2011年07月20日

地形肝要・鉢形城の合戦

JR八高線、東武東上線、秩父鉄道の寄居駅から徒歩10分で、荒川にかかる正喜橋に着きます。この橋の歩道に立って上流を見ると、河床の岩塊とともに、すぐ左側に垂直の絶壁が見えます。万里集九が「鉢形の城壁、鳥も窺い(うかがい)がたし」(梅花無尽蔵)と記したその断崖の上が鉢形城の本丸跡です。荒川とこの川に注ぐ深沢川が鉢形城をはさんでいます。深沢川もその名のとおり、深く切りこんだ谷となって四十八釜といわれる淵を連ねています。二つの川が、三角形の広大な城域の二辺を形成して崖城をつくっています。この地は鎌倉古道と秩父往還が通り、上州や信濃へ通ずる交通の要衝であり、山内上杉家の平井城(藤岡市)と扇谷上杉家の川越城の中間の位置でもありました。鉢形城は1476年(文明8年)、長尾景春が築城したと伝えられています 
      
道灌軍は、相模の景春与党を一掃したその翌月すなわち1478年(文明10年)7月に、上杉定正を迎えるため川越城を発って井草(川島町)、青鳥城(おおどりじょう)(東松山市)を経て、鉢形と成田の間に陣張しました。そのとき足利成氏の側近簗田持助が来て、景春が成氏の古河城帰還を妨げている、と苦情を述べました。そこで7月18日、道灌軍は鉢形城を攻めたので景春軍は逃走し、成氏は無事に古河城へ帰還しました。このときの鉢形城合戦について、道灌は「景春陣に馳せ向かい候処、退散せしめ候」(太田道灌状)と簡単に述べているだけです。おそらくこの頃、大方の景春与党は道灌軍に敗退し、景春の本隊も相当弱体化していたと思われます。
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(荒川から鉢形城本丸を望む)
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(鉢形城の曲輪配置模型)

川越市より国道254線を北上すると川島町に伊草という所があり、さらに北上すると東松山市の石橋という所に青鳥城址があり、約500メートルの土塁・空掘り跡があります。二の丸土塁には、折邪(おりひずみ)というクランク状に曲がった珍しい土塁があります。この城は、平安末期に築かれたようで道灌の時代の城主はわかりません。
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(青鳥城址二の丸の折邪)

鉢形城の落城後道灌は、地形肝要の原則から、管領上杉顕定が上野と武蔵に睨みを利かすためには、上野北端の平井城を去って、荒川の崖の上の堅城鉢形城へ入城するべきである、と主張して実現し、そのことにより上野、武蔵が安泰となりました。道灌は「「武上の両国を相兼ねたる地形肝要の由申候(中略)両国安全に御拘え候事、道灌の功に候に非ざらんや」(太田道灌状)と述べています。
「太田道灌状」には、切所(難所)という言葉が度々出てきます。野戦における道灌の戦略は、敵軍を切所へおびきだす作戦であったと思われます。上州の合戦では、利根川沿いで古河公方の軍勢と対峙しながら、道灌は自軍の陣地をたびたび移動して変えるなど、道灌の作戦は常に地形と一体になっていました。地形肝要とは、道灌の戦略の根本方針であり、道灌は築城に於いても野戦においても地形と地相を最優先条件としました。
鉢形城は、日本百名城の一つとして国の指定史跡となっています。
青鳥城址は、埼玉県指定史跡です。 
鉢形城址=埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496‐2
青鳥城址=埼玉県東松山市大字石橋城山

posted by otadoukan at 18:03| Comment(15) | 地形肝要・鉢形城の合戦