現在、箱根越えと言えば誰でも、あの有名な箱根駅伝のコースとなっている国道1号線を思い浮かべます。ところが実は、古代の箱根越えのメインルートは、金太郎伝説で有名な足柄峠越えルートでした。800年の富士山延暦噴火で御殿場側の道が不通となり、現在の箱根峠越えの道が開発されました。その後、足柄峠越えの道は復旧したものの今では脇街道となっています。太田道灌は生涯で二度、足柄峠越えをしたので、その足跡をたどります。
伊勢原市から車で国道246号線を西へ向かい、秦野市、大井町を経て255線に入り、さらに神奈川県道78号御殿場大井線へ入ります。この道が昔の足柄峠越えの道で、まっすぐ西へ向かうと標高759メートルの足柄峠へ着きます。もちろん途中は、急坂やピンカーブがたくさんある難路です。
(万葉足軽公園からの富士山)
(万葉歌碑)
峠の県境の神奈川県側には万葉足柄公園があり、樹間から急に大きな富士が見えるのであっと驚きます。万葉集の防人の歌の碑があり、碑にいう「足柄の御坂に立して袖ふらば 家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも」と。これは、出征する兵士の歌です。
(足柄峠の説明版)
標高759メートルの足柄峠の標柱には、この峠での主要史が年表状に記されています。文明八年(一四七六)の欄に「太田道灌今川氏の内紛につき氏親に合力せんと足柄を越える」と明記されています。
(足柄峠の標柱と主要史年表)
足柄峠の静岡県側には足柄城址があり、その城山に立てば、富士山の全容が視野いっぱいに迫ってきます。
(足柄城址の碑)
(城山の碑)
1465年(寛正6年)太田道灌は、足柄峠を通って上洛した可能性があります。そのとき道灌は、足利義政と会見して江戸城の事を問われ「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠みました。道灌は江戸城静勝軒の軒端に見える富士の遠景と、足軽峠から見えた富士の全容を比べて、感に堪えたことでありましょう。
『太田道灌状』には、次のように記されています。「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かい、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候」。
1476年(文明8年)6月太田道灌は、主命を受けて今川氏の跡目争いを解決するために、駿河へむかいました。道灌はその日、騎馬武者と足軽等約300人を率いて、早朝に相模国伊勢原の上杉氏守護所を発ち、第一日はこの足柄城で幕営したと思われます。一行は途中、難所で大いに汗を流したものの、峠から見えた富士の雄姿にしばし疲れを忘れたことでありましょう。
(足柄城址からの富士全容)
足柄城の築城者は、一説によれば太田家の盟友大森氏ですが、詳細は詳らかではありません。いずれにしても、伊勢原からここまで約35キロであるので、騎馬隊や健脚の足軽隊にとっては、難路を考慮しても一日の行程としてちょうどよい距離です。
翌日、道灌一行は峠を駆け下り、一気に駿河の八幡山城まで走ったと思われます。駿河で太田道灌は、伊勢新九郎(北条早雲)と談合し、今川家の嫡男竜王丸が成人するまでの間だけ、上杉家縁者今川範満が駿河守護職を代行する、という妥協案で一応の決着を見ました。
この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。また、御殿場へ下る峠道の途中に、富士眺望日本一を誇る「誓いの丘」があります。『強力伝』『芙蓉の人』『富士山頂』など富士にかかわる小説をたくさん書いた新田次郎の文学碑と誓いの鐘がそこにあります。
(日本一の富士眺望と誓いの鐘)
道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、伊豆の北条(伊豆の国市)へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告し、また足柄峠を越えて武蔵へ帰りました。道灌にとって、事前の段取り等をふくめて約七か月の骨折りでありました。
道灌の駿河遠征の最中に、武蔵では長尾景春の乱が勃発し、関八州は急を告げていました。道灌はこのあと、30数回の戦に突入していきます。
2020年03月13日
道灌の足柄越え・駿河遠征
posted by 道灌紀行 at 10:40| Comment(0)
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