2012年01月16日

都心・ビルの谷間、道灌有縁の二社

東京メトロ日比谷線の人形町駅から日本橋の方へ7分も歩くと、ビルの谷間に小さな稲荷社があります。常盤稲荷(ときわわいなり)神社です。赤い鳥居の左側に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当社は室町中期長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神のご分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城郭拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに当社が移された。
宝暦(1751年〜)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
  名に高き蘆のなぎさの葭原に
       鎮めまします常盤の神
の歌がしるされていたと伝えられる。(後略)」
この伝承によると、常盤橋の名前は太田道灌由来ということになります。その後、この神社は日本橋の魚市場内に移り、江戸時代には大いに繁盛したけれども、時代の変遷で今は、都心のビルの谷間にひっそりと潜んでいます。
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(常盤稲荷神社)
由緒.JPG  
(境内の由緒)
太田道灌は軍師でもあったので、当然陰陽道にも通じていて、石岡市の常陸国総社神社蔵の道灌遺愛の軍扇には十二支が記されています。陰陽道では、鬼門(北東)には悪鬼が集まり災難をもたらすとされます。したがって道灌は、江戸築城に際して、城の鬼門すなわち現在の神田、秋葉原のあたりに、江戸城鎮護ために盛んに社寺を勧請し、人々の江戸城への求心力を高めました。それらの社寺の多くは、徳川家康の江戸城拡張で移転し、さらに明暦の振袖火事や太平洋戦争空襲のため再度移転して方々へ分散しています。

常盤稲荷神社からさらに堀留町の方へ5分も歩くと、椙森(すぎのもり)神社があります。この神社もまた、ビルの谷間のちょっとした空間にあります。境内に、中央区教育委員会の説明板があり、次のように記されています。
「椙森神社の創建は、社殿によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。(後略)」
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(椙森神社)
教育委員会説明板.JPG
(教育委員会の説明板)

江戸城下の三森といわれた烏森神社(港区)、柳森神社(千代田区)、椙森神社の三社はいずれも稲荷社です。JR線秋葉原駅近くの柳森神社は、太田道灌が伏見稲荷を勧請して創建しました。JR線御茶ノ水駅近くにある太田姫稲荷神社は、太田道灌が娘の病気平癒を祈願した神社と伝えられています。昔の人は、稲荷の動物的な通力による病気平癒、商売繁盛や五穀豊穣を信じていたようです。今も椙森神社には、何やら願掛けにくる老若男女が絶えず、都会のど真ん中なのに、否それだからこそか、信心深い人が多いのに驚かされます。
椙森神社は中央区民文化財に登録されています。
常盤稲荷神社=東京都中央区日本橋本町1‐8
椙森神社=東京都中央区堀留町1‐10‐20