氏の滅亡
その後両上杉氏は、同士討ち(長享の乱)をはじめました。そして1494年(明応3年)10月に上杉定正は荒川(寄居町)で落馬して頓死(とんし)しました(49歳)。また1510年(永正7年)6月には上杉顕定が長尾為景と戦い、越後長森原(南魚沼市管領塚公園)で敗死しました(57歳)。
荒川の川越岩(寄居町)・定正落馬
管領塚(南魚沼市)・顕定敗死の地
さらに道灌没後60年にして、「当方滅亡」という道灌の予言のどおり、忘恩の扇谷上杉氏は1546年(天文15年)の河越の夜戦で後北条氏に敗れて完全に滅亡しました。そして同時に関東管領山内上杉氏の名跡は、上杉憲政より長尾景虎すなわち上杉謙信にわたってしまいました。歴史の底流に潜む「カルマの法則(因果の理法)」は、その内在的論理として確かに稼働したと思われます。
道灌が最後に叫んだ言葉の中の「当方」の意味については諸説ありますが、『太田道灌状』の中で道灌は度々「当方」を「扇谷上杉家」の意味でつかっています。(『太田道灌状』第13段等)
平井城址・上杉一族の碑(藤岡市)
*仏法上「非業」はありえません。道灌の「非業の最期」はそのように見えただけです。おそらく道灌は「享徳の乱」で30連戦を勝ち続けたものの、戦死した太田資忠をはじめとする多くの敵味方将兵にかかわる「業」を背負って、自らもそれを自覚していたことでありましょう。
V フェイク(偽情報)を流しつづけた『上杉定正消息』(なりすまし書)
太田道灌のいわゆる「非業の最期」の原因については、古来種々の説、憶測が語られてきました。よく引かれる説は、「道灌が城を堅固にして下剋上を起こそうとしたので、道灌を誅罰した」という上杉定正の主張です。その出所は、1489年(長享3年)3月に上杉定正が曽我豊後守に宛てたとされるなりすまし書『上杉定正消息』の第32段にあります。曽我豊後守は、道灌を謀殺した曽我兵庫の父です。
「上杉定正消息」の写本は、国立公文書館、島原図書館松平文庫などにあります。「(東京都)北区史・資料編古代中世2」の「上杉定正消息」の「注」に「本史料には多くの写本が存し」と特筆してあります。この消息は「写」の形で流布しました。おそらくは意図的に種々の写本がたくさんつくられたのでしょう。
それはちょうど現代において、SNSでフェイク(偽情報(にせじょうほう))を発信して拡散し、「もう一つの事実だ」などと言って世人を惑わし、一定の効果を発揮しているかのごときです。
「上杉定正消息」以外に「道灌謀殺の理由を書いた当時の史料」はありません。
『上杉定正消息』の第32段、読み下し文
「太田道灌堅固之堅塁をなし山内へ不儀となるべく企て候間度々専使を以て折檻(せっかん)を加えるごとき(なれ)ば、這般(はいはん)(背反)の事は存知たるべく候処、誤り如何。左伝に云く、都城百雉(ひゃくち)に過ぎれば国の害なり。江・川(河)之両城堅固に候とも、山内へ不儀連り続き候ばはたして叶うべからずの由申し付け候の処、承引に及ばず。剰え謀乱を思い立ち候間誅罰(ちゅうばっ)せしめ、即鉢形へ注進畢(おわ)んぬ。顕定は合力のため、高見に至り軍旗を揚られ候間忝(かたじけな)く存じ候処」
同、現代語訳
「太田道灌が堅固に城を堅塁となし山内へ不義となるような企てをしないように度々専使をもって叱責を加えたので、(道灌)背反の事は(道灌が)存知であったと考えますが、(私に)誤りがあるでしょうか。左伝に云う「都城百雉(ひゃくち)に過ぎれば国の害なり」と。江戸、河越の両城は堅固であっても、山内への不義が連り続けば、はたして(忠義が)叶うのか、叶わないと申し付けましたところ、(道灌は)承引しませんでした。そのうえ(道灌は)謀乱を思い立ちましたので誅罰(ちゅうばっ)して、すぐに鉢形(城の顕定)へ注進しました。顕定は合力のため、高見原に至り軍旗を揚げられましたのでありがたく思いました」
