2018年03月19日

太田資正の軍資金か

1.遺跡で大量の埋蔵銭(メディアの報道)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は9日、中世武士の館跡とされる同県蓮田市の「新井堀の内遺跡」から、大きな甕(かめ)に納められた埋蔵銭が見つかったと発表した。10万〜20数万枚の銭が入っていると想定され、1つの甕から見つかった量としては国内最大級という。銭のほかに墨で文字が書かれた木簡も見つかった14〜18日に熊谷市の県文化財収蔵施設で特別公開する。
 県道の建設工事に伴う事前の緊急発掘中に館跡の一角から出土した。15世紀前半に焼かれた「常滑焼」の大甕で容量は約280リットル。一定数の銭がひもでつづられた状態で納められ、石蓋が閉まっていた。甕の中からは墨で文字が書かれた木簡も見つかり、判明した文字から銭の枚数は約26万枚の可能性があるという。
 これまでに19種類の銭種を確認した。中国・明の「永楽通宝」が多いことから、同事業団は「最終的な埋設時期は少なくとも15世紀以降と考えられる」と指摘。さらに分析を進め、詳細を明らかにする方針だ。(日本経済新聞電子版2018/3/9)
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 (熊谷市の埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
2.特別公開「国内最大級の埋蔵銭」
 私は早速、埼玉県埋蔵文化財調査事業団へ出向き、この世紀の大発見物を見ることにしました。川越市より国道254号で北上し、柏崎という三叉路で国道407号に入り、しばらく走って東平で右折して県道66号に入ります。少し走ると「文化財調査事業団」の表示が見えます。事業団の門へは、次々と車が入って大盛況だったので、職員総出で来訪者を迎えてくれました。本棟とは別棟の展示場に、発掘された埋蔵銭の大甕と説明板がありました。
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(特別公開「国内最大級の埋蔵銭」と標示)
 「新井堀の内遺跡」(埼玉県蓮田市黒浜地内)で発見された大甕の埋蔵銭の量は国内最大級です。常滑焼の甕には精巧な蓋がつき、甕の中には、墨で書かれた木簡も発見されました
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(埋蔵金・ノーフラシュで撮影OK)
 中国製の銭はわらのひもを通され、ズシリと積み重なっています。現在甕は、掘り出されたままで、中の方がどうなっているかわからない、ということです。
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(甕を覆っていた蓋)
甕の蓋は、秩父の山から切り出したような、緑泥片岩でできています。
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(大甕をのぞき込む見学者)
このような埋蔵金をみると、見学者は必ず「現代のお金にするとどれくらいですか」と尋ねます。すると説明員は必ず、やや困惑した表情を見せます。中世の貫高制は変動相場制なので、使われた時と所でその値打ちは相当違ってくるからです。この日の説明員の答えは「当時の京都で、家2軒半を買える値打ちのようです」というものでした。私は「じゃあ、1憶円くらいですね」と横から口を出しました。しかし「これは20憶円くらいにはなりますよ」と言う人もいて、ロマンが広がります。
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(木簡の写真・右は赤外線写真)
 甕から出た木簡には「三」「いのとし」「二百六十」と書かれています。これは「3(月)」「いの(しし)年」「二百六十(貫)」の意味と説明されています。したがって古銭の束は、260個あると推測されています。
説明員からさらに面白い説明がありました。「今回の埋蔵金は、地下2メートルで発見されたが、その上に同様の二つの甕を掘り出して埋めた痕がありました。したがって『新井堀の内遺跡』には、三つの甕の埋蔵金があったに違いありません。舘の主はなにかの事情で一番深い所に埋めた一つを、忘れてしまったようです」という話でありました。
展示場でいただいた説明書には、次のように記されています。
「(埋蔵金が見つかった)『新井堀の内遺跡』の南東約52Kmには、太田氏が治めていた岩付城があります。また、谷を挟んで北東約1.8Kmには、江の埼城が位置しています。
 周辺には、いくつかの舘跡が分布しています。『新井堀の内遺跡』にあった舘の主が仕えていたとされる、太田資正は、1564年に岩付城を追われています。常陸の国に逃れ、城を奪い返そうとしましたが失敗に終わっています。そのため、『新井掘の内遺跡にあった舘跡』もその後、武士の舘としての役割を終えたと考えられます」。
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(発掘の様子を展示)
この説明書には、舘の主は岩槻城主太田資正(すけまさ)の家臣野口多門であったと伝わっているとし、「太田氏略系図」も添えられています。この埋蔵金が、太田資正の家臣野口多門が隠匿した、太田氏の軍資金であることが強く暗示されています。「岩槻巷談」によると、太田資正の配下に野口多門という足軽隊長がいました。
3.私の推測と石原太田氏の埋蔵金
1565年(永禄8年)太田道灌の曽孫・太田資正は、後北条方の陰謀に引っかかった長男氏資のクーデターにより岩槻城を追われ、常陸の佐竹氏の客将となりました。そのとき城内にいた足軽隊長野口多門は、城の藏から軍資金をもちだし、配下の足軽兵数十人に分散して持たせ、水濠に作ってあった秘密の浅瀬から脱出して野口舘へ運び、土中の甕に隠しました。多門は後に、大甕二つの軍資金を資正に届け、大甕1個の軍資金を後々のために土中に保管しておきました。資正は常陸で活躍したものの後北条方から岩槻城を取り戻せず、1591年(天正19年)片野城(石岡市)で69年間の波乱万丈の生涯を終えました。やがて多門も老いていわゆる認知症になり、軍資金のことは忘れて子孫にも伝えられませんでした。16世紀の武蔵でこれほどの軍資金を持てる実力者は、太田資正しか考えられません。
蓮田市「新井堀の内遺跡」の近くの五庵橋には、太田道灌手植えの松の子松と伝えられる見事な松があり、そのあたりは往時から太田家有縁の地域でした。
実は、このようなことが東京都調布市の石原太田氏の太田塚近くでもありました。1995年(平成5年)太田塚近くの道路工事現場から、壺に入った約1万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は唐銭でした。調布市立郷土博物館でその古銭の山を見て、私はびっくり仰天しました。近くに住んでいる石原太田氏の前当主は「あれはうちのものだが、証明する証拠がない」と語っていました。
4.40万個の埋蔵物・古代人のメッセージ
埋蔵銭の展示場を出ると、埋蔵文化財の展示場に案内されます。本館2階の展示場に入って、再びびっくりしました。この展示場のおびただしい数の収納ケースのなかに、40万個の土器や埴輪がぎっしりつまっていました。私は今まで、土器や埴輪は、博物館にあるだけと思っていました。それが大きな間違いであることに気づきました。埼玉県の各地に、昔からたくさんの人が住み、日常的にたくさんの土器をつくって使っていたのです。これらの様々な土器や埴輪を見ていると、それを作って使った人々の生活や性格や考えが想像されてきます。土器は古代人のレガシ―(遺産)でありメッセージでもあるからです。
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(収納ケースの埴輪)
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(同じものが二つとない土器の山)
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員はみな、降って湧いたような突然の来訪者に戸惑いながらも、親切で一生懸命でした。なによりも有難かったのは、一般の博物館と違って、写真を撮り放題に取らせてくれたことです。
posted by otadoukan at 07:52| Comment(0) | 太田資正の軍資金か
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