2011年02月02日

雉岡城址・児玉の陣と群書類従

JR八高線の児玉駅から西へ500メートルも歩くと、雉岡城(きじがおかじょう)=八幡山城(はちまんやまじょう)址へきます。関越道の本庄児玉で下り、約15分走ってもきます。この城は15世紀に築かれた平山城で当初、山内上杉家の本拠地であったけれども、手狭であったので山内氏は平井城(藤岡市)へ移り、城代として夏目(有田)氏をおきました。
「太田道灌状」には、「(文明12年)正月四日、景春児玉へ蜂起せしめ候の間、(道灌は)同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相集め(中略)その後景春を飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候所、(景春は)其の儘秩父へ退散せしめ候」と記されています。
雉岡城址.JPG    
(雉岡城址入口) 
土塁と堀.JPG      
(水堀と土塁)
このとき、長尾景春が蜂起した児玉の陣とは、どこを指すか明確ではないものの、前島康彦氏によると、それは雉岡城かもしれないということです。この辺りは、鎌倉街道の上道と上杉道が分岐する交通の要衝にある小丘陵でした。景春が蜂起した日の2日後には、道灌軍が塚田(寄居町)へ進軍しました。上杉方は、景春が駐屯する荒川の向うの飯塚(寄居町)へ夜襲をかけようと打ち合わせをしていたところ、景春軍は素早く秩父へ退散しました。
その2週間後の1月20日、景春軍は越生を急襲して太田道真に押し返され、さらにその数日後、利根川沿いの長井城(熊谷市)へ移動しています。その動きの素早さと激しさを考えると、景春軍は騎馬隊であったとしか考えられません。長尾家の菩提寺双林寺(渋川市)に伝わる「双林寺本系図」には「伊玄入道(景春)従壮年有乗馬術頗得精妙」と記され、景春が優れた騎馬武者であったことを示しています。また秩父には昔から牧が多く、強盛な秩父駒を多く生み出していました。長尾景春は騎馬隊を率い、秩父の峠を越えて出撃したり撤退したりしていたのです。

塙保己一記念館入口、保己一座像.JPG 
(塙保己一記念館入口の保己一坐像)
城址の中に、この地に生まれた盲目の国学者塙保己一(はなわほきいち)の記念館があり、保己一が集大成した和綴じの「群書類従」666冊の複製等が展示してあります。寒い冬の日のせいか他に来訪者もなく、館長は私のために約30分も展示物と保己一について説明してくれました。保己一は、膨大な文献を弟子に読ませて全て暗記し、41年かけて1819年(文政2年)に「群書類従」として集大成しました。保己一の凄まじいばかりの記憶力と情熱と労苦に畏れかつ圧倒されて、私は深く頭を垂れて一言も発することができませんでした。
太田道灌が文明6年6月17日に江戸城で催した「武州江戸歌合せ」の作品も、保己一のおかげで「群書類従」に収録されました。私は早速、資料室で「群書類従」をひもときました。この本は、ちょっとした図書館であればどこにでもある本であるけれども、編者保己一の生地で読むと、その感慨もまたひとしおであります。
 海原や水まくたつの雲のなみはやくもかえす夕立の雨   道灌
 夏の日をよそにみやまのから衣たもとすずしき瀧の音かな 資忠
心敬判で、資常、資俊、資雄など太田家の面々も登場して、見事な歌を詠んでいます。太田道真、道灌はもちろん太田一族はみな、優れた歌人であったと思われます。
雉岡城は、その後北条氏邦の支配下となり、1590年(天正18年)には豊臣軍に攻略されました。徳川時代には松平清宗が入り、関が原合戦後には廃城となりました。現在は、城址の二の丸に本荘市立児玉中学校が、三の丸には埼玉県立児玉高等学校が建っています。雉岡城址は、埼玉県指定文化財です。
雉岡城址の近くに、保己一の生家(国指定史跡)が保存されています。
雉岡城(八幡山城)址・塙保己一記念館=埼玉県本庄市児玉八幡山446

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