2011年03月16日

道灌の「足軽戦法」考察


私は、去る2011年2月26日、「えど友」の企画により、江戸東京博物館で「太田道灌紀行」と題して90分のセミナーを行いました。その際述べた諸事のうち太田道灌の「足軽戦法(足軽軍法)」について、まとめてみます。
江戸城の「道灌がかり」や道灌の「足軽戦法」については軍事機密であるため、その実態が古書に記されていません。
「大田家記」には「道灌、平素、古今の緒家の兵書を読み、軍法の道においてよく塁の地を知る。故に世に軍法の師範と称す。その最も秘する所は、足軽の軍法なり。伝授する者少なし」と記されています。ここに記された足軽の軍法すなわち足軽戦法については、従来、伝統的な騎馬武者の一騎打ちに対して足軽による集団戦法とだけ説明され、その実態が不明でありました。今回、周辺の文書や私のフィールドワークによる情報により、その実態に迫ってみます。
鎌倉古道.JPG
(足軽隊が駆け抜けた鎌倉古道・毛呂山町)

1.太田道灌の兵力
○「双林寺本系図」
渋川市子持(旧長尾村)は白井長尾家の根拠地で、そこに長尾景仲が創建した双林寺という古刹があります。双林寺に伝わる長尾家の系図「双林寺本系図」の中の長尾景仲の項に次のような農民リクルートシステムが記されています。
(景仲は百姓を)「是より弓鑓に加ふ、是の如くの者少たりとも戦場に於いて三度迄志を顕す者には、あるいは言葉の褒美を出し、あるいは禄を充て本給と号す、故に民は戦場に趣く事を悦び、是に因り武功の者多く民より見出し物頭になす」
当時、長尾景仲と太田道真は関東無双の案者(知恵者)と呼ばれ、両上杉家の家宰として重きをなし、景仲の娘が道灌の妻ともいわれています。したがって「双林寺本系図」に記されている農民リクルートシステムについては、太田道真、道灌も熟知していたと思われます。のみならず道灌は、太田家の騎馬の不足を補うため、このようなリクルートシステムをより積極的に活用して足軽隊を編成したに違いありません。
○「梅花無尽蔵」
道灌の詩友万里集九が残した漢詩文集「梅花無尽蔵」は、歴史的にも地理的にも資料的価値が高いと評価されていますが、その中で万里は兵の訓練をする道灌について、「毎日幕下の士数百人を駆りその弓手(ゆんで)を試む。上中下に分つ(中略)その令甚だ厳なり」と記しました。毎朝、足軽が江戸城で射術の厳しい訓練を受けました。怠るものからは罰金三百斤をとり、親睦会のときの茶菓費としました。
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(道灌築城当時の雰囲気をつたえる江戸城乾濠)
○「大森氏頼書状」
大森氏頼は上杉家の同盟者で太田家と親しく、上杉家の兵力を知悉していたので、その書状につぎのように記しました。
「上杉の棟梁(上杉顕定)、しかる間諸家彼の旗本を守り、尊敬比類無く、御勢二十万騎と云う」「扇谷の御事は、僅かに百騎計り也」。
管領山内上杉家が20万騎を動員できたのに対して、扇谷上杉家は約100騎しか持っていなかったとは、両家の経済力の差は驚くほどでありました。扇谷上杉家またその家宰である太田家の騎馬の不足すなわち財政的劣勢を補うために、太田道灌は農民を足軽として取り立て、足軽戦法を考案したに違いありません。

2.長尾景春の兵力
○「双林寺本系図」
先の「双林寺本系図」には長尾景春について、「伊玄入道(景春)従壮年有乗馬術頗得精妙」とあり、長尾景春は優れた騎馬武者であったことがわかります。
○「松陰私語」
金山城(太田市)岩松家の陣僧であった松陰西堂は、道灌と会談したこともある優れた軍配者であり、その著書「松陰私語」は当時の歴史記録として資料的価値が高く評価されています。「松陰私語」には、「景春二千五百騎を率いて五十子陣を囲む」と記されています。
優れた騎馬武者であった景春は2500騎の軍勢を率い、疾風のように五十子陣を攻めました。その後も景春軍は、神出鬼没の素早さで道灌軍の前に現れては去り、また現れては消えました。その移動距離の長さと動きの速さから、景春の戦法は騎馬による山岳ゲリラ戦法とも称されるものでありました。景春の根拠地上野(群馬県)や秩父には山裾を利用した牧が多くあり、馬の生育がさかんでありました。

