2015年07月17日

毛呂氏栄華の跡

「太田道灌状」(1480年)の第3段には、上杉方に転じた毛呂氏の所領に関わる複雑な経緯が述べられ、河内御座で管領上杉顕定が発給した御證状のとおり所領安堵が実行されていないことに対しての、道灌の抗議が記されています。
「毛呂三河守父子進退事、秩父口表、最初自御敵城招出候間御免、則左近太郎致出仕候。然任御証状旨、当知行之地雖不可有相違旨存候、土佐守白井へ致御伴忠節候之間、総領職事不及申立候」
《毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表にて、最初に敵の城から脱出して味方したので免ぜられました。すぐに(嫡男の)左近太郎が、(上杉顕定に)出仕しました。そうであるので、御證状の内容のとおり、現状の所領安堵はまちがいないと思っていましたが、(兄の)土佐守が、白井城へ(顕定の)お供をして忠節を尽くしました。ですから総領職の事は(既定のことと思って敢えて)申し立てをしませんでした》
毛呂氏は、藤原氏の流れをくむ有力な国人領主で、豊後守毛呂季光は源頼朝に仕え、毛呂郷を本貫地とする地頭として北浅羽、越生など8か所を領しました。現在も、埼玉県毛呂山町の方々に、毛呂氏栄華の痕跡が史跡として残されています。毛呂山町小田谷に長栄寺・毛呂城址があり、毛呂本郷の街道沿いに榎堂・毛呂季光墓跡、JR八高線毛呂駅付近の線路脇に毛呂氏館・山根城址碑などがあります。
1455年(康生元年)太田道真は家督を道灌に譲り、越生へ隠棲しました。そのとき道真は、毛呂氏の勢力圏を避けて越辺川の向こうに自得軒という舘を建て、山の中に三枝庵(さんしあん)という砦を築いたと思われます。
 毛呂氏館跡.JPG 
(毛呂氏館跡・長栄寺)  
長栄寺の毛呂氏墓.JPG
(毛呂氏の墓・長栄寺)
1476年(文明8年)長尾景春が乱を起こすと毛呂氏は当初、長尾景春方につきました。しかし、1478年7月18日、太田道灌軍が秩父口表すなわち長尾景春軍が拠る鉢形城を攻撃したとき、道灌の外交交渉(調略)により、毛呂氏は上杉方へ転じました。御證状のとおり、毛呂氏の所領が安堵されるように道灌が骨をおっている様子が「太田道灌状」の第3段に記されています。このような道灌の努力が、道灌の人格的信用力を高め、外交交渉に依る味方増大につながりました。
毛呂季光の墓跡.JPG  
(榎堂・毛呂季光の墓所跡)
山根城碑.JPG
(毛呂氏館・山根城跡碑)
毛呂氏はその後、戦国末期に小田原北条氏についたものの、1590年(天正18年)に八王子城の合戦で豊臣方に敗れ、400余年続いた毛呂一族が滅亡しました。
posted by otadoukan at 07:25| Comment(0) | 毛呂氏栄華の跡
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