2011年04月23日

古河城址

「太田道灌状」を読むと、奇異の感を抱く部分があります。それは道灌が、戦った相手の古河公方のことを述べる際に、敬語を使っていることです。道灌が、上州戦線の各地で古河公方と対峙したときのことを次のように述べています。「定めて(古河公方は)滝の御陣より御勢を分けられ候歟」。道灌は、対戦相手の古河公方に対して「御陣」「御勢」という敬語を使っています。このようなことは、「太田道灌状」の随所に見られます。
戦う相手である敵の所業を敬語で語る道灌の心境は、現代の我々には理解しがたいものです。おそらくは当時、権威ある貴種に対する尊崇の思いは、その人の栄枯盛衰とかけ離れた別次元にあって、いかにしてもおかしがたいものであったに違いありません。そのことはまた、道灌の思想が極めて保守的であり、古き権威を否定する下剋上思想とは異なるものであったことを示しています。
1454年(享徳3年)、鎌倉公方の足利成氏は、関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱が勃発しました。室町幕府は成氏討伐を決め、今川範忠を上杉氏の援軍として差し向けました。翌年成氏は、鎌倉より古河(茨城県)へ逃亡し、下河辺氏の居城であった古河城を本拠地として小山氏、結城氏、宇都宮氏、千葉氏、那須氏、小田氏などを従えたので、古河公方と呼ばれるようになりました。以後約30年にわたり、古河公方の軍勢は長尾景春の援軍となって、両上杉氏の勢力とりわけ太田道灌軍と利根川の周辺で対立、抗争を続けました。
「鎌倉大草紙」に「(享徳4年6月)成氏は総州葛飾郡古河県こうのすと云う所に屋形を立つ」とあり、また「(長禄元年10月)河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあります。
古河城址は川越城から北東へ35キロの地、利根川の向うの渡良瀬河畔にあります。JR線池袋駅より、湘南新宿ライン或は埼京線、東北線で約1時間移動すると茨城県の古河へきます。駅から徒歩あるいは観光協会の「コガッツ」という面白い名前の無料貸し出し自転車で東へ500メートルも行くと、古河城の出城跡に建つ古河歴史博物館へきます。そこからさらに東へ行くと獅子崎土塁跡を経て渡良瀬川の堤防へきます。堤防の道を河川敷の眺望を楽しみながらぶらぶら歩くと、三国橋と新三国橋の間で「古河城本丸跡」の標柱に出会います。古河城本丸の名残りを伝えるものは、この一本の標柱だけです。まさに滄桑の変を語るとはこのことかと、人の営みの激しさと虚しさに心打たれます。
古河城址碑.JPG     
(古河城本丸跡)    
古河公方館跡.JPG
(古河公方館跡)
利根川や渡良瀬川近辺の城はどこも、川や水掘りを利用した水城でありました。古河公方時代の古河城の地図は残っていないものの、江戸時代の地図によると古河城は水城の典型で、渡良瀬川と湿地帯の間の半島状の高台に建てられていました。本丸、二の丸、三の丸、丸の内、観音寺曲輪などからなる相当広い城であったと思われます。渡良瀬川とその向うの利根川が防衛線となり、かつ交通、通商の手段となっていました。
新三国橋のあたりで堤防を降りて5分も歩くと、古河総合公園へきます。春には紅白の桃が咲き乱れる公園の中に御所池があり、その中の半島状のところに空掘りがあり、ちょっとした土塁の上に「古河公方館跡」の碑があります。足利成氏は、最初ここに住み、古河城完成後に城へ移動しました。古河公方は足利成氏後、政氏、高基、晴氏、義氏と五代130年間続き、古河は関東の政治、文化の中心地となりました。

古河公方と上杉氏は、ここから約50キロ西方の五十子(本庄市)で攻防を繰り返しました。それは、五十子のあたりが、唯一カ所の利根川の渡河可能地点であったからです。そこより下流では水が深くて徒(かち)わたりできず、上流では急流となり人も馬も流されたからです。1471年(文明3年)長尾景信,景春父子と太田資忠の軍勢7000余騎が五十子陣から出撃して古河城を攻略し、古河公方を総州の千葉孝胤のもとへ敗走させました。翌年古河公方の軍勢が、逆襲して五十子陣へ攻め込みました。太田道灌は1471年(文明3年)5月、妙義神社(東京都豊島区)で古河公方との戦の戦勝祈願をしたと伝えられているものの、彼自身が古河城まで攻め込んだ記録はありません。
古河総合公園.JPG
(古河総合公園の桃の花)
江戸時代には、土井氏など有力な譜代大名が入れ替わり古河城主を勤め、城下町としてまた日光街道の宿駅として栄えました。古河城は明治時代には廃城となり、さらに渡良瀬川の治水工事でその城域は、昔日の面影を完全に失い、長い堤防とただっ広い河川敷になりました。今もあいかわず吹き抜ける渡良瀬川原の風にあたって、昔日を偲ぶしかありません。古河市民は古河公方を公方様と呼び敬愛しています。足利成氏が古河公方となって555年経ったことを記念し、2011年(平成23年)3月に古河市で古河公方行列が行われる予定であったけれども、東日本大震災のために中止となりました。
古河公方館跡は茨城県指定文化財です。古河公方の子孫は、喜連川氏となり現代に続いています。
古河城本丸跡=茨城県古河市渡良瀬川堤防上
古河公方館跡=茨城県古河市鴻巣399―1古河 総合公園内
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posted by 道灌紀行 at 21:45| Comment(1) | 古河城址
この記事へのコメント
Posted by sqgjcevnyz at 2014年12月11日 11:05
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