2012年05月16日

武蔵千葉氏の石浜城址と赤塚城址(198か所目)

文明10年頃、東関東の大勢力であった総州の千葉氏は、古河公方と結び、上杉氏に対抗していました。その頃、千葉氏庶流の馬加孝胤(まくわりのりたね)は、宗家を滅ぼして猪ノ鼻(千葉市)の本城を奪いました。一方嫡流の千葉実胤、自胤(これたね)兄弟は太田道灌の庇護のもと、それぞれ石浜城(東京都荒川区)、赤塚城(東京都板橋区)に拠り、武蔵千葉氏として江戸城の東方を固めていました。

JR常磐線の南千住駅南口より南へ少々歩き、泪橋(なみだばし)交差点で左折し、明治通りへ入ります。10分も歩くと隅田川(古利根川)に架かる白髭橋へきます。このあたりは往時、武蔵と下総の境目で、渡し船による交通の要衝でした。白髭橋の手前左側に石浜神社があります。境内を囲む石格子近くに、荒川区教育委員会の説明板があり次のように記されています。
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(伝・石浜城址・石浜神社)
東京スカイツリー.JPG 
(隅田川と東京スカイツリー)
「石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573〜1591)城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後に、廃城になったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。(後略)」
また「新編武蔵風土記稿」(1830年)には、「(自胤は)本国を離散して武蔵江戸の地へ趣き、太田道灌に頼みければ、道灌、彼が高家にして微力なるを憐れみ、石浜の城を授けて是を守らしめ」とあります。
千葉実胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「千葉実胤事は、当方の縁者に渡らせ候と雖も、大石石見守を招き出され葛西へ越され候。公方様へ内々申さるる旨候。然りと雖も、孝胤出頭の事候間、許容無きに依り濃州辺へ流落候」。
千葉実胤は上杉氏の姻戚であったけれども、(長尾景春与党の)大石氏を、居城の葛西(石浜城)へ招きました。そして(実胤の総州復帰について)古河公方へのとりなしを頼みました。しかし、千葉孝胤が妨害したので、古河公方の承諾は得られず、実胤は濃州(岐阜県)へ流落しました。
「太田道灌状」の文面から読み取れることは、千葉実胤が、孝胤と古河公方の連合軍に対して断固戦おうという道灌の意に反し、半ば交渉しようとする中途半端さを持っていたことと、そのことに対する道灌の不快感です。実胤は、病弱であったとも、讒言にあったともいわれているけれども、その後、所領の濃州へ流落して生涯を終わりました。
このあたりは、河川の流路が度々変わった地帯であるので、石浜城の遺構は全く発見されていません。石浜城は、台東区浅草の隅田公園前の本龍院・待乳山聖天(まつちやましょうでん)付近にあったという説もあります。石浜神社近辺の白髭橋の際から、東京スカイツリーが隅田川のかなたに、遮るものもなくよく見えています。

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(赤塚城址本丸跡) 
説明板.JPG
(板橋区教育委員会説明板)
都営地下鉄三田線の高島平駅から15分も歩くと、都立赤塚公園へきます。赤塚城址、梅林、桜並木、溜池があり、隣接して板橋区立郷土資料館があります。小高い城山を登ると赤塚城本丸跡があり、城址の碑と板橋区教育委員会の説明板があります。隣接する二の丸跡には、赤塚山乗蓮寺が建っています。
弟の千葉自胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「自胤事は、江古田原合戦の時、刑部少輔一所に加わり、自身太刀打たれ、上州御下向の刻より江戸城へ籠り給候。彼の家風中度々の合戦の働き比類なき候」。
千葉自胤は、江古田が原合戦のとき、上杉朝昌とともに、自ら太刀を振るって戦いました。(上杉顕定が)上州で戦った頃、(道灌も前線に出ていたので)自胤が江戸城を守りました。自胤の家中の者達も度々の合戦で、目覚ましい働きでありました。
これはもう自胤に対する道灌の絶賛の言葉であり、道灌は自胤を信頼していたがゆえに、自分が上州戦線で陣頭指揮をしている間、自胤に江戸城守備を命じたのです。自胤はその後、赤塚城で武蔵千葉氏として地歩をかため、江戸城鬼門(東北)を守って存在感を発揮しました。その子孫は後に、後北条家に属し、豊臣軍に滅ぼされる1590年(天正18年)までこの地で栄えました。
赤塚城址は、板橋区指定史跡です。
伝・石浜城址・石浜神社=東京都荒川区南千住3丁目
本龍院・待乳山聖天=台東区浅草7-4-1
赤塚城址=東京都板橋区赤塚5丁目赤塚城址