2022年03月03日

太田資宗、江戸城静勝軒の道潅を偲ぶ

1. 太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻
東京メトロ丸の内線の本郷三丁目駅から案内板にしたがい、春日通りを5分も歩き真砂坂上で右折すると「文京ふるさと歴史館」が見えます。途中春日通りに、太田道灌ゆかりの櫻木神社があるので、帰り道に見ることができます。
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(文京ふるさと歴史館標示)
歴史館の入口をはいると、1,2階には常設展示があり、日本史の教科書にもでている文京区弥生町出土の弥生式土器が展示されています。地階に、太田道灌の江戸掛川系の子孫太田資宗(おおたすけむね)にかかわる特別展会場があります。
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(文京ふるさと歴史館入口)
さて、この歴史館地階で開催されている太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻(おおたびぼくこまごめべっそう、はっけいじっきょうしえまき)とは、詩巻と画巻からなる二巻の巻物です。江戸時代の大名太田資宗(1600〜1680)の駒込屋敷(現・千駄木1丁目)からの眺めを八景、そして屋敷内の見どころを十境としたものです。詩は儒学者・林鵞峯によって詠まれ、その子梅洞により墨書されました。詩文をもとに制作されたと思われる画巻は、絵師・狩野安信により画かれました。(撮影不可)
絵の中に富士山や筑波山がでてきます。資宗の祖先太田道灌の江戸城静勝軒の詩板にも、富士山や筑波山の山容が記されています。資宗は駒籠屋敷から富士や筑波の山容をみて、昔日の道灌の心情と労苦をしのんだのでありましょう。
全長約6メートル(詩巻)、11メートル(画巻)の全体が、太田家より当館に寄贈され、区の文化財に指定されました。今回はじめて、この詩画が完全公開されたので、このチャンスを逃すべきではないと思います。この特別展の開催期間は、2022年2月5日(土)〜3月21日(月)です。
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(図録の表紙、中央に富士の絵)

2.太田資宗の出世街道
太田資宗は、太田道灌より6代目の子孫で、1606年(慶長11)7歳のとき徳川家康に拝謁しました。資宗は10歳で、豊島郡蓮沼にて500石の太田家の家督を継ぎました。その後資宗は家康の側近となり、書院番頭、御小姓番頭、六人衆(松平信綱等とともに)などの要職を歴任、目を見張るスピードで昇進し加増され続けました。そして1635年(宝永12)には、下野群山川で15600石の大名に列せられ備中守となり、1638年(寛永15)には、35000石にて三河国幡豆群西尾に移封しました。
1643年(寛永20)資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として『寛永諸家系図伝』を完成しました。1644年(正保1)遠江浜松に35000石で移封、1680年(延宝8)81歳で没しました。そしてその子孫は、掛川藩50000石の城主となり、幕府の寺社奉行、老中などの要職につきました。
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(掛川城天守閣)
太田資宗のスピード出世は、彼自身の志と才覚によるとはいえその背後には、太田家再興を願う叔母のお勝さん(徳川家康の側室、英勝院)の強い思念とバックアップを私は感じます。そしてそれはまた、上杉家に生涯忠義をつくした挙句の果てに、非業の最期を遂げた太田道灌への、諸天善神の憐れみと加護であったというべきでしょう。

3.道灌有縁の櫻木神社
帰り道春日通りに、太田道灌勧請の櫻木神社があり、入口に紅白の梅が咲き、都会のど真ん中で春の訪れを告げています。
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(桜木神社の紅白梅)
境内に「縁起の略記」と称する碑があり、太田道灌に関する部分には次のように記されています。
「(前略)太田道灌が江戸築城の際、菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられしものを、その後湯島高台なる旧桜の馬場の地に神祠を建立して、その近隣の産土神として、仰がしめ櫻木神社と名付けられたといわれる。元禄三年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌建設するに当たり、更に現在地に遷座、即ち今を去る実に二百七十年前の事である(後略)櫻木神社氏子中」
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(縁起の略記)
この縁起を読んで私は「産土神(うぶすなかみ)」の一説に注目しました。道灌は、江戸城に天神を勧請したが、それが城外に勧請されて、産土神すなわちその土地の土着の守護神に変身したということです。
道灌有縁の神社は多数ありますが、産土神への変身はしばしば見られます。道灌の好みは、源氏ゆかりの八幡社や学問の神である天神社でしたが、民衆の好みに合わせて多くの土地の神や稲荷社も勧請(おそらく大多数は承認しただけ)したと伝えられています。
posted by 道灌紀行 at 10:59| Comment(0) | 二つの三芳野天神社と平河天満宮
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