東京から関越道または国道17号線を小一時間走ると熊谷市へいたり、さらに国道407号線を北上すると道の駅「めぬま」があります。この駅の名物は、世にも珍しい細長い稲荷寿司で、たいへん美味です。この駅の近くに、西城(にしじょう)という地名の田園地帯があり、その一角に、長井城址すなわち西城の「史跡・西城本丸跡」の碑があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。往時は、本丸の周囲は福川と沼で囲まれ、水城となっていたようです。碑文の最後は「そよ風に稲穂がゆれる西城跡」という「妻沼カルタ」の一句で結ばれています。
(田園の中の「西城本丸跡碑」)
「旧妻沼町史」に次のように記されています。「1478年(文明10年)7月17日、長尾景春は鉢形城を捨てて敗走、各地を転々とした後、長井城(西城)に移った。足利成氏に属していた関係から、(長井斎藤)利家は景春を迎え入れたが、1480年(文明12年)1月20日太田道灌に攻められて落城、かくして平安時代、横山覚所属の藤原道宗が築いた長井城も、幾多の変遷を経て廃城となった。」
「太田道灌状」にも、この間の込み入った経緯が記されています。とにかく長尾景春は、長井城で太田道灌に敗れてからは秩父へ移動し、秩父の景春与党を率いて最後の低抗をすることになりました。
現在西城は完全に区画整理された広大な耕作地なので、この碑を探すのに少々苦労します。私は、10分間ほど車で走りまわりましたが尋ねる人もいなかったので、勘を働かせて発見しました。慶安寺という寺の看板があるところから、約200メートル耕作地にはいり猿田彦大神という小社を見つけると、その近くに碑を発見できます。
(手鏡を見て墨で白髪を染める斎藤実盛)
国道407号線を利根川沿いまで北上すると、妻沼聖天山(めぬましょうてんざん)という古刹があり、その境内に、長井斎藤氏の先祖斎藤別当実盛の見事な銅像があります。平家物語にも登場する実盛は、白髪を墨で染めて73歳で出陣し、木曽義仲と勇敢に戦って果てたということです。
西城本丸跡之碑=埼玉県熊谷市西城
妻沼聖天山=埼玉県熊谷市妻沼1627
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