2012年01月01日

中城址・仙覚律師旧跡

JR八高線あるいは東武東上線の小川駅から10分も歩くと、小川町立図書館へきます。この図書館は、木材を基調とした心和む造りで、館内は広く、構造にもいろいろな工夫がほどこされています。私は、畳敷きの和風の閲覧室をここではじめて拝見しました。この図書館の前から東の方を見ると、八幡山とよばれる小高い岡があります。そこが中城址・仙覚律師(せんがくりつし)旧跡です。
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(中城址入口標示)  
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(中城の本丸跡)
1475年(文明7年)、長尾景春は山内上杉家の家宰人事の不満から主君上杉顕定へ叛旗を翻し、五十子(いかっこ)陣(本庄市)への通路を封鎖して上杉軍を脅かしました。その頃景春は、道灌のもとへ数回遣いを出して反乱への加勢を頼みました。そしてさらに、道灌が五十子の上杉本陣へ参陣の途中で小河(小川町)に一泊したとき、翌朝早くに、景春自身が飯塚(深谷市)から馬をとばしてやってきて反乱への与同を頼みました。しかし、道灌はそれを拒否しました。景春が道灌に対して度々重大な反乱への加勢を頼んだことを考えると、二人はやはり親類であって、若年のころより互いに熟知していた間柄であったに違いありません。「太田道灌状」には、次のように記されています。
「先年五十子御難儀の刻、道灌参陣の時、景春数ヶ度便を越され無益の由申し候と雖も、押して罷り立ち、上田上野介在郷の地小河に一宿仕り候処、飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候。意趣は、御陣に於いて御屋形並びに典厩様洩らし奉らざる様計略最中に候、道灌参り候えば時儀相違す可き旨様々申し候の処、承引する能わず参陣致し、云々」
この一節を読めば、道灌が最初から、断固として景春を諫め、上杉家を厳護しようとしていたことがわかります。このとき道灌が一泊した小河とは、城郭史家の梅沢多久夫氏によると、埼玉県比企郡小川町の中城に該当するということです。中城は、小川町の比高18メートルの台地にある単郭の城で、二重土塁、屏風折り土塁、食い違い虎口などが良好に保存されています。発掘調査の結果、中城は15世紀後半の築城と考えられています。猿尾(ましう)四郎種直が城主であったと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。もし、太田道灌がここに一泊したとすると、そのときの城主は、道灌の盟友であった上田上野介ということになります。
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(土塁に立てられた万葉歌掲示)
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(空掘りと土塁)
中城址は、仙覚律師旧跡としてもよく整備されています。天台宗の僧であった仙覚律師は鎌倉時代の万葉学者でもあり、4500首あまりの万葉集を読み解いて、1269年(文永6年)「万葉集註訳」をつくりました。今日我々が、万葉集の万葉仮名を読んでその意味を理解できるのは、仙覚律師のおかげだそうです。仙覚律師は鎌倉の比企谷から蒙古来襲時の喧噪を逃れて、鎌倉街道上道沿いの小河へ来ました。彼がこの偉業を完成させた場所は、「比企北方痲師宇郷(ましうごう)政所(まんどころ)」と「万葉集註訳」の奥書に記されています。そして、摩師宇とは比企郡小川町増尾(ましう)の中城址と比定されました。最近では、増尾の長昌寺境内が摩師宇であるとされているけれども、中城址は仙覚律師有縁の地として城域に佐々木信綱撰文の記念碑が建立され、数十首の万葉歌が掲示されています。そしてこの山里に、おどろくほどの立派な図書館があるのは、仙覚律師が残した好学の遺風のしからしめるところであるのかな、と私は考えてしまいました。太田道灌も歌人であったから、中城で万葉集を思い出して一首を詠んだのかもしれません。
中城址・仙覚律師旧跡は埼玉県指定旧跡です。
中城址・仙覚律師旧跡=埼玉県比企郡小河町大字大塚字中城 
posted by otadoukan at 14:41| Comment(6) | 中城址・仙覚律師旧跡