2016年05月02日

吉良氏の世田谷城址

小田急線で新宿から五つ目の駅は豪徳寺です。豪徳寺駅から東急世田谷線に沿って10分も歩き、案内にしたがい左へ曲がると、豪壮な豪徳寺へきます。このあたりが吉良(きら)氏の世田谷城本丸址といわれ、そこに吉良氏が豪徳寺を建てました。豪徳寺は、江戸時代に井伊家の菩提寺となり、境内には井伊直弼はじめ井伊家歴代の墓所があります。
豪徳寺の参道を出て、左を見ると世田谷城址公園が見えます。そこには土塁や空堀が残り、世田谷区教育委員会の説明版に「吉良氏は太田道灌に与力した」と記されています。
豪徳寺本堂.JPG
(豪徳寺本堂)
世田谷城址公園.JPG
(世田谷城址公園)
「太田道灌状」28段には、次のように記されています。
「当方に同心する御奉公衆並びに両国の一揆、その他当方家風中の忠節の事は、一々委しく申すに及ばず候。吉良殿様の御事は、最初より江戸城に御籠り候、彼の下知を以って城中の者共に動き、数ヵ度合戦し勝利を得せしめ候」
《当方に味方する(政知の)家臣たちと武蔵、相模の一揆、その他当方の家中の忠節をつくす者たちについて、一々委しくは申しません。吉良様の事は、最初から江戸城に籠城しました。彼の命令で城中の者たちは、ともに行動し、数回の合戦に勝利を得ました》

吉良氏は足利一門において名門とされ、分家の今川家とともに、足利将軍家の連枝としての家格を有しました。世田谷吉良氏はその庶流奥州吉良氏にあたり、はじめは鎌倉公方家に仕え、14世紀後半に吉良治家が世田谷城を構え、同地に土着しました。以後、扇谷上杉方の太田道灌に与力して活躍しました。「太田道灌状」の中で道灌は、吉良氏を吉良殿様と破格の敬称で呼んで処遇しています。
吉良氏は世田谷と横浜市の蒔田(まいた)を拠点としていたので「世田谷吉良殿」「せたがや殿」「蒔田御所」などと呼ばれ、道灌の詩友万里集九は「梅花無尽蔵」の中で「吉良閣下」という尊称で記しています。忠臣蔵の吉良氏は本宗家の吉良氏です。
1476年(文明8年)、道灌は駿河へ出陣し、今川家の内紛を収めました。その帰途、伊豆北条の堀越公方を訪ね、一部始終を報告するなどして誠意をつくしたので、吉良氏等の堀越公方家の御奉公衆の支援を受けたと思われます。吉良氏は名家ではあったものの戦に縁が薄く、なぜか先祖代々の武功が何も伝えられていません。「太田道灌状」によると、その吉良氏が江戸城の留守番をしながら、数回の合戦を指揮して勝利したということですから、道灌の人の配置が絶妙であったというべきです。
由来碑.JPG  
(世田谷城の由来を記した碑)
代官屋敷跡.JPG  
(代官屋敷跡)
世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が蛇行し、天然の堀となっていました。この城で持続した吉良氏は後に、後北条氏と縁組をしてその配下に入りました。

世田谷城址公園から南へ500メートルも歩いて上町駅を越えると、ボロ市通りがあり、世田谷区郷土資料館と代官屋敷(都史跡)跡があります。この資料館には、吉良氏の詳しい説明資料と文書があるので必見です。さらにここには、思いがけなくも江戸氏の末裔木多見氏の資料も展示してあるので助かります。上町駅より北東へ少しいくと吉良氏の菩提寺勝光院があり、吉良氏代々の墓所(区史跡)があります。
世田谷城址公園=東京都世田谷区豪徳寺2丁目
世田谷郷土博物館・代官屋敷跡=東京都世田谷区世田谷1丁目
勝光院=東京都世田谷区桜1丁目
posted by otadoukan at 08:45| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)
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