さて、秩父の高佐須とは一体どこでしょうか。「長尾景春と熊倉城」という旧荒川村の郷土研究会刊行の労作によると、秩父に「高佐須」と思われる地名は両神(りょうかみ)村の「高指(たかざす)」しかないということです。従って、高佐須城は現在の埼玉県小鹿野町大字両神薄(すすき)字塩沢(しおざわ)にある塩沢城に比定されるということです。
このあたりは、犬懸長尾氏の当主で景春の従兄弟でもあった長尾景利の所領でありました。景春は、戦に敗れるといつも秩父に逃げ込み、間もなく勢力を盛り返しました。1480年(文明12年)道灌軍は長井城(熊谷市)の長尾景春を攻めたので、景春は秩父の山峡へ逃走し、塩沢城に拠ったと思われます。
(塩沢集落の入り口)
(宇賀神社・塩沢城址登り口)
秩父市で国道299号線に入り、小鹿野町の黒海土の信号で左折し、県道37号線に入って少し走り、さらに右斜めの県道297号線に入ります。約2キロ行くと午房というバス停があり、そこに塩沢地区への標示板があります。左折して塩沢集落に入り、道なりに回り込みながら高みへ至ると宇賀神社という稲荷社にきます。祭り用のためか立派な駐車場があり、その奥に塩沢城址への登り口があります。この城址については地図にも記されてなく案内板など全くないので、私は土地の人三人から道を教えていただきながらようやくここへたどり着きました。
(第1の平場)
塩沢城は長尾景春の城とされ、登り口の稲荷社は景春が勧請したそうです。
登山口から尾根道を登ると、すぐにつづら折りの急坂になり、両側は切り落としたような崖となります。最初の切り落としを越えると第1の平場にきます。
約30メートル四方の平場には杉が密生しています。さらに帯郭を2段越えて第2の平場にきます。「城の平」と呼ばれる約30メートル四方の平場です。さらに急坂をよじ登ると、約20メートル四方の第3の平場です。ここには不動、荒神、歓喜天など修験道の碑があります。さらに登ると標高760メートルの鐘つき場と呼ばれる頂上があり、修験道の碑がたくさん立っています。三方は切り落としたような崖ですから、ここは退路を断って戦う最期の詰め郭の感じです。土地の人は、頂上まで登り30分と言っていましたが、私は1時間余りかかりました。
塩沢城は、全体としては中世の山城によくある段郭(だんくるわ)の典型で、かなり大規模なものです。下から登ると郭の所在は全くわからず、這って登るような急坂に囲まれているので相当攻めにくい城です。太田道灌状によると、寝返った者が城の弱点を道灌軍に教えたので落ちたということです。
土地に伝わる景春の逃走伝説によると、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守の道案内で、道灌軍が夜討ちをかけ、1480年(文明12年)1月末か2月中旬に、塩沢城は落城しました。景春は日野の熊倉城へ逃げ、家臣の深井対馬守がしんがりを勤め、防戦して深手を負い自害したということです。この地の地頭は、太田道灌状に記された大串弥七郎の配下であったかもしれません。今も塩沢城の南東に夜討ち沢という沢があります。
(塩沢城の頂上・周囲は急坂)
登り口の手前で、私が道を尋ねた農家の人は心配そうな顔で「道標など全くなく、道が枯れ葉で覆われていますので」と言っていました。以前、道灌研究をしている知人が、塩沢城は遭難の心配がある、と言っていたので、私は登る途中で、何度も振り返って地形や倒木の様子などを覚えながら慎重に登りました。確かに途中から道は完全に消えていました。基本的に一本尾根ですから、登るときはどんどん上へ登ればよいのですが、下りがたいへんです。第一の平場から下るとき、私はルンルン気分で油断して、方角を間違えてちょっとした枝尾根へ入ってしましました。枯れ葉で覆われた急坂をスキーで降りるように一気に100メートルほど下って異変に気付きました。山で迷ったときは、元の場所へ戻れという原則に従い、私は灌木の根につかまりながらまたよじ登って第一の平場に戻りました。もう一度よく見て考えて正しい方角を見つけました。その日は快晴、無風、温暖であったし、私は若い頃に山登りをした経験があるので事なきを得ました。塩沢城址は中世の段郭として教材的価値が高くたいへん面白い城ですが、少々危ないので一般の人にはお勧めできない所です。このように、城山を落ち葉に埋もれたままにしておくことが、長尾景春に対する秩父の人たちの惻隠の情の表れであるように思えるのであります。
帰り道、国民宿舎「両神荘」で秩父温泉の露天風呂につかり、それから荒川歴史民俗資料館に寄って館長と長尾景春談義をしてきました。
塩沢城は、埼玉県選定重要遺跡です。
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
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