2014年08月02日

太田道灌のロジスティックス

1.寶生寺・小机城包囲中の道灌の祈願寺 
横浜駅から、市営地下鉄ブルーラインで湘南台方面へいくと、10分余りで蒔田(まいた)につきます。蒔田駅から東へ10分程歩き、堀の内1丁目1番地という意味ありげな交差点で右へ曲がると、すぐに寶生寺(ほうしょうじ)の石碑がみえます。
参道の急階段を登ると、山上にたいへん趣きのある山門、鐘楼や本堂があります。なぜか境内に人影はなく、あたりは夏草におおわれ、紫紅色の百合が微風にゆれていました。山門のまわりに説明板があり、寺の由緒や所蔵していた文書の説明が記されています。由緒書の板は昭和初年まで境内の西北にあって横濱十名木の一として知られた通称「千年松」の餘材を使用したものです。
それによると寶生寺は、清龍山寶金剛院と号し、平安時代末期の1171年(承安元)に覚清法印により開創された真言宗(古義)の寺です。またそれには「文明8年、小机城を包囲中の太田道灌が當寺宛てに祈祷と食糧の禮状に併せて禁制状を寄せた」と記されています。これが事実とすると、小机城の戦いの真相解明が一歩進みます。私は、この場所にもっと早く来るべきであったと悔やみました。
寶生寺石碑.JPG  
(寶生寺石碑)    
024.JPG
(寶生寺・本堂)
 1478年(文明10年)1月、小机城主小机昌安と矢野兵庫助は長尾景春を支援したので、太田道灌は小机城を攻撃しました。「古河公方足利成氏書状写」には「下武蔵事は、御方者共小机要害へ馳籠り候処、去る二十八日、太田道灌差し寄せ陣を取り進らせ候」とあるので、古河公方配下の軍勢も小机城籠城に加わっていました。したがって城方は多勢で、意気軒昂であったと思われます。
この城址から北方へ約1キロの所に、道灌軍が帯陣した亀の甲山があります。城方は大勢で道灌軍は無勢であったので容易に貫きがたく、3ヶ月間も包囲し続けていました。3月には、長尾景春の腹心吉里宮内が後詰めとして二宮城(あきる野市)に迫っていたので、道灌は心中穏やかではなかったと思います。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)によると、同年4月10日に道灌は、戦の勝敗は兵の多少によらず、勢いに乗るにしかず、我今、俳諧の歌を詠みて兵士を励ますべし、声に応じて進めとて、
  小机は先ず手習いのはじめにていろはにほへとちりぢりになる
と戯れ歌を詠み、進軍ラッパに代えて進撃しました。兵卒はにわかに勢いつき、道灌軍は大勝を博しました。戯れ歌で戦に勝ったという言い伝えの背後に、なみなみならない道灌の苦労があった模様です。
寺の由緒書.JPG   
(寶生寺由緒書) 
小机城址.JPG
(小机城址)
道灌軍にとって、小机城包囲は予想外の長陣になったので、文明10年2月には禁制を出して領民の治安を維持したのでした。そしてさらに、寶生寺で戦勝祈願をして将兵の士気を高め、なおかつ寺方に食料の提供を依頼したのでした。

当寺は僥倖にも、関東大震災の火災からも横浜空襲からもまぬがれ、所蔵する多数の古文書、佛画は安泰で、現在神奈川県立博物館に寄託、順次展観されています。私は寶生寺をあとにしてすぐに、神奈川県立博物館と横浜市立図書館へいき、寶生寺文書を調べました。
神奈川県立博物館.JPG   
(神奈川県立博物館・旧横浜正金銀行本店・国指定重要文化財)
太田道灌禁制には,「武州久良木(岐)郡平子郷於石川談義所,当手軍勢濫妨狼藉事、右、有違犯之輩者、可被処罪科之状如件、文明十年二月 沙彌 道灌花押」(寶生寺文書)と記され、乱暴狼藉を禁じています。禁制とは、統治者が禁止事項を公示するために作成する文書です。道灌は、軍勢の規律を維持するためにこの禁制を発給しました。文中の談義所とは学林のことです。
もう一通には「為當陣御祈祷巻数一枝並薯蕷贈給候、祝着之至候也 恐々謹言 卯月十日 沙彌道灌花押 謹上寶生寺」(寶生寺文書)と記されています。文中の薯蕷(しょよ)とはながいものことです。
1332年(嘉吉2)に領主により横濱村薬師堂兔として当寺あてに田畑の寄進を受けた寶生寺文書があります。これは「横濱」の地名のあらわれた史上最古の文書として有名です。

寶生寺は小机城から約10キロもありますが、当時、この寺の勢力が盛んで五十余箇寺の末寺を持ち、天下泰平の祈願道場としても有名であったので、道潅はあえて訪れたと思われます。
戦において、ややもすれば見落としがちであるけれども、兵士の士気と規律を維持し、食料等の生活物資を調達し、領民の治安を守り味方にすることは極めて重要です。戦に臨んでは戦術のみならず、現代でいうロジスティック(兵站)にも道灌は、細かい気配りを欠かさなかったことが、寶生寺文書によりわかります。
 
寶生寺の寺域周辺には、タブノキ、スダイジ、シラカシなどで自然の林相が維持され、「商店街や住宅街のなかにあって、これだけ自然度が高い樹林が残されているのは、現代の奇蹟といえるほど珍しい」と、神奈川県教育委員会の説明板に記されています。
この寺の本堂(灌頂堂)と印信集一巻は、横浜市の有形文化財です。
宝生寺=横浜市南区堀の内 1−68

2.東福寺の道灌守り刀
横浜市営地下鉄ブルーラインの阪東橋駅から西へ5分も歩くと、京浜急行線の黄金町駅にきて、さらに5分も歩き、赤門町で右へ曲がると、地名の通りの赤門が見えます。それが、光明山遍照院東福寺の山門です。
「新編武蔵風土記稿」東福寺の項に「太田持資入道道灌が中興、短刀一腰、太田道灌の守刀という、古物とみゆれど、作者及び寄納の由来をつたえず」と記されています。
赤門.JPG
(東福寺の石碑と赤門)
この寺の人に、道灌の守刀のことをたずねると、「東福寺は太田道灌中興ではありますが、現在そのような刀はございません。当寺は、関東大震災の火災と太平洋戦争の空襲をうけ、御本尊以外の一切が灰燼に帰したので、そのときなくなったと思います」とのことであります。
東福寺=横浜市西区赤門町2−17
posted by otadoukan at 20:57| Comment(6) | 太田道灌のロジスティックス
この記事へのコメント
太田道灌のロジスティックス: 道灌紀行は限りなく
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