2025年03月09日

太田氏の名字を伝える横浜「三春台」

1.太田氏丹陽より相模へ
  太田道灌の詩友万里集九(ばんりしゅうきゅう)の漢詩文集「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」(1506年)の中に江戸城静勝軒(じょうしょうけん)の詩板のために書いた「静勝軒銘詩并序(じょうしょうけんめいしならびにじょ)」があり、その中に道灌の出自について次のように記されています。「太田左金吾公道灌は、その先はすなわち丹陽のひとなり。しかるに五、六葉の祖、はじめて相州に家す」と。

 『新編武蔵風土記稿』(1830年)相模国久良岐(くらき)郡之六太田村にいう。「太田村は、郡の西端橘樹(きつき)郡の境にあり。昔は六浦庄を唱えしと云、今は庄名を称せず。村内に昔太田道灌入道持助の屋敷ありしゆえ、太田の地名起こりしと云うのみにて明拠なし(中略)富士見山 浅間神社の側にあり、相傳ふ昔太田道灌此に登りて富士を眺望せし處なりと」と。江戸時代には相模国久良岐郡太田村は幕府の天領(直轄地)となりました。

  『源姓太田氏系図』(太田家記所収)(1714年)によると、道灌より7代前の源隆綱が土御門帝より五箇庄(京都府南丹市)を賜りました。そして道灌より5代前の資国は丹波国桑田郡太田郷に移り住み、始めて太田という名字を称し、「資」を通字としました。
1252年(建長4年)宗尊親王(むねたかしんのう)が皇族将軍として鎌倉に東下した際、親王の近従人上杉重房(藤原鎌足の後胤)とその家臣太田資国も共に関東へ移って相模に居住しました。そのとき太田氏は、鎌倉からほど遠からぬ相模国久良岐郡の台地に住み居住地は太田村となったと考察します。
 太田道灌は久良岐郡の高台(現在の横浜市南区三春台(みはるだい))に館を構え、勢力を伸ばしていったと思われます。太田氏はその後、扇谷上杉氏の家宰・相模守護代となった都合で、15世紀中頃に久良岐郡の太田村を去り鎌倉の扇谷(現在の英勝寺)に移転したと推測されます。

2.太田小学校                                   
 私は早春の風の強い日に、京浜本線黄金町駅より南側の高台へむかって10分ほど歩き、旧坂にとりつき太田小学校をめざしました。旧坂を中ごろまで登るとおばさんが二人おりてきたので「右に見えるのは太田小学校ですか」と訊くと「それは関東学院です。太田小学校はまだまだ、山のてっぺんです」と身振りたっぷりで教えてくれました。

関東学院.JPG
 旧坂の右手に見える関東学院

急坂と太田小学校.JPG
 まだまだ続く急坂のてっぺんに白い太田小学校

 私は内心「これはいい感じだ。太田道灌の館がありそうな高台だ」と思いながら一層の急坂を登り続けました。途中に段差形式の三春台第二公園などがあり、みなとみらい方面がみえました。往時は富士山の眺望もあったでしょう。これは太田道灌好みの眺望です。登りきったところに確かに、横浜市立太田小学校があり、そのあたりは、現在遺構はないものの太田道灌の館があったところと伝えられています。現在その周辺には、住宅や寺院などが密集してます。

太田小学校校名.JPG

太田小学校校舎.JPG
 横浜市立太田小学校

校舎わきの紅梅.JPG
 校舎脇の紅梅

3.学校名と町名に貴重な土地の記憶
 ここは三春台というしゃれた名前の約40mの高台でその周囲には、旧坂、新坂、東坂、西坂、しおくみ坂、久保山坂、庚(かのえ)坂の七つ坂があります。しおくみ坂があったということは、この高台には、水が十分なかったのではないかと思われます。したがってこの高台は、かつて大きな田んぼがあって太田村と呼ばれたのではなく、太田氏が館を造ったから久良岐郡太田村と呼ばれたのです。これは「名字の地」というより「名字を伝える地」です。
 明治以降に何回も行政区画や町名の変更があり、元の太田村の一部は今、三春台の下の南太田町1丁目から4丁目として昔の地名を残しています。関内の太田町の南側にあるので南太田町となりました。        
  
関内方面.JPG
 太田小学校横より南太田町、関内方面

 土地の名前は、言語学ではフォッスル(fossil 化石)といわれますので「太田小学校」という校名と南太田町という町名と駅名には、太田氏が残した貴重な名字がフォッスルとして含まれているというべきです。

4.補遺
  「源姓太田氏系図」(1714年)によると、太田氏の祖は、清和源氏頼政流であり文武両道の名家でありました。しかし今日、太田氏先祖有縁の地すなわち京都府の亀岡市、南丹市などに、太田氏の名字の地としての記録や伝承を発見することはできません。源資国が五箇庄(南丹市)から丹波国桑田郡太田郷(亀岡市)へ移転して太田資国と改名し、さらに1252年(建長4年)関東へ移転したのはほとんど同時期の出来事であったのかもしれません。そのため、太田氏の名字の地とされている亀岡市の太田郷には、太田氏の記録や伝承が残っていないのかもしれません。

13 太田郷.jpg
 京都府亀岡市稗田野太田の大きい水田

 また頼政の孫広綱は、源頼朝に仕えたものの、同じ源姓として鎌倉幕府から警戒されて冷遇され、神護寺に遁世したと記されています。
 宗尊親王の近従人上杉重房とその家臣太田資国が東下した1252年(建長4年)ころ、鎌倉幕府の執権は権勢を誇る北条時宗で、僧日蓮が国家諌暁をして迫害を受けるなど、物情騒然としていました。そのような世情もあり、源姓太田資国は自らの保身のために記録や伝承が残らないように、目立たぬ軽輩に甘んじて生き延びたのかもしれません。