2011年10月20日

赤浜の川越岩・中世北武蔵のメインロード

埼玉県寄居町赤浜の荒川には往時、山王の渡しと川越岩(かわこしいわ)による徒(かち)渡りがありました。赤浜の対岸は深谷市の花園です。今では上流に花園橋、下流に関越道の荒川橋が見えます。水量の少ないときに岩礁をつたうこの個性的な渡河地点は、中世には鎌倉街道上道(かみつみち)につながり、太田道灌の足軽隊も長尾景春の騎馬隊も絶えず通りました。歴史的に意味深く地形的にもおもしろいこの場所は、今は忘れられている場所なので、今回敢えて紹介します。
014.JPG 
(普光寺の説明板)        
018.JPG
(山王坂、鎌倉街道の標柱)
関越道の嵐山(らんざん)ICで降り、国道296号線を北上し、花園橋の手前で埼玉県道81号線を東へ入り、少し行くと赤浜字塚田というところに天台宗の普光寺が見えます。普光寺の説明板に、山王の渡しと川越岩へのルート地図が記されているので助かります。この寺の東側にある農道が鎌倉古道です。まっすぐ荒川へ向かう古道は今、建物や雑木林で遮断されているので、少々西側を迂回すると山王坂にでます。荒川筋の道に出て東へ200メートルも行くと、川越岩が見えてきます。土手を降りて川原を歩くと川越岩へきます。川のこちら側と中ほどに巨大な獅子岩が鎮座し、その他の小振りの岩塊も点在しています。獅子岩をじっとみていると確かに獅子に見えてきます。獅子は獅子でもいのししに見えてくる岩もあります。獅子岩は水量を計る目安にもされ、水面が上がったときは川止めされました。今も、水量の多いときの河原は危険です。私が訪れたときは、獅子岩の中ほどまで泥が付着していたので、この川があばれたときの濁流の凄さを思い浮かべてぞっとしました。 
渡河地点2.JPG   
(川越岩と渡河地点) 
002.JPG
(濁流の泥が付着した獅子岩)
赤浜から鎌倉街道を南へ行くと、高見、苦林(にがはやし)、久米川、府中をへて鎌倉へ向かい、荒川を渡って北へ行くとすぐに秩父往還を横切り、用土、児玉、平井をへて上野(こうずけ)へ向かいます。したがって川越岩の渡しは、鎌倉街道上道と秩父往還熊谷通りの交差点の要衝でした。その意味で、赤浜の川越岩は中世北武蔵のメインロードでありました。
「新編武蔵風土記稿」に次のように記されています。
「赤浜村、村の東の方、小名塚田の辺に、鎌倉古街道の跡あり、村内を過ぎて荒川を渡り榛澤(はんざわ)郡に至る。今もその川筋荒川の中に、半左瀬・川越岩ととなふる処あり、(中略)川越岩は川の中にある岩なり、これもその頃の渡場にて、今も官の巡検使至る時は、ここに渡船を設くと云」。
普光寺の説明板によると、荒川の渡しを「山王の渡し」と称し、大沢半左衛門が関守をしていたので、「半左の渡し」とも称されました。この渡しの南側は、寄居町赤浜字塚田であり、川の向うのには深谷市武蔵野に飯塚という地名があります。
「太田道灌状」には、塚田と飯塚の地名が度々出てきます。1473年(文明5年)、太田道灌が五十子へ参陣する途中で小河に一泊しました。翌朝「飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候」とあるように、長尾景春は飯塚館から騎馬で赤浜を渡り、道灌へ反乱への加勢を頼みにきました。
1480年(文明12年)正月4日、長尾景春が児玉で蜂起しました。「(道灌は)同六日塚田へ罷り越し(中略)、その後景春飯塚陣へ夜懸け致すベく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。
川越し岩1.JPG    
(じっと見ると獅子に見える岩) 
川越し岩.JPG
(渇水時に露頭する岩礁)
道灌没後1494年(明応3年)10月、扇谷上杉定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と4度目の対戦をしました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれ、道灌を謀殺して8年後でした。このあたりの荒川を渇水時に見ると、河床一面が、ごつごつとした岩礁を敷き詰めたように見えます。増水したときに馬で渡る危険性を、大将に知らせる気のきいた部下も土地の者もいなくなっていたのでありましょう。当時の軍師は、奥秩父の変わりやすい天候と急峻な山肌を考え、荒川の暴れ具合を推測して作戦をたてなければならなかったのです。
この河原に立てば、道灌や景春がこの川の両岸を走り回ったことが、身近な出来事のように思えてきます。昔は、武士や旅人でにぎわった川越岩にも、今は人っ子ひとりなく、岩塊の上に黒鷺がとまって餌をねらっているだけです。川越岩のあたりは歴史的にも意味深く、おもしろい地形であるので、川辺の道端に説明板を設置するとちょっとした観光スポットになります。
普光寺=埼玉県大里郡寄居町赤浜字塚田620
赤浜の川越岩=埼玉県大里郡寄居町赤浜