2011年12月14日

上杉氏の逃亡・那波荘と宿阿内城等

1476年(文明8年)長尾景春は、山内上杉氏の家宰の人事に不満を持って五十子(いかっこ)を離れ、自らの根拠地白井(しろい)城(渋川市)で兵力をととのえ、鉢形城(寄居町)で主君上杉氏へ反旗を翻し、同年6月に五十子陣の上杉氏を脅かしました。翌年、すなわち1477年(文明9年)正月18日、景春は五十子の上杉陣を急襲し、長尾景春の乱がはじまりました。現在、全国的にはあまり知られていない本庄市の五十子は、上杉軍が古河公方と長年対峙しつづけたところであり、この場所から新たな台風ともいうべき長尾景春の乱がはじまったので、関東の混迷は一層複雑になりました。本庄市は地理的には関八州の中心地であり、当時関東では台風の目のような場所だったのです。
不意を突かれた上杉方は、利根川を渡って那波荘(なわのしょう)(伊勢崎市)すなわち那波城と今村城へ逃げました。那波荘に拠る国人領主那波氏は当時、利根川の東側にいたけれども上杉方に与していました。その後、山内上杉顕定は宿阿内(しゅこうち)城(前橋市)へ、扇谷上杉定正と太田道真は細井(前橋市)へそして越後上杉氏は白井城へ逃走しました。
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(那波城址・本丸跡の碑)
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(徳富蘇峰書の那波城址碑)
東京より国道17号線を北上して本庄市の五十子陣址を過ぎ、国道462号線で右折すると利根川に架かる坂東大橋を通ります。約千メートルの橋を渡り、県道18号線に入りやや行くと伊勢崎市堀口町へきます。伊勢崎市立名和幼稚園の近くの路傍に「那波城址・本丸跡」の碑があります。耕地整理のため城址の遺構は完全に消え、本丸跡の碑だけが残っています。「此処に城ありき」と碑文に記されています。また、この近くの伊勢埼市立名和小学校の校庭の東隅にも、徳富蘇峰の書による巨大な「那波城址」の石碑が立っています。那波城址は、五十子陣址から約5キロの地です。
さらに南西方向へ約2キロ行くと、稲荷町の水田地帯の民家の庭に、今村城址の碑があります。今村城址も、古墳を利用した那波氏の居城であった所であり、伊勢崎市指定史跡です。
景春軍の騎馬隊に恐れをなした上杉軍は、慌てふためいて渇水期の利根川を渡って一目散に逃げたのです。このことは、当初の景春軍がいかに強盛であったかを物語っています。当時、駿河から帰還して間もない太田道灌は江戸城にいました。道灌は、親類であった禅僧の統訓(とうくん)を景春のもとへ派遣し、上野の上杉定正と太田道真を追撃しないように要望し、景春に謝罪を勧めました。
「太田道灌状」にいわく、「翌年(文明九年)正月十八日、東上野へ御陣を開かれ候。其の刻も道灌、景春処へ、親類の統訓蔵主並びに卜厳を越し置き、既に屋形と老父御一所候の上は、何方へ御陣を移され候と雖も、障り申すべからざる旨様々申し候の間、襲い奉らざるに依り、御無為に利根川を御渡り越し、河内へ御移り候」と。「松陰私語」には、「越後陣は白井に陣張り、山内は阿内に陣張り、川越(扇谷)は細井口に陣張り」と記されています。 
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(今村城址碑・今は民家の庭) 
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(宿阿内城址・女体神社)
このときの取り合いは、長尾景春、上杉氏、太田道灌それぞれにとって、重大な意味のある緒戦でした。もしこのとき、道灌のとりなしがなければ、景春軍は利根川を越えて上杉氏を深追いし、つぎつぎと打ち滅ぼしていったに違いありません。このときの、関八州を俯瞰すると確かに、上杉方は、古河公方の勢力と景春与党に挟まれて、その命脈は風前のともしびといった状況でした。景春軍は、破竹の勢いではあったものの、それは不満勢力の爆発であったので、上杉氏を滅ぼして戦国大名を指向するような中長期的な視野は持っていなかったようです。
その後各地の景春与党が蜂起するや、道灌は電光石火の速攻で景春与党を次々と各個撃破し、形勢を逆転していったのです。上杉氏は、道灌の鬼人のような働きで危機を脱したのです。上杉定正がそのことを理解し、尾羽打ち枯らして利根川を渡って逃げた日の事を忘れなければ、伊勢原の糟屋館で道灌謀殺という不幸な出来事を起こさなかったはずです。しかし定正は事の重要性と道灌の尽力を理解できませんでした。それは名門の苦労知らずの世継ぎにはしばしば起ることです。この根源的な瑕疵(かし)により、のちに上杉家は滅亡することになります。
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(利根川の坂東大橋)
利根川の東岸を約10キロ遡ると畑の中に宿阿内城址・女体神社(前橋市)があり、さらに約10キロ北上し前橋市内へ入ると上細井町、下細井町があり、そのまた約10キロ北方に白井城址があります。
今、冬の日に、坂東大橋のたもとに立ってみると、だだっ広い利根の河原を上州名物のからっ風が吹き抜け、はるかに白雪をかぶった赤城の山々が連なって見えます。そして、かつてここで、あるときは攻め、あるときは逃げ、攻防を繰り返した男たちの雄叫びと叫喚が、風に乗ってかすかに聞こえてくるような気がします。
那波城本丸跡=群馬県伊勢崎市堀口町260
那波城址・名和小学校=群馬県伊勢崎市堀口町502
今村城址=群馬県伊勢崎市稲荷町772
宿阿内城址・女体神社=群馬県前橋市亀里町1138-4
細井=群馬県前橋市上細井町・下細井町
白井城址=群馬県渋川市白井2318-1
この記事へのコメント
上杉氏の逃亡・那波荘と宿阿内城等: 道灌紀行は限りなく
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Posted by fkirsbsdk at 2014年12月11日 09:52
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Posted by ニューバランス 2040 東京取扱 at 2014年12月13日 11:07
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