左伝を引用するこの説は、牽強付会(けんきょうふかい)による極めて陳腐な偽説です。江戸、河越の両城が堅固であったのは当たり前で、堅固でない城は無用の長物です。道灌は最後まで長上に忠義をつくし、下剋上の行動はありませんでした。それどころか、上杉顕定を討ち取ると明言して決起した長尾景春方と30回も戦い続けたのです。(『太田道灌状第6段』)
『上杉定正消息』の数か所に、家臣が主君定正や嫡男朝良のことを記したような尊敬語による表現があります。それらはやはり、定正の側近筋や軍師が、主君弁護のために書いたなりすまし書である証拠です。(『上杉定正消息』第10段、第20段)
この書は、現代においてSNSでフェイク(偽情報)を流すことと同じように、だまされた世論作りに多大なる効果を発揮しました。
W 太田資武状
太田道灌の曽孫太田資正は勇猛果敢の知将で、武州松山城での「三楽犬の入れ替え」は面白い作戦です。岩槻城での、長男氏資のクーデターにより、資正は常陸の交野(かたの)城に追われました。資正の五男資武が、父から聞いた太田道灌の最期について『太田資武状』(第2の書状第5段)に次のように書いています。
読み下し文
「道灌は天明(文明)十八年丙午(ひのえうま)七月二十六日五十五歳にて遠行の由、慥(たし)かに聞き為されしの段仰せ越され、拙者右申し進じ候もその通りに御座候。
さて又死去の正説は、風呂屋にて風呂の小口まで出られ候時、曽我兵庫と申す者太刀を付け、切られ倒れなから「当方滅亡」と、最後の一言、その時代には都鄙をもって隠れなき由、親度々物語仕り候、かの曽我兵庫は道真の重恩を蒙り為す者にて御座候へとも管領よりの貴命拠(よ)んどころ無き故か、右の仕合に候。
道灌一言の如く、扇谷御家も時刻なく相い果て、河越も北条之手に属すと(資正は)申し候、この物かたり少々詞も述べ難く長き事にて御座候間、存ずる通りには申されず候事」(『太田資武状』第2の書状第5段)
現代語訳
「道灌は文明十八年丙午七月二十六日五十五歳にて死去したと、確かにお聞ききになられたと仰せられ(ましたが)、拙者が次に申しあげる事もその通りでございます。
さてまた死去の正説は、(道灌が)風呂屋にて風呂の小口まで出られた時、曽我兵庫と申す者が太刀を付け、(道灌は)切られ倒れなから「当方滅亡」と最後の一言、その時代には都鄙中で隠れもない事であったと、親が度々物語ってくれました。あの曽我兵庫は道真の重恩を蒙った者でありましたが管領よりの貴命には逆らえない故か、申し上げたようになりました。
道灌の一言の如く、扇谷御家も間なく滅亡して、河越城も北条の手に落ちました。この一部始終は少々の言葉では述べ難く長い事でございますので、知っていること全ては申し上げられません」
道灌の最期については、諸説があるものの、道灌没後の二七日(ふたなのか)忌に捧げられた万里集九の祭文の中に「太田二千石公(領主)春苑道灌は、相陽糟谷の府第(役所)匠作君(上杉定正)の幕に入り、にわかに白刃の厄にかかる」(『梅花無尽蔵』)という一節があるので、『太田資武状』の記述が事実であると思われます。
主な参考文献
前島康彦著「太田氏の研究」名著出版
勝守すみ著「太田道灌」人物往来社
峰岸純夫著「享徳の乱」講談社
山田邦明著「享徳の乱と太田道灌」吉川弘文館
黒田基樹著「扇谷上杉氏と太田道灌」岩田書院
木下聡著「山内上杉氏と扇谷上杉氏」吉川弘文館
小川剛生著「武士はなぜ歌を詠むか」角川学芸出版
櫻井一義著「太田道灌江戸児論」明治書院
尾ア孝著「『太田道灌状』を読み解く」宮帯出版社
(完・尾ア孝)