3.馬返しの策
○「太田道灌状」
太田道灌状をつぶさに読むと、「まねき出して」とか「馬を返して」という気になる表現が随所にあります。
1477年(文明9年)4月、太田資忠は勝原(坂戸市)の合戦で「凶徒を勝原にまねき出して合戦」し、矢野兵庫の軍勢を蹴散らしました。
1477年(文明9年)、江古田が原(中野区)の合戦について、「(道灌は)馬を返し、江古田原において合戦せしめ勝利を得候」とあります。武蔵の雌雄を決する合戦で、道灌軍は最初は逃走したけれども、江古田が原で突然Uターンして、豊島軍をせん滅しました。
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(江古田が原古戦場碑)
1477年4月、用土が原(寄居町)の合戦について、「用土原に至り御馬を返され、ご眼前において各々手をくだき、大軍を討ち滅ぼし」と記されています。
道灌軍は兵が少なく、城攻めでは難儀をしたので、戦はできるだけ野戦へ持ち込んだのです。その際、草原の中ほどに予め伏していた足軽隊が、おびき出された景春軍を攻撃し、鉢形城へ退却させました。
○「甲陽軍鑑」
後に記された「甲陽軍鑑」の中に、武田信玄の二十四将の一人であった足軽大将原美濃守が戦場で、長槍を持った足軽に対して「馬を突け、武者を突くべからず」と下知している場面があります。道灌の足軽戦法を取り入れたと思われる甲州武田軍の足軽隊は馬を突いて、落馬した武者を打ち取りました。
平原に隠れていた道灌軍の足軽隊は、騎馬隊の馬を突きあるいは射って、落馬した武者を打ち取り、敵軍を大混乱に陥れたと思われます。
○用土の古老の話と境根原の塚
JR八高線の用土駅近くの旧家の池田氏が、今は亡きかつての村の収入役から「後世に伝えよ」と言われて聞いた秘話を語ってくれました。
「かつて用土が原は草原で、江戸時代に開拓したとき、錆びた刀や馬の骨がたくさんでてきたので塚を作った」といことです。池田氏は、その場所に私を案内してくれ、地図に印をつけてくれました。その場所は、八高線と関越道が接近するあたりの相当広い範囲です。古老の話は、用土が原の合戦で道灌軍の足軽隊が、景春軍の騎馬隊の馬を多く倒したことの証言と思われます。
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(用土が原古戦場・推定) 
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(境根原古戦場の塚)
1478年(文明10年)千葉孝胤は猪鼻城(千葉市)を出て、国府台城(市川市)に入った道灌軍攻撃に向かいました。両軍は境根原(柏市)で遭遇し、激戦の末に千葉軍は臼井城(佐倉市)へ敗走しました。そのときのことは「太田道灌状」に「12月10日、下総境根原で合戦せしめ勝利を得、翌年臼井城へ向かって陣を寄せら得候」と簡潔に記されているだけです。しかし、地図上で見ると、境根原は不自然に迂回したコース上にあり、千葉軍は太田軍におびき出されたと思われます。境根原で千葉軍は太田軍に馬を返えされ、足軽隊の攻撃を受けて敗走したに違いありません。今日、境根原古戦場の塚は2基にまとめられて保存され、教育委員会が管理しています。この塚からは、多分馬の骨が出ると思います。
○「梅花無尽蔵」
先に取り上げた万里集九の「梅花無尽蔵」で「(道灌は)数百騎を率いて数万騎を凌ぐ」としるされています。周辺の土豪たちは、わずかな兵力(騎馬)で勝ち続ける道灌軍を見て、マジックを見ているような思いに取りつかれたに違いありません。
また、道灌没後の1488年(長享2年)、両上杉氏が菅谷原で戦ったことを、万里集九が「梅花無尽蔵」に記しています。その中で万里は「六月一八日、須賀谷にて両上杉の戦あり、死者七百余り、馬また数百疋、両家分かれて戦うもその雌雄を決せず」と記しているので、両上杉家は足軽戦法の馬を倒す戦術で戦ったものと思われます。
当時の足軽は、鎌倉街道を一日に約50キロは駆け抜けたと思われます。おおよその距離として、江戸城から岩槻城まで30キロ、川越城、佐倉城まで40キロ、越生、伊勢原まで50キロであったので、江戸城から関八州の中原まで道灌の足軽隊は1日で移動できたと思われます。
また道灌軍は5年間で30数回も出撃しているけれども、その出撃日時をしらべてみると、麦の収穫期を考慮してか8月、9月には、一度も出撃していません。従って道灌の足軽軍団は、完璧な兵農分離ではなく兵農両立の軍団でありました。
道灌が足軽戦法を編み出した背景には、扇谷上杉家と太田家の経済力の弱さがありました。太田道灌は、自軍の少ない騎馬を補うために、農民を取り立てて足軽軍団を訓練し、騎馬隊に立ち向かわざるを得なかったのです。道灌は、敵将の性格や心理を読み、巧みに敵軍を平原に誘き出し、伏せていた足軽隊に弓や槍で騎馬隊の馬を攻撃させ、落馬した武者を打ち取りました。
足軽戦法は、伝統的な馬上の一騎打ちから集団戦法への先駆けとなり、兵農両立への体制が進行しました。道灌は経済的劣弱という不利な条件を足軽軍法という有利な条件へ転換し、マジックをつかうようにして30数回の戦で勝ち続けたのでした。ゆえに万里集九は、道灌没後二七(ふたなのか)に捧げた祭文の中で「(道灌は)羽扇を揮って戦い」と称え、諸葛孔明に例えているのです。 
posted by otadoukan at 11:10| Comment(0) | 道灌の「足軽戦法」考察
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