2011年08月09日

駿河・伊豆の太田道灌

JR線静岡駅北口からバスで7分、徒歩でも15分ほどで八幡(やはた)2丁目の交差点へきます。そこに立ち四囲を見ると、樹木におおわれた小高い丘すなわち八幡山城址に気づきます。市街のど真ん中にある約64メートルの城山なので、登り口はたくさんあります。登って見ると城山の傾斜がきつく、この城は崖城であることがわかります。
二ノ曲輪址に「八幡山城」の石碑と静岡県の説明板があり、それに「文明八年(一四七八年)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は、今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍で一応の決着を見た」と記されています。30メートルほど離れた本曲輪址からは展望がひらけて市街を見わたすことができ、好天のときは富士山や駿河湾も見えます。おそらく道灌軍布陣のとき、二つの曲輪の間に深く広い空堀をつくり、道灌がかりとしたと思われるけれども、今は堀が埋まっています。
           
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(八幡山城址碑) 
八幡城址登り道.JPG  
(城山の登り道)
1476年(文明8年)駿河守護今川義忠が戦死し、6歳の嫡男竜王丸の一派と義忠の従兄弟今川新五郎範満の一派が跡目争いを起こしました。範満の母の実家が扇谷上杉氏であり、烏帽子親(元服名をつける仮親)が堀越公方足利政知であったので、上杉氏は太田道灌を駿河へ派遣して問題の解決を図りました。駿河で竜王丸の伯父伊勢新九郎と太田道灌が談合し、竜王丸が成人するまでの間だけ範満が駿河守護職を代行するという妥協案で一応の決着を見ました。この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。
「太田道灌状」には、次のように記されています。
「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かひ、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候。其の意諏は、他国に罷り立ち既に十カ月に及ぶ難儀に取り合候処、忠景の一度の音信に預からず候。若干の公私のご無為を成し奉り、親疎を論ぜず粉骨を励まし候処、幾程もなく思い忘れ此くの如く候の間、且つは恨み入り且つは陣労も候間、かたがたの儀を以って差し籠り候」
道灌はおそらく手勢2,3百騎を連れて駿河へ向かい、半年間も兵を八幡山に駐屯させて今川家の駿河舘で度々伊勢新九郎等と交渉しました。したたかでしぶとい新九郎相手に相当骨の折れる交渉でありました。しかし両上杉氏は、内弁慶で外交交渉のむずかしさをしらなかったので道灌の苦労を理解できず、道灌の報告に対してなんの音信もしなかったのでした。道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、豆州北条へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告しました。道灌にとって、前後の段取り等をふくめて約8か月の難儀でありました。
八幡山城はその後、1569年(永禄12年)武田信玄が攻略し、江戸時代には廃城となりました。
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(伝・太田道灌築造嵯峨流名園)
ところで、静岡市には太田道灌にかかわる史跡がもう一カ所伝えられています。JR静岡駅北口よりバスで北へ向かい、駿府公園を過ぎたあたりの赤鳥居というバス停で下車します。そこから浅間神社を巻いて進むと東雲神社という小さな社があり、そのとなりに庭園があり、芝生に「太田道灌築造嵯峨流名園」と彫られた石碑が立っています。池と石を配したすばらしい庭園であるけれども、現在は静岡鉄道株式会社の所有となり、一般には公開されていません。ここに今川氏ゆかりの邸があり、道灌はそこに滞在中、庭園の築造を指し図したという伝承があります。この名園のいわれについて、静岡市教育委員会文化財保護課に尋ねてみると「太田道灌築造嵯峨流名園」は静岡市指定史跡のリストには載っていないということでありました。

JR東海道本線三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換えて修善寺方面へ向かうと、約20分で伊豆の国市の韮山へつきます。韮山駅から狩野川の方へ30分程歩くと、伝北条政子の産湯井戸や北条館跡など鎌倉北条氏発祥の地があり、その近くに「伝堀越御所跡」があります。現在、そこには伊豆の国市教育委員会の詳しい説明板があるけれども邸跡は野原になっています。
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(伝堀越公方館跡) 
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(伝北条政子産湯の井戸)
私がそこを訪れたとき、ちょうど伊豆の国市の職員が、史跡公園を造るため地面の測量をしているところで、むかし池があった位置などを説明してくれました。職員の話では、伊豆の国市には南条、中条という地名があるけれども北条という行政地名はなぜか現在なくなっていて、ここから北条館跡あたりは北条あるいは堀越と呼ばれていたと思われるということでした。太田道灌が駿河で交渉を終えてから、9月に訪問した豆州北条とは、この場所に違いありません。道灌は堀越御所で、今川範満の烏帽子親であった堀越公方足利政知に今川家の後継問題の一部始終を説明しました。足利政知は1457年(長禄元年)8代将軍足利義政より鎌倉公方として任命されました。しかし古河公方の圧力が強くて政知は箱根の山を越えて鎌倉へ入ることができずに伊豆に留まっていたのです。頼りない公方であったけれども、道灌は主命により政知と面談するため堀越すなわち豆州北条へ寄ったのです。
このあと道灌が、天城山を越えて伊豆の東海岸へ行き、熱川温泉を発見したという伝承があります。しかし、その少し前まで伊豆半島は流人の地ともなっていた僻地であったから、道灌が騎馬隊を率いて天城山を越えることは不可能に近かったと思われます。道灌が伊豆半島の東海岸へ行ったとすれば、それはやはり拙著「道灌紀行」で論じたごとく船で海岸沿いに行ったに違いありません。
道灌は上杉家より命ぜられた困難な任務を忠実に実行し終え、1476年(文明8年)10月に半年ぶりで関東へ戻りました。両上杉家からはなんのねぎらいもないので、陣労をいやすため道灌は、江戸城に引き籠ってしまいました。その間の上杉方の対応と道灌の心情は、「太田道灌状」の行間にあからさまに表われています。まもなく長尾景春とその与党の動きが活発になり、道灌は江戸城を出て関八州の戦野を駆け巡ることになります。
伝堀越御所跡は国指定の史跡です。
八幡山城址=静岡県静岡市駿河区八幡5丁目八幡山
太田道灌築造嵯峨流名園=静岡県静岡市葵区丸山町13
伝堀越公方邸跡=静岡県伊豆の国市四日町寺家

posted by otadoukan at 10:28| Comment(9) | 駿河・伊豆の太田道灌