東京都調布市下石原3丁目の「品川通り」という風変わりな名前の道に「太田塚」と地名標識が架かる信号があり、そのすぐそばにこんもりと茂った木立に囲まれた「太田塚」があります。木立の中に入ると、石原太田氏の先祖代々の墓が四基あります。石原太田氏の先祖は、下総臼井城の激戦で戦死した太田図書之助資忠です。道灌の弟・資忠が、おそらくは相模の小机城、小沢城などの長尾景春与党の動きに備えて、武蔵府中に滞陣した際、地元の石原出雲守の娘をめとり、生まれた男子が太田新六郎を名乗りました。1579年(天正7年)資忠から3代目の太田対馬守盛久が開基となり、甲州街道沿いに太田家の菩提寺として臨済宗建長寺派源正寺を建立しました。そして太田家の鬼門の方には八幡神社が建立されました。その後太田氏の子孫は下石原村で、代々善右衛門を名乗って名主を務めました。
かつて私が石原太田氏のことを調べるため源正寺を訪れたとき、住職は私の質問を聞いたあと「太田さんはうちの檀家だからよく知っているけれども、直接太田家へ行って聞いた方がいいですよ」と言って、石原太田氏20代目の太田家をていねいに教えてくれました。それが機縁となり、私はその後、太田道灌の子孫の方々と親しく交流するようになりました。
(調布市品川通りの太田塚)
16世紀中葉にこの辺りは後北条氏の支配下となり、太田新六郎康資(道灌の曾孫)の所領となり、石原地域は大いに栄えました。平成7年11月に、太田塚からほど遠くない所の道路工事現場から、壺に入った約一万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は当時一般に流通していた「開元通宝」など唐銭であり、壺の生産年代は1550年から1600年と推定されています。私は調布市郷土博物館のショウケースの中に展示されているその古銭の山を見て「あっ」と腰が抜けるほど驚きました。その壺と大金の所有者は一体誰なのでしょうか。博物館の学芸員に尋ねると「出土物により証明されてはいないけれども、付近から屋敷の溝跡が発見されているので、太田家の所有物であった可能性はあります」と説明してくれました。こんな大金を持っていたのは一般庶民であるはずがありません。当時この辺りには太田氏以外の豪族はいなかったので、壺の大金は太田家の軍資金であったことは間違いありません。なぜ太田氏は壺の埋蔵金を忘れてしまったのか、あたらしい謎が深まります。
太田塚のある品川通りは、その名のごとくかつて道灌も住んでいた品川の御殿山(東京都品川区)のあたりまで通じていました。今も断片的に当時の古道が確認されます。当時品川は、陸海通商の結節地点であったので、「品川通り」の名がかつての石原地域の繁栄を伝えています。現在は太田資忠から21代目の太田盛明氏が石原太田家を継ぎ、太田道灌顕彰会専務理事として活躍されています。
太田塚=東京都調布市下石原3
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