2017年04月07日

伊奈町の道灌子孫・平川氏

太田源三郎資行
埼玉県の川越市より北東へ車で小一時間走り、国道17号線を越えると伊奈町へきます。伊奈町内宿台で近所の人に平川家を尋ねると、立派な門構えの家を指さしてご大尽と呼んでいました。平川家の蔵の隣に、小針村平川家碑識と称される石碑と供養碑があります。この碑は、平河家13代の平川大作氏が、明治17年に建立したものです。その碑識の碑文によると、平川氏の先祖は、備中ノ守太田持資入道道灌でその子資行(1486年〜1574年)は北条氏の臣下となり、川越夜戦で戦うなどして戦功をあげたものの、後に小針村に帰農しました。資行は「平川城(江戸城)は、かつて我が住したる故郷なり、よってこれを姓にする」として、平川氏をなのって家紋を桔梗から剣酢漿草(けんかたばみ)に変えました。
「岩槻市史」によると、資行の嫡男資吉は岩槻城の北条(太田)氏房の家臣となり、小田原落城後に氏房とともに高野山へ赴きました。その後資吉は、氏房にしたがい朝鮮出兵のため肥前唐津の名護屋城に移ったものの、氏資が在陣中に病没したため小針村に帰りました。そのとき、ともに名護屋城へ赴いた太田一族の中の太田資長、資重兄弟等が、肥前嬉野に残って帰農し、今日の嬉野太田一族となったと私は推測しています。徳川の世となってから嬉野太田は、豊臣の配下にいたことを隠すため、その出自を語らなくなったものと思われます。
平川家石碑.JPG 
(平川家碑識と供養碑・右)
その後も小針村の平川資吉の血筋は連綿として続き、江戸時代には名主、地頭用人として苗字帯刀と居宅門構えを許され、明治以降は戸長や村会議長などをつとめてきました。平川家の蔵には、源三郎資行の自筆の詩書、腰刀一振り、馬の鞍一個や1742点の平川家文書(江戸時代のもの)が所蔵されていましたが、今は埼玉県立文書館等へ寄託しているのことです。
平川家の門.JPG
(平川家の門構え)
また平川信行氏の平成22年の詳述によると、太田資行の母つまり道灌の妻は、斉藤小四郎基行の娘とされています。その妻の実家斉藤家が道灌の軍師斉藤新左衛門安元あるいは道灌松を持つ蓮田市の斉藤家となにか関係があるかどうかはわかりません。
またこの碑識に記されている太田資行は、生年から考えて上州の吾妻郡の中澤家にかかわる太田資行と同一人物ではないと思われます。
平川家の供養碑には、浄慶禅定門(太田資行)天正二年三月十八日と妙旅禅尼(資行の母)天正二年十月二十九日などが記されています。

posted by otadoukan at 18:44| Comment(0) | 伊奈町の道灌子孫・平川氏
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