2017年12月09日

太田資康の最期を追う

1.新井城址(三浦市)と衣笠城址(横須賀市)、三浦氏滅亡の地
三浦半島の国道134号を南下し、城ケ島の手前引橋のあたりで海岸へ向かうと有名な油壷があります。油壷湾と小網代湾の間の半島が新井城址です。新井城址二の丸址がマリンパークとなっています。本丸址の一番いい所には、東京大学臨海実験場の建物があり、門のところに「関係者以外の立ち入りを禁止する」と書いてあります。私は、実験場の事務所へ行って特別の許可を得て地図や資料もいただき、周辺の土塁と堀をしらべました。遺構はやや崩れてはいるものの、良好に残っています。
1513年(永正10年)三浦義同(よしあつ)、義意(よしおき)父子は北条早雲の軍勢に追われ、ついに最後の拠点新井城に籠城しました。このとき太田道灌の嫡男資康の一隊は、舅の三浦義同に加勢するために衣笠城のあたりで、圧倒的な大軍である北条軍と果敢に戦って敗れたと思われます。墓碑銘によると、資康45歳でありました。
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(衣笠城址・桜の名所)
新井城は海上に突き出たような要害であったので、さすがの北条軍も攻め込むことはできず、兵糧攻め作戦で包囲しつづけました。やがて三浦水軍の海上補給も絶たれ、城兵が3年間も籠城したあと終に新井城の兵糧は尽きました。1513年(永正13年)7月10日夜半に全城兵で酒宴を催し、翌日早暁に千数百人の城兵は全員切って出て激戦を繰り広げました。21歳の嫡男三浦義意は、羅刹の如く戦って北条兵を恐れさせたものの衆寡敵せず、三浦父子は自刃して名族三浦氏はここで滅亡しました。三浦氏の墓は、二の丸址にあります。
新井城址の土塁を静かに歩くと、今も城兵の壮烈と悲愁の気がただよい、戦国の栄枯盛衰の非情に打たれます。「落城を前に、城中の7人が夜中に小舟で脱出したそうです。その人たちの子孫が先日ここへきました」と臨海実験場の職員が語っていました。おそらくはその人たちが、衣笠城近くの大明寺に、武運拙く討ち死にした太田資康の墓を建てたのでありましょう。衣笠城址は衣笠駅から徒歩20分です。

2.大明寺(横須賀市)、太田資康の墓
 JR横須賀線の衣笠駅から三浦学園という学校を目指して10分も歩くと、学校のとなりに金谷山大明寺という日蓮宗の古刹があります。参道を上ると広い境内に本堂や日蓮像があります。
大名寺境内.JPG
(大明寺境内)
本堂裏手の墓域には太田資康の墓という標示があり、その場所はすぐにわかります。広い墓所に五輪塔が立ち、そばに墓碑銘があります。となりに土まんじゅうと碑が立っています。
寺の由緒に次のように記されています。「(前略)寺内の裏山には、太田道灌の子、太田資康の墓であるといわれる土まんじゅうがあります。太田資康は、三浦道寸義同の娘を妻としていましたので、三浦氏が北条早雲に攻められたとき、途中で北条軍を迎え撃って戦死しました。永正10年(1513)9月29日のことです」。
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(案内板)
「墓碑銘」にいわく「五輪の塔墓誌 太田資康の墓 江戸城主太田道灌の嫡子、源六郎資康法名法恩斉、日恵、妻は相模の三浦義同(道寸)の娘。永正十年(一五九三)北条早雲の軍と戦い九月二十九日討ち死にした。大明寺に葬られた。元服の年を文明十年(一四七八)とすると四十五歳であったと推定される。三浦義村の末孫・三浦重一の妻 三浦妙光 八十歳」と。
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(墓碑銘)
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(太田資康の五輪塔)
 「太田家記」(1714年)にいう「三浦大明寺は御葬送、是は三浦党御縁者故、尊骸を江戸まで送らずして、其の所に於て葬たるものなり」と。
大明寺の住職の話によると、この寺は明治初年に火災に会って文書を全て焼失したので、太田資康にかかわる記録は全く無くて伝承のみが伝えられているとのことであります。
太田資康の最期については異説があります。「太田家記」には、立川原合戦での戦死説も併記してあり、「赤城神社年代記録」には「1498年(明応7年)太田源六生涯」とあります。太田資康の墓があるのは、大明寺のみです。

3.女子(おなご)は門を開く
 古諺に「女子は門を開く」とあります。昔は系図に名も残らぬ女性が、実は人のネットワークを広げて一家一族繁栄の要となるということです。
太田資康の曽孫於勝の方は、徳川家康の側室となり一子を設けたものの夭折したため、家康の側室於万の方が生んだ第11子頼房の養母となりました。そして頼房は水戸徳川家の祖となり、於勝は英勝院と号して英勝寺の開基となりました。於勝の甥太田正重は水戸徳川家家老として、もう一人の甥大田資宗は掛川城主五万三千石として栄えました。
一方於万の方は安房勝浦城主の正木氏の娘であり、正木氏の祖は三浦義意の弟時綱と伝えられています。於万が生んだ、家康の第10子頼宣は紀州徳川家の祖となり、於万は養珠院と号し、その実兄三浦為春は紀州徳川家家老として栄えました。
太田道灌と三浦道寸の絆が、連綿として江戸時代まで続き、女子が一族繁栄の要となっている感がします。
posted by otadoukan at 16:47| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)
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