2015年05月23日

大串ノ弥七郎の本貫地

「太田道灌状」(1480年)は、「大串ノ弥七郎出仕の事」で始まります。
「雖大串ノ弥七郎出仕ノ事連連申来候、取分去九月、就東上野雑説御近辺自参上之刻申候之処、半可然趣蒙仰候間、今度召具罷立候。然而未御免候」《大串弥七郎の(上杉顕定への)出仕について、先だってより申しあげてきました。とりわけ去る(文明11年)9月に、東上野の雑説の件で、(道灌が顕定の)お側に参上したときから、申しあげてきました。半ば了承との言葉をいただいたので、この度(弥七郎)を呼び連れて参りました。ところが、まだお許しがありません》
大串弥七郎は、長尾景春が乱を起こしたとき、当初景春方につき、後に上杉方に転じました。弥七郎は、秩父の高佐須城(塩沢城)において、景春方の同心傍輩と身命を通わせていたので、城中の様子を知らせてもらいました。その情報に基づき作戦を実行したので、味方を一人も失わずに敵方数十人を討ちとりました、と「太田道灌状」に記されています。
道灌は、他国の国人衆や出稼ぎ衆を意欲的に調略すなわち外交的努力により味方にし、出仕を許して所領安堵をし、自軍の勢力を増しました。大串弥七郎は、それらの国人衆のひとりでした。道灌は武蔵国守護代扇谷上杉家の家宰として、主君上杉定正と管領上杉顕定に、調略した国人衆のとりなしをしたけれども、管領上杉顕定はいたずらに決裁を遅延して道灌をいら立たせていました。
高佐須城の攻略で功労のあった大串弥七郎という人物は、どういう人物で、その本貫地はどこであったのでしょうか。
埼玉県川越市の川越城のそばを走る、国道254号線を車で北上して入間川を渡るとすぐに、道灌有縁の上井草というところで県道76号線に出会います。76号線を北へ15分も走ると吉見町に入ります。「衛生研究所入口」という道路標識のあたりが比企郡吉見町大串です。近くに、道の駅「いちごの里」があります。
この地を本貫地とした武蔵武士横山党の大串次郎重親は、平家物語に登場します。平家物語に、大串次郎重親が宇治川の合戦で徒歩の先陣を遂げたというユーモラスな挿話が記されています。
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(毘沙門堂・金蔵院)    
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(吉見町教育委員会の説明板)
近くに毘沙門堂すなわち大串山金蔵院があり、そこから70メートルほど離れた畑の中に、伝・大串次郎の墓といわれている寶きょう印搭があります。吉見町立図書館の地元史料「吉見町人物誌」によると、「太田道灌状」冒頭に登場する大串ノ弥七郎とは、大串次郎重親の子孫である、と記されているものの詳細はわかりません。現在吉見町大串に、大串次郎重親の子孫と称する、下(しも)姓の家が3軒あり、その祖先は江戸時代まで遡ることができるということです。
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(大串次郎の墓・寶きょう印塔)
「新編武蔵風土記稿」(1830年)に大串次郎陣屋跡として「村の東にあり、少しき高き所にして、今は農民の居家となり、その界隈詳らかならず」とあります。毘沙門堂の少し南に市野川があり、その徒歩橋から200メートル位下流の竹林のあたりが、大串館跡であると伝えられているものの、堤防工事のために遺構は破壊された模様で、なにも確認されません。
ちなみに吉見町のとなりは川島町です。川島町の表というところに、太田道灌陣屋跡があり、そこに道灌の弟叔悦禅師が開基となって太田資家が創建した養竹院があります。地縁からいって、太田道灌と大串弥七郎は旧知の間柄であり、当初弥七郎は、長尾景春の勢いに押されて景春方についたものの、後に道灌に説得されて上杉方に転じたと思われます。
posted by otadoukan at 16:06| Comment(0) | 大串ノ弥七郎の本貫地
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