2018年05月14日

「松陰私語」の別府・道灌軍の駐屯地

1.別府城址
国道17号線を北上して熊谷市に入り、籠原駅入り口で右折し、1キロほど進むと左手に別府中学校があります。そのあたりで、住民に別府城址すなわち現在の東別府神社を尋ねると、親切に一生懸命教えてくれます。そのあたりは畑と住宅が混在するだけで何の目印もない所なので、少なくとも2回は尋ねなければなりません。おそらくはその場所が祭りや盆踊りの会場となっているので、住民はみなよく知っているのでしょう。
入り口に「史跡・東別府舘跡碑」と熊谷市教育委員会の説明板があり、奥の方の神社の横に大きな城址碑が立っています。埼玉県指定史跡である別府城址は、成田氏の庶流別府太郎能幸の舘でありました。舘跡は約100m四方の方形で、周囲の土塁と堀跡はよく保存されています。ここから約1キロ北西に史跡・西別府氏舘があるものの、15世紀初頭には西別府氏は東別府氏に併合されたようです。東別府氏は11代尾張守長清までつづき、天正18年豊臣軍に滅ぼされました。
1476年(文明8年)頃、道灌軍がこの場所に駐屯したとき、金山城(太田市)の岩松家家宰横瀬國繁から招待状と贈り物がとどきました。
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(別府城址碑)             
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(周囲の土塁)
2.「松陰私語」の中の太田道灌
15世紀後半に関東で、享徳の乱(1454年)が発生しました。その乱の最中で、金山城主新田岩松家純の陣僧松陰が活躍しました。松陰は、1509年(永正六年)72歳の時に「源慶院殿如御日記」という岩松家の「家記」の体裁をとって「松陰私語」を執筆しました。「松陰私語」には、享徳の乱とそれに伴う内乱の時代の上野、下野、武蔵のことが、岩松家を中心に記録されています。したがってそれは「太田道灌状」とともに、関東中世の動乱を語る貴重な記録となっています。
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(別府城址・東別府神社の広い境内)
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(史跡・東別府舘跡碑)
「松陰私語」第3部の目録に、次のように面白い挿話があります。
「太田道灌入道は武州の別符(府)に陣張の際に金山城へ招き上げし事
一書を以て別符(府)の道灌陣へ申し遣した子細の條々の事
横瀬國繁と道灌の対談所用の事
道灌の陣所へ書札と雪花百袍遣した件
道灌が金山城へ越すべき返礼の事
道灌が金山城へ越すべき日限を相定め肴を両度に十駄越す事
道灌が金山城に淹留すること両三日、飛鳥井の手跡と歌の題の他に兵議の雑談一度も無しの事
松陰に相對して兵書以下の雑談の事
道灌が滞留し両三日の中に金山城の四方を唯一度見物し、近比明(名)城の由褒美の事
道灌帰陣に國繁は今井之大橋の向うまで門送りし互に名残を惜しむ為体の事
雅樂之助以下二十騎ばかり間々田舟端まで送りの事
成繁中間一人召し具して道灌陣下まで供奉の事
長尾景春對治のため道灌下総へ出陣の事
道灌金山城に越し国重と對談、それに謝するため当方より道灌合力の二百餘騎を下総へ出陣の事」
註解
@ 横瀬國繁=宗悦、新田岩松家純の筆頭家老。
A 別符(府)=群馬県熊谷東別府の別府城、現在の東別府神社境内。「地名の研究」(柳田国男)によると別符とは本来、追加開墾地の意味。
B 金山=金山城、難攻不落の名城、日本百名城の一つ。
C 書札と雪花百袍=招待状と雪花(白い花模様の抱衣)百着
D 飛鳥井=飛鳥井雅親、歌道の師匠。
E 近比名城=近頃の名城、「比」は「頃」の意味。
F 為体=(ていたらく)様子。
G 雅樂之助=(うたのすけ)横瀬成繁、國繁の子、國繁の代官。
因みに「松陰私語」第3部の本文は欠落し、目録の写本のみが現存します。しかし、目録からのみでも、太田道灌の金山城訪問と家宰横瀬國繁との対話の様子はよくわかります。
金山城址.JPG
(金山城址)
3、道灌の外交
道灌が別府在陣中に、あらかじめ二度にわたって十頭の馬に満載した肴を送ってから金山城を訪問したことは、道灌の外交能力の高さを示すことでした。なぜなら、肴とは酒の肴であると同時に、文字通り大部分は魚の塩漬けと干物であったと思われます。この山城の人間にとって、魚の塩漬けと干物ほど貴重なものはありません。魚の贈り物は、海岸の城に住む道灌の巧みな気配りでした。その気配り外交の見返りに道灌は、臼井城攻撃に際して、岩松家から200騎の援軍を得ました。臼井城の合戦は厳しい戦であったので、この200騎は道灌軍が辛くも勝利した要因であったかもしれません。
金山城址はすでに訪問済であるので今回は、別府城址のみを訪問しました。
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