2017年06月02日

下総の八幡と天神

関八州には、太田道灌ゆかりといわれる神社仏閣が、私が現在掌握しているだけで107か所あります。古文書に明記されている場合あるいは寺社自らの由緒書きにその旨記されている場合に、道灌ゆかりとしてカウントしています。歴史的事実は定かではないものの、文化人類学的にはたいへん面白いことです。おそらくは道灌が、民衆に人気があったので、寺社の格を上げるため道灌ゆかりとしたこともあったと思います。今回は、市川市の八幡と天神を訪問します。
◎太田道灌修復の葛飾八幡宮
日暮里駅で京成本線に乗ると、約20分で京成八幡駅につきます。駅から線路に沿って約100メートルも東へ歩くと左側に葛飾八幡宮の鳥居が見えます。広い境内の随神門を経て直進すると、奥に本殿があり「下総国総鎮守葛飾八幡宮の御由緒」が記されています。
総鎮守とは、俗な表現をすると神社の総元締めみたいなもので、境内を歩いてもなんとなくその威勢を感じます。1479年(文明11)に道灌はまずここで、源氏の氏神たる八幡へ戦勝祈願をして千葉氏との激戦へ臨みました。
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  (随神門)
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  (本殿)
境内にある市川市教育委員会の説明板に、この神社の歴史がわかりやすく記されているので、その説明文の前半を以下に転載します。
「寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自らも参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には、千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。
また文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行いました。さらに天正11年(1591)徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。
明治維新の神仏分離の時までは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は、往時を物語る貴重な遺物です。
また、山門には、仁王像が行徳の徳願寺に移されて、その後に左右両大臣が置かれ、随神門と呼ばれるようになりました。この随神門は、市指定有形文化財です。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また。寛政5年(1793)に発掘された、元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定有形文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます(後略)」
「江戸名所図会」(1836)にも、葛飾八幡宮として、海辺から本殿への長い参道が描かれています。
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  (千本公孫樹)
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  (鐘楼)
境内の鐘楼を見ると、神仏習合の証拠を見たような気がします。また当宮の祭礼は9月15日から6日間行われ、俗に「八幡のボロ市」とよばれる農具市が立ちます。
17世紀頃、下総と武蔵に葛飾郡があり、現在のJR総武線と京成線の間の県境近辺に、葛飾の地名は方々に残っています。

◎白幡天神社と永井荷風の歌碑
葛飾天満宮から北西へ10分も歩くと、白幡天神社へきます。神社の御由緒によると当宮の創建と歴史はやや不詳であるものの、1180年(治承4)源頼朝がここで白旗を立て、その後太田道灌が社殿を造営したといわれています。境内は静かで、清浄の気が満ちています。
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   (白幡天神社)
道灌ゆかりのこととともに、私の関心を強くひいたのは、境内の永井荷風の歌碑です、いわく、
「松しげる 生垣つづき花飾る 菅野はげにも 美しき里
白幡天神祠畔の休茶屋にて
牛乳を飲む 帰途り緑陰の
生垣を歩みつつユーゴーの詩を詠む
砂道半にして 人来らず
唯馬語の欣々たるを聞くのみ」     (断腸亭日乗)
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   (長井荷風の歌碑)
歌碑中央の永井荷風の文字は、荷風の揮毫と思われます。菅野とはここの地名です。荷風が寄ったのはどんな茶屋だったのだろうか、荷風はユーゴーのどんな詩を詠んでいたのだろうか、おそらくはフランス語の原語で読んでいただろう、馬の鳴き声を馬語とは、荷風はおそらく馬の鳴き声を言語と解したのだろう、などといろいろ思いをめぐらして面白くなります。「断腸亭日乗」とは荷風の日記です。荷風は1957年78歳で、現在の市川市八幡三丁目に転居し、そこが彼の終の棲家となりました。永井荷風に関心を持つ人は、ここへ来るべきでしょう。
posted by otadoukan at 21:08| Comment(0) | 下総の八幡と天神
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