今年7月22日、23日、越生まつりがおこなわれ、町の慈光寺道(中つ道の支道)で、昔ながらの6台の山車(だし)の曳き回しがおこなわれました。
越生町で太田道灌の大河ドラマ実現を推進しているT氏から「越生まつりで道灌の法被(はっぴ)を着た男たちが仲町の山車を曳いてる。しかし道灌の人形はいない」とメールがあったので、急いで越生へ行きました。
まだ夕日が高いころから、あちこちで2台の山車が出っくわし、笛や鉦(かね)、太鼓のお囃子で対抗するのはたいへん面白い見ものでした。越生では、相手の山車のお囃子のリズムに引き込まれた方が、負けなんだそうです。
(仲町の山車)
(本町の山車のひょっとこおどり)
仲町の山車は、昭和29年に、東京神田の「だし鉄」と越生町上野の棟梁長谷竹松が共同で制作した、江戸型の山車で唐破風屋根の囃子台、回り舞台を備えています。
仲町の山車の上に道灌はいないものの、綱を引く男たちは確かに道灌の法被を着て、女性たちは道灌の法被を腰に巻いています。
(仲町の道灌法被をきた男)
私は、何人かの男たちに、道灌法被のいわれを尋ねてみましたが「よくわからない」ということでした。地元の物知り長老に会って尋ねてみると「町内の話し合いでは、当初、山車の上に道灌の人形をのせる予定であったものの、諸般の事情で道灌はのらないことになったので、法被だけ着ています」とのことでありました。
上町の山車には、豊島左衛門の尉経泰がのってます。豊島経泰は、太田道灌が江古田が原で戦った相手豊島泰経とは字の順序がちがいます。
(新しい太田道灌のうちわ)
新しい、太田道灌図柄のうちわも販売されていました。
そして夕闇が迫ってくるころ、山車は駅前の太田道灌の銅像の前に結集し始めました。その頃にわかに黒雲が現れましたが、文武両道の太田道灌銅像はライトアップされて、面白い雰囲気を醸し出していました。
(新しい旗にかこまれた、道灌銅像)
私は、いつか仲町の山車に、太田道灌の人形がのることを想像しながら帰途につきました。
2023年08月23日
越生まつり・道灌の法被を着た男たち
posted by 道灌紀行 at 18:38| Comment(0)
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