2012年03月15日

道灌の家臣の子孫を訪問(193か所目)

小田急線の伊勢原駅前から産業能率大学行きバスに乗ると、約10分で道灌塚というバス停にきます。そのバス停から10分ほど歩くと、上粕屋の曹洞宗番竜山洞昌院の入り口にある道灌の墓にきます。道灌が遭難した上杉館跡から徒歩で約10分です。
道灌が、糟屋の上杉館で遭難したとき、付き従っていた部下達もまた不意打ちをくらって果てたということです。その部下達の正確な人数も名前もわかりませんが、部下たちの供養塚が「七人塚」と呼ばれて上粕屋神社にありました。今は、洞昌院から徒歩3分の山王原公民館の隣に、その「七人塚」と説明板があります。公民館の筋向いの山口家は道灌の家臣の子孫で、先祖代々道灌とその家臣たちの墓を守って追善供養をつづけてきたということです。 
七人塚の碑.JPG       
(七人塚の碑) 
七人塚.JPG
(七人塚)
私は、この3月、春は名のみの晴れた風の寒い日に、道灌の家臣の子孫、山口義幸氏宅を訪ねました。家人は、道灌について一番よく知っていた先代の新太郎氏が先年亡くなってしまったのであまりわからなくなりました、といいながら、山口家の道灌伝承を次のように語ってくれました。
1486年(文明18年)糟屋の上杉館で、太田道灌が上杉定正のだまし討ちに会って非業の最期を遂げたとき、九人の家臣が道灌の首をもって洞昌院へ駆けこみました。上杉勢が道灌の首を取り返しに来たけれども、九人は断固として拒否し、そこで腹を切ろうとしました。そのとき、道灌遭難の一部始終を後世に伝えるために、二人の家臣は生き残ることになりました。その二人の家臣の一人の子孫が山口義幸氏であり、もう一人の家臣の子孫も山口氏です。両家とも「七人塚」の近くに住み、代々「七人塚」の墓守をしてきました。
「七人塚は」、往時、上粕屋神社の境内にあったけれども、発掘したところ六基は盗掘されて空だったので、一基のみ現在地に移し、山口新太郎氏が元気なころは正月に餅などを供えて供養していました。今は事情があって餅は供えていないけれども、山口家がなにくれとなく塚の世話をしています。道灌に仕えた山口家のご先祖の名前はわからないけれども、山口家の家紋は丸桔梗です。
 上粕屋神社.JPG  
(上粕屋神社)
一方「七人塚」の傍らに立つ、環境省・神奈川県の説明板には、次のように記されています。
江戸城築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした七人の墓で「七人塚」と伝えられています。その塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に並んでいましたが、明治の末に開墾するとき、一つ残された伴頭(ともかしら)のものといわれ、今でも「七人塚」と呼ばれています。 
山口家の道灌伝承と環境省・神奈川県の説明板の内容は、すこし違っているけれども、まあ歴史の真相というものは、大部分は確認できないものであるからやむを得ません。唯一つ明確なことは、道灌が「主君への謀反心」をもっていなかったことです。もし道灌に下剋上をする気があったならば、当時の彼の実力からいってそれも可能であり、糟屋館には大軍を率いて来たでありましょう。身に迫るリスクを承知の上で、わずか7人や9人の供まわりの者だけを引き連れてきたこと自体が、道灌の忠義心のあらわれでありました。

「七人塚」のとなりの山王原公会堂で、先頃、伊勢原観光ボランティア&ウオーク協会の方々が、太田道灌についての研修会を行いました。道灌有縁の場所であったので皆さんの熱意は大いに盛りあがりました。
洞昌院=神奈川県伊勢原市上粕屋1160
七人塚=神奈川県伊勢原市上粕屋1345
posted by otadoukan at 11:26| Comment(5) | 道灌の家臣の子孫を訪問