2010年12月23日

再び調布へ・深大寺城の連郭式縄張り

調布市郷土博物館で何気なく手に入れた「調布の文化財第42号」と云う冊子に、少々気になることが書いてありました。それは、(深大寺城は)「三つ郭が直線状に配置された連郭式縄張りの中世城郭です」という一節で、それだけならば江戸城の「道灌がかり」の説明にもなります。この城が太田道灌の主君筋にあたる扇谷上杉氏が道灌没後約50年頃に、後北条氏から江戸城奪還のための前進基地として築城したということを知ると、益々気になってきます。しかも都心近郊にありながら、城の遺構が良好な状態で残っているということですから、行って見ることにしました。
国道20号線を調布市で北へ曲がり武蔵境通りへ入るとすぐに、有名な観光地である深大寺のそば屋通りにきます。通りの外れに都立神代植物公園水生植物園があり、その中の高台が深大寺城址です。水生植物が茂っている沼沢地の端の約10メートルの崖の上が第一郭で土塁に囲まれています。第一郭と第二郭の間の空掘りは、平地に掘ったもので幅約8メートルあって土橋がかかっています。第二郭は芝生広場となって堀と土塁で囲まれ、虎口が三カ所と馬出しが一カ所あります。第三郭はほとんど住宅地になっています。
 
深大寺城址碑.JPG
(第一郭の深大寺城址碑)
土塁と空掘.JPG
(第二郭の土塁と空掘)
1486年(文明18年)太田道灌が上杉定正に謀殺されると後北条氏が勢いを増し、扇谷上杉方の江戸城を奪いました。定正から四代目の上杉朝定が1537年(天文6年)、江戸城を奪還しようとして深大寺城を築きました。深大寺城は、天嶮に拠る江戸城に比べるとはるかに小振りではあるけれども、舌状台地の平地を空掘りと土塁により三つの郭に区切った縄張りは、城郭研究家の西ヶ谷恭弘氏が描いた道灌の江戸城想像図と似たところがあります。江戸城にこだわる朝定は、江戸城の「道灌がかり」をまねて深大寺城の縄張りをしたと思われます。
深大寺城縄張り図.JPG    
(深大寺城縄張り図)
1537年(天文6年)の7月、北条氏綱は深大寺城を無視して素通りし、上杉朝定が籠る川越城を攻略しました。かくて深大寺城はその役目をはたさないまま廃城となりました。結果的には、扇谷上杉氏は全く役立たない城を、大々的に築城したことになりました。道灌没後、気の利いた家臣や優秀な軍師は扇谷上杉氏を去り、トンチン漢な鈍物が幅を利かしていたからそういうことになったのでしょう。今日で云えば、無駄な函モノ行政で市民の税金を浪費したようなことです。
しかし今では、この城址は国の史跡に指定されて都民の憩いの場となっているので、扇谷朝定の怪我の功名というべきであります。それにしても、城址のどこにもこの城の歴史的いわく因縁が記されている説明板などがないのは、しかたのないことです。
深大寺城址=東京都調布市深大寺元町二丁目
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