2013年05月15日

秩父の「高佐須」と「高指」考察

1.夜討沢双龍の巖
「太田道灌状」の冒頭の段には、「秩父高佐須」という言葉が登場します。「高佐須」とは「高指」と同義で、高みを目指して築きあげていく段々畑の意味と思われます。柳田国男の「地名の研究」によると、「サス」とは関東山間の焼き畑・切り替え畑を言い表す言葉だそうです。「秩父高佐須」が、具体的に秩父のどこをさしているのかについては、諸説があるけれども、多くの郷土史家は、高佐須とは塩沢城をさすと言っています。今回は、「秩父高佐須」の考察を深めるため、「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに、埼玉県小鹿野町(おがのまち)小森の高指(たかざす)を踏査しました。
私たちは日曜日の朝9時に、小鹿野町の道の駅「両神温泉薬師の湯」の前に結集し、小森へ向かいました。初夏の青空と山並は涙が出るほど美しく、山藤がいたるところで満開でした。車で10分も走ると、景春伝説の地夜討沢(ようちざわ)にきます。
夜討沢双頭の巌.JPG        
(夜討沢双龍の巌・二つの岩の間が夜討沢) 
説明板.JPG
(説明板)
沢の入り口に、最近作られた説明板にいわく、
「夜討沢(ようちざわ)双龍(そうりゅう)の巌(いわ) 正二書
室町時代の1476年、関東管領山内上杉家の重臣である長尾景春は、古河公方を後ろ盾として主家へ反逆します。
やがて太田道灌に追い詰められ、この地の山城塩沢城に籠城し抵抗しますが、ある夜、道灌の命で夜討ちが行われ、この沢は戦いの場となりました。景春らは夜陰にまぎれてどこかへ消え去ります。
夜討沢の呼び名は、その史実がもとになっています
この沢の周辺は繁茂した樹木に覆われ、その全容は久しく幻のものとなっていました。
このほど、それを復活させたいという機運がたかまり、小森川右岸の地主の今井正二様、両神興行株式会社様、左岸の地主今井栄之助様等の理解善意により樹木の伐採が行われ、迫力ある景観が戻りました。
そそり立つ巨岩には、その勇姿と往古の伝承から『夜討沢双龍の巌』という名が付けられました。」と。
今、この夜討沢を直登することは無理なので、私たちは付近の民家の横から、昔の山道を登りました。昔は、峠を越える馬も通っていたという立派な道であったけれども、今では途中から道は崩壊して消えていました。私たちは、地元の案内人にしたがい、急斜面をトラバースして登りました。秩父の山の斜面は、“半端な”角度ではありません。私は、秩父の友からもらった南天の木の杖をピッケルのように使いながら、ようやく登りきりました。

2.高指の壮大な段々畑遺構 
途中のゆるやかな斜面は杉林で覆われているけれども、ふと気がつくと、石垣で土どめをした大小の平場が次々と目につきました。
急斜面の段々畑.JPG      
(急斜面の段々畑) 
段々畑.JPG
(石垣で土どめをした畑の遺構)
057.JPG
(斜面の出小屋跡)
私は最初、山城の段郭かと思って興奮したけれども、秩父の郷土史家の説明では、これらは要するに、高指(たかざす)すなわち高みを目指して登りつづけた、南側の斜面の段々畑の跡だそうです。灌漑用の井戸跡や崩れかけた出小屋もあります。
中腹の肩状のところに廃屋が一軒ありました。実は、今日の一行の中に、この家の縁者の方が、特別参加していました。縁者の方の話では、かつてこの家の子供たちは、毎日この山道を通り学校へ通っていたそうです。近年になっても電気がこないので、この家の住人はついに山を下りたそうです。
そこから少々登ると、「あっ」と驚くような立派な平場が数段つづきます。そこにはかつて、7所帯の家族が住んでいたので、今も周りに孟宗竹やお茶の木が生え、石臼などの道具とともに人の気配を残しています。
廃屋.JPG         
(山中の廃屋)   
052.JPG
(住居跡の平場)
これらの平場を越えて尾根を行くと、塩沢城址へ出ます。私は、ここ高指の段々畑や住居跡の平場を見て、すっかり考え込んでしまいました。なぜならば、高指の段々畑や平場が、高佐須すなわち塩沢城址の段郭とあまりにも感じが似ているからです。

3.高佐須・塩沢城のルーツ
塩沢城のルーツについては、郷土史家の間でも種々の見解が交わされているけれども、私自身は、高指の段々畑を見たあと、次のように考えて自分を納得させました。
高佐須・塩沢城もここ高指も、往古より人が住みつき、何代もかけて築きあげた、焼き畑農業の段々畑でありました。文明の頃、太田道灌に追われた長尾景春は、高佐須すなわち塩沢の段々畑を土地の者から譲り受けあるいは奪い、砦として楯籠もりました。その段々畑は、すぐに砦に転用できるような格好の地形であったからです。
一方道灌は、1480年(文明12年)土地の者に案内させ、意表をつく方角すなわち小森の夜討沢から高指を通って尾根をわたり、夜中に高佐須・塩沢城を攻めました。道灌の城攻めはいつもどこででも、城方の意表をつく孫子の戦術でした。塩沢城の発掘調査で、錆びた刀の切れ端などが出てきたということであるから、景春軍が、高佐須・塩沢城に短期間籠城し、道灌軍が夜討沢から攻めたことは、事実であるような気がします。
塩沢城址平場.JPG
(塩沢城址の平場) 
道灌軍に情報提供をした大串弥七郎については、「太田道灌状」(1480年)原注に、「武州七党ノ中横山党なり」とあるけれども詳細はわかりません。「新編武蔵風土記稿」(1830年)の小森村の項に「往昔、長尾四郎左衛門意玄入道薄村塩沢の城に籠りたるを此処にありし嶋村近江守及び小沢左近なるもの大谷沢より攻登りて夜討し意玄は遂に日野村なる熊倉城へ立退きしことを土人云伝えり」とあります。夜討沢の道案内者島村近江や小沢左近などについても、今後の研究課題です。
「太田道灌状」の中で道灌は城や陣地を、川越城、五十子御陣、羽生陣、鉢形要害、日野要害などと表現しています。道灌はおそらく、塩沢城がまだ城や陣地というよりは、高みを目指す段々畑の原形をとどめていることを知っていたので、「高佐須(高指)」という地形をあらわす普通名詞で呼んだと思われます。

小鹿野町高指の段々畑遺構は、道灌軍の高佐須攻めの通過ルートであった可能性があるので、歴史学的にも民俗学的にも貴重な所です。私は、ここを史跡として保存整備するべきであると思います。そこから塩沢城址への踏査はまたの日に行うことにして、私たちは、薬師の湯にもどり温泉で汗を流し、秩父名物のそばと味噌田楽を食し、帰途につきました。
高指の段々畑遺構=埼玉県小鹿野町両神小森 
この記事へのコメント
秩父の「高佐須」と「高指」考察: 道灌紀行は限りなく
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