2011年06月23日

小山田城址・多摩の古城址

小田急線の唐木田駅から南へすこし行き、大妻女子大学と清掃工場の間の道路を下り2キロも行くと曹洞宗の補陀山大泉寺という古刹へきます。その境内と裏山が小山田城址です。周囲が小高い丘陵で複雑に十重二十重と囲まれているので、往時は相当の要害であったと思われます。今もここへくるときは、ナビゲーターがなければかならず迷います。
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(小山田城址遠望)
大泉寺の本堂の横に、小山田一族の故事来歴を記した石碑があります。それによると、1171年(承安元年)この地に桓武平氏の流れをくむ国人領主小山田有重が居城を構えました。小山田家は一度没落したけれども、1333年(元弘3年)末裔の小山田高家が復活して多摩丘陵全域を支配し、その後扇谷上杉家の配下に入りました。1477年(文明9年)太田道灌の軍勢が小沢城(こさわじょう)(愛川町)を攻めたとき、長尾景春の腹心吉里宮内(よしさとくない)の軍勢は、小沢城の後詰めとして府中に陣をとり、小山田城の扇谷上杉家の守備兵を追い散らし、道灌の心胆を寒からしめました。小山田城から小沢城まで約12キロであったので、道灌軍は吉里軍に背後を脅かされ、小沢城攻略のために1カ月も難儀をしました。後詰めとは、攻城軍の背後を脅かすため布陣することで、現代でいう集団的自衛権行使のようなことでした。後詰めを絶って本陣を攻めるのが、攻城側戦略の定石でありました。太田道灌状に曰く「吉里以下小沢陣の後詰めとして当国府中に陣を取り、小山田を相散らし、相州難儀に及び候」と。
同じころ、道灌軍の一部は宿阿内城(前橋市)の顕定のもとへ派遣し、本隊は石神井城を攻め、道灌の弟資忠軍は川越城から出撃して勝原で矢野兵庫の軍勢と戦いました。太田家に江戸城を守る兵はいなくなったので、盟友の三浦介義同などが江戸城守備のため呼ばれていました。長尾景春の乱の勃発当初、破竹の勢いの景春軍に与同する国人衆は多く、道灌軍はまさに腹背に敵をかかえる恐怖の中で勝ちつづけました。その渦中での小山田城の攻防は、両勢力のつば競り合いを象徴するような取り合いでありました。
「太田道灌状」を読むと、太田道灌が同時多発的な危機に対して、各地と連携を密にとり迅速かつ適切に手をうつ能力をもっていたことがわかります。もちろんそれは、各地の部下と盟友が道灌を信頼し、道灌もまた彼らを信頼していたことが基礎にあります。この道灌の人間力が、上杉方劣勢の潮目を優勢に転換していった原動力でした。
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(小山田城址・大泉寺境内)

多摩ニュータウンに囲まれたこのあたりは、今、小山田風致地区として整備され、小鳥の声がたえず聞こえ、市民のウォーキングの場所となっています。
小山田城址・小山田要害址(大泉寺)=東京都町田市下小山田332
posted by otadoukan at 11:20| Comment(5) | 小山田城址・多摩の古城址