2012年06月07日

「太田道灌状」の脇役・竹沢と高見(199か所目)


「太田道灌状」の中にその地名が登場するけれども、道灌の時代には特別なことが何も起こっていない竹沢と高見という場所があります。1480年(文明12年)上杉軍が長尾景春の軍勢を秩父に追いつめたところ、古河公方が再び景春支援の動きを見せました。そこで道灌は、大森御陣で「然らば大石名字中道灌相共にし、当所竹沢辺か高見辺かに討ち出で」(太田道灌状)と述べ、古河公方軍を阻止するために、竹沢か高見に大石氏と共同の前線基地をおく作戦を、管領の上杉顕定に提案しました。
埼玉県小川町の竹沢という所は、越生と寄居の中間点にあり、児玉党竹澤氏ゆかりの地であったけれども、今は何一つ目立つものがない街道筋の田舎です。私は、鉢形城や雉が岡城方面へ行く際、何度も竹沢を通っていたけれども、気にも止めませんでした。今回ふと急に気になり、竹沢地域を回ってみました。
先ず竹沢駅を探すのが大変です。実は、JR線の竹沢駅は、国道254号線小川バイパス沿いに人影もなくひっそり建っています。車で走っていると決して気付かない、道端の小屋のような駅です。
JR線と東武東上線は、このあたりで交差しています。東武竹沢駅を探すのは、さらに難儀です。仕事中の里人に尋ねてようやくわかりました。この駅は、何もない、山あいのちょっとした広場に立つやや立派な駅です。周囲に小山がいくつもあるので、前線基地として兵を隠すにはもってこいの地形です。
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(JR線竹沢駅) 
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(東武線東武竹沢駅)
竹沢駅近くの靭負(ゆぎえ)という地名と兜川(かぶとがわ)という川の名前は、この地が中世戦国時代の由緒を持った地であることをさりげなく語っています。往時このあたりを駆け回った道灌と景春のことをなにもかも知っていて、黙っているような雰囲気が、ここにはあります。
国道254号線小川バイパスを少し東へいくと、高谷交差点の手前左側に高谷砦(こうやとりで)址があります。農家の犬に吠えられながら裏山を登ると、小振りの連郭式城址があります。この砦は、誰が築いたかわからないけれども、道灌軍が駐屯した可能性はあります。

高谷交差点から県道184号線をちょっと北上すると高見城址があります。このあたりは往時、鎌倉街道上道(かみつみち)をおさえる要衝の地でありました。四津山神社の参道を登ると、連郭式の高見城址があります。本丸跡から高見が原古戦場を一望できます。この城山は、高見が原の独立峯なので見晴らしがよく、天気の良い日にここで弁当などを食べるとご機嫌です
高谷砦の空掘.JPG      
(高谷砦の空掘)
高見原古戦場.JPG
(高見が原古戦場)
小川町教育委員会の説明板に次のようにあります。
「(前略)本城の築城年代や城主については不明な点が多いのですが『新編武蔵風土記稿』では、長享元年(1487)に没した増田四郎重富の居城と伝えています。また長享2年(1488)及び延徳3年(1491)の二度にわたり、城の北東方面の高見ヶ原において、山内上杉氏と扇谷上杉氏の激しい合戦が繰り広げられたと伝えられています」。
道灌は、この年一度江戸城へ戻って体制固めを終え、「一両日候て高見へ打ち帰り」(太田道灌状)とあるので、高見城の増田氏が上杉氏に与同し、道灌軍に駐屯地を提供したと、私は推測しています。
道灌が「竹沢辺か高見辺」と言って想定した前線基地は、高谷砦か高見城のことと思われるけれども、道灌のこの作戦は、管領上杉顕定に拒否されたので結局実行されませんでした。
高谷砦址は、由緒不明なのでまだ史跡として認定されていないけれども、高見城址は埼玉県指定史跡です。

脇役はいつも、主役の事をすべて知っていても決して語ることがありません。埼玉県の田舎は、歴史的にどうしてこんなに奥深く奥ゆかしいのかといつも思います。脇役をして多く語らしめては、舞台が御破算になるので、今回はなにもないままこれで終わりです。
高谷砦址=埼玉県比企郡小川町高谷2283
高見城址=埼玉県比企郡小川町大字高見字四つ山1008外