2011年10月07日

我孫子市の根戸城址

千葉県我孫子(あびこ)市の手賀沼西端の近くの舌状台地に、太田道灌築城と伝えられる根戸(ねど)城址があります。この城址は、JR常磐線の北柏駅から北東へ約1キロの地点です。東京からは外環状線を東へ向かい、三郷西TCで降りて6号線(水戸街道)に入り、手賀沼西端で地元の人に尋ねるとわかります。この城址は個人の所有地であるので、案内板など一切ありません。
根戸城址遠望.JPG             
(根戸城址遠望)
手賀沼.JPG       
(手賀沼)
持ち主である日暮(ひぐらし)さんの許可を得て、庭を通って裏へ回るとすぐに城址の登り口です。城址には、空掘りと土塁で仕切られた主郭と二郭があり、東側に櫓台、西側に金塚古墳があります。連郭式の城域はたいへん良好に保存され、一目見て道灌くさい城だなあ、と思います。両郭ともテニスコートをつくれるくらいの広さがあり、空掘りは土塁のうえから幅、深さとも約8メートルあります。
「千葉県東葛飾郡誌」「日本城郭体系」などが記すところは、口碑によれば1478年(文明10年)太田道灌軍が境根原(柏市)で、千葉孝胤(のりたね)軍と激しい合戦を行ったとき、道灌が根戸城を築城したということです。根戸城址から境根原古戦場まで約5キロあります。根戸城に潜んでいた道灌の足軽隊が、追撃してきた千葉軍を境根原で待ち伏せし、足軽戦法で猛攻撃をしたと思われます。千葉軍は敗れて臼井城(佐倉市)へ遁走して籠城しました。今も境根原古戦場には大きな塚が2基あります。

「太田道灌状」には「関東御無為の儀候えば、以後に於いて小人等頸を出すべからず候間、旁々の儀を以って其の略を廻らし、十二月十日、下総境根原に於いて合戦せしめ勝利を得、翌年臼井へ向かって陣を寄せられ候」とあります。「其の略を廻らし」とは、境根原での足軽戦法であったと思われます。そうしなければ、少勢の道灌軍が総州の大軍である千葉軍には到底勝てません。道灌が布陣した国府台城(市川市)から見て、境根原が千葉城(千葉市)とも臼井城とも関係のない方角であるので、追撃する千葉軍が逃げる太田軍に境根原まで誘(おび)き寄せられたとしか考えられません。
本郭と土塁.JPG
(根戸城本郭と土塁) 
本郭と2郭の間の空掘り.JPG
(本郭と二郭の間の空掘り)
我孫子市教育委員会に聞いてみると、根戸城址は我孫子市の埋蔵文化財としては認定しているけれども、太田道灌関連史跡としては、確かな古文書や埋蔵物で証明されていないので認定していないということです。
舌状地の先端に連郭があって城下まで手賀沼が迫っていたとすると、この城は益々道灌流の縄張り(道灌がかり)ということになり、相当の要害であったと推測できます。そしてあの日、根戸城の木立に隠れていた道灌の足軽隊は、突然姿を現し、道灌橋をわたって疾風のように境根原へ向かって駆け抜けたに違いありません。

道灌軍が、根戸城に帯陣したという伝承は、緒状況から考えて、私には事実であると思われてしかたがありません。根戸城址は太田道灌伝承の地として、隣接している金塚古墳と合わせて史跡公園にする願望が市民の間にあります。
日暮家のおばあちゃんは「昔は城址のすぐ下まで手賀沼が伸びていて、うちの庭から魚釣りができました。沼のつづきに『道灌橋』と呼ばれる橋がかかっていたけれども、今は干拓と区画整理で橋もなくなって畑となりました。年寄りがいなくなったら、そういうこともわからなくなるでしょう」と語っていました。
かつて手賀沼の水をたたえていた城下は、今はいも堀り農園となっています。そこの紅あずまを掘らせていただいて帰り、食べるとたいへん美味でした。
根戸城址は、我孫子市の指定埋蔵文化財です。
根戸城址=千葉県我孫子市根戸荒追1341番外 
posted by otadoukan at 07:42| Comment(8) | 我孫子市の根戸城址