2012年04月01日

大庭城址・道灌の縄張り伝承(195か所目)

小田急江ノ島線に湘南台というしゃれた名前の駅があります。新宿から急行に乗って約1時間もかかるところなので、田舎の駅かと思いきや、びっくりするような立派な駅舎です。近くに慶応大学があるせいか、駅周辺も活気にあふれています。湘南台駅前から、大辻経由藤沢行きのバスに乗ると、約30分で城下(しろした)という停留場へきます。そこで降りると、目の前に大庭城址(おおばじょうし)の城山が見えます。この城山は高さ約30メートル、南北約800メートル、東西約250メートルで全域が大庭城址公園となっています。
大庭城址遠望.JPG     
(大庭城址遠望)  
大庭城址立体模型.JPG
(大庭城址立体模型)
城山の東に引地(ひきじ)川、西側に小糸川が流れ、二つの川は城山の南部で合流し、昔は湿地帯をつくっていました。したがって城山の三方は水で囲まれ、北側の台地は細い尾根となっていました。その尾根を、土塁と空堀で遮断していたので、大庭城は相当の要害でありました。城域は概ね、三本の空掘りで四つの廓に分けられ、南端部に堀立柱建物跡があり、そこが本丸であったと思われます。

平安時代の末期、この地域は大庭御厨(おおばみくりや)とよばれる伊勢神宮の荘園でありました。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ長尾一族であった鎌倉権五郎景政によって開拓され、伊勢神宮に寄進されました。景政の子孫はのちに大庭氏と改姓し、大庭景宗が大庭城を築城しました。大庭氏はのちに鎌倉幕府により討たれ、一時結城氏が大庭御厨を支配しました。1457年(長禄元年)扇谷上杉氏が大庭御厨を押領し、太田道灌が大庭城の本格的な築城を行ったと思われます。
建長寺の住持玉隠は「玉隠和尚語録」(1499年)の中の上杉持朝の子孫について触れた項で「一人大庭堅其、大庭氏館、此去不遠」と記しています。つまり、上杉氏の一人が大庭城の守りを固めて、かつての大庭氏(鎌倉長尾氏)の館はその近くであったということです。
「新編相模風土記稿」の大庭城の項にいわく「土人伝えて、大庭景親の居城なり、後太田道灌暫時居城とし、北条氏の頃は其の旗下某在城せり」と。
1465年(寛正6年)に伊勢神宮の神官荒木田氏経が、大庭御厨の返還を求めて太田備中入道(太田道真)、左衛門太夫(太田道灌)宛てに出した書状が残っているので、そのころ太田道真・道灌がこの地域を実効支配していたことは間違いありません。
 城址の広場.JPG       
(城址の広場)
堀立柱建物址.JPG
(堀立柱建物跡) 
城址の梅.JPG
(城址の梅)
大庭城址の説明板には「室町時代中頃には、上杉氏の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったと伝えられています」と記されています。このことについて藤沢市教育委員会に尋ねると、大庭城の道灌縄張り(設計)説は伝承であって、そのことを確実に証明する文書は発見されていないということです。教育委員会がこの城址を発掘調査したところ、鎌倉時代から室町時代にかけての遺物が出たそうです。1512年(永正9年)に、上杉朝良が拠る大庭城は北条早雲により攻略されて落城しました。

この城址の城山の上は整地されて、高低差のある二つの広大な広場と付随するいくつかの小広場となっています。後北条氏が得意とする総郭(そうくるわ)や障子堀(しょうじほり)などがないので、この城址は基本的には上杉時代の構造を残していると思われます。城の周辺をよく観察すると、たくさんの堀や土塁があり、基本的構造が連郭式縄張りであることが分かってきます。城域の舌状地の三方が水で囲まれていて連郭式縄張り(道灌がかり)になっているところは江戸城によく似ているので、この城はやはり、太田道灌の縄張りと推定することができます。
往時このあたりは、管領府であった鎌倉と扇谷上杉氏の守護所であった伊勢原糟屋の中間点であったので、上杉氏にとっては重要な拠点であったと思われます。
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(土塁)  
城域之空掘.JPG
(空掘)
大庭城址は広大なので歩き甲斐があります。早春の花の広場に梅や白木蓮の花が咲きみだれ、親子連れなどが遊んでいました。その間を、花も見ずにひたすら土塁や堀跡を見て回っては考え込んでいた一人の男の姿は、奇妙なものであったでしょう。
大庭城址公園=神奈川県藤沢市大庭
posted by otadoukan at 11:25| Comment(13) | 大庭城・道灌の縄張り伝承