2012年06月22日

鉢形から釜伏を越える(地名考察・一試論)(200ヶ所目)

「太田道灌状」の中には、秩父高佐須、秩父口表、御敵城、多比良治部少輔の所帯、秩父御陣、(多比良の)要害、秩父、日野の要害、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠などの埼玉県秩父地域の地名が出てきます。それらの地名がどこを指すのか特定することが難しく、郷土史家の間でも種々の議論があります。
秩父高佐須、日野の要害については、地元の郷土史家がすでに、それぞれ塩沢城、熊倉城であるという結論をだしています。
秩父御陣という言葉で道灌は、秩父での戦、あるいは上杉顕定のいる本陣というようなやや抽象的な意味で使っています。
多比良(たびら)氏は小鹿野町薄(すすき)にいた土豪猪俣氏で、その地域に所領を持ち、その要害とは塩沢城であると、郷土史家は推測しています。
長尾景春が出入りした秩父とは、具体的には長尾城(秩父市)とその根小屋堀の内を指すと思われます。
その他の地名、秩父口表、御敵城、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠について今回考察します。とりわけ浦山河、田野陣については、同様の地名と地勢が秩父市荒川方面と 皆野町にあるために論争が賑やかです。私はこの度あえて、自分の見解を述べてこの論争に分け入ります。
「太田道灌状」を注意深く読み、その行間に秘められた意味を探ろうとしても、出来事について複数の可能性が浮かびあがってきて結論が出ない場合があります。このようなときは、両地域をフィールドワークして地勢的に整合性のある方を選ぶしかありません。そしてさらに、その時の時代状況や道灌はもちろん長尾景春、上杉定正、上杉顕定、長尾忠景など登場人物の心情も勘案しなければなりません。最初に、難解な「太田道灌状」の関連部分を、省略を補いながら口語訳で読み、そのあとで地名を一つひとつ考察します。 

1 秩父口表、御敵城
「太田道灌状」にいわく、
「毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表で最初に御敵城より(味方に)招き出したので(顕定が)許した。そしてすぐに(毛呂)左近太郎が出仕した」。
1478年(文明10年)7月、道灌は鉢形城(寄居町)を攻撃し、景春を秩父へ追いました。このとき毛呂氏が城を脱出し、景春方から道灌方へ転じたと思われます。
中世の秩父往還のメインロードは、釜伏峠(寄居町)越えの道でありました。荒川沿いの現在の国道140号線の道は、近年に開通した道であり、中世には波久礼の難所(はぐれのなんしょ)(長瀞町)のために、秩父往還のメインロードではありませんでした。したがって私は、秩父口表とは寄居町の釜伏峠入口であると考えます。
釜伏山参道の碑から、3キロ程東方に鉢形城があるので、御敵城とは鉢形城であると考えます。なぜかならば、秩父への出入り口近傍で道灌が攻めた城は、鉢形城だけであるからです。そして景春が古河公方に与同していたため、道灌は、景春の鉢形城に「御」の字を冠して敬語としたと思われます。あるいはまた「御」の字は、一般的な「怨」の字の書写まちがいかもしれません。
したがって、武蔵野から秩父へ向かう秩父口表は釜伏峠登り口であり、御敵城とは鉢形城ということになります。  
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(釜伏峠入口の釜伏山参道碑)
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(関所跡の説明板)

先日私は、秩父の「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに、鉢形城を見てから釜伏峠を越えました。まず鉢形城から釜伏峠の登り口が予想外に近いのでびっくりしました。また釜伏峠(580m)越えの道は、旧正丸峠(760m)越えの道に比べるとはるかに短く楽な道であることに二度びっくりしました。そして、1476年(文明8年)長尾景春が、鉢形城で決起して乱を起こしたとき、秩父の傍輩を頼りにしていた景春の心情が、実感をともなって思い起こされたのであります。
峠の途中にヒノキ並木の古道や江戸時代の忍藩(おしはん)関所跡と一里塚があります。峠の上には釜山神社があり、かなり広い平場もあるので、ここに軍勢をとどめることもできました。したがって「太田道灌状」で秩父の峠と言えば、釜伏峠を指したと思われます。乗馬の名手をそろえた長尾景春の騎馬隊が、利根川と秩父の間を短期間に激しく往復したとき、この峠を駆け抜けたと考えると合点がいきます。

2 大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣
「太田道灌状」にいわく、
「(文明12年、長尾景春の越生急襲後、道灌は長尾景春与党の斎藤氏が拠る)長井城を攻略に向かったところ、(顕定から宿老の)大石名字中が派遣されたので、共同作戦で(長井城)を落城させた。武蔵国中が平穏であるため、(顕定が)秩父へ出発したところ、(想定外なことであるけれども)古河公方が方針転換をして(再び長尾景春を支援し始めたから、秩父)郡内の御陣が危うくなってきた。
(道灌は)『先ず、日野の要害はあとまわしにして、(武蔵)国中を安泰にすべきです』とお屋形のいる大森御陣に行って申しあげたところ、(顕定)の了解を得られなかった。
『それならば、(道灌は)大石名字中と連れ立って、(扇谷領の)竹沢か高見へ出陣するので、(顕定は)目立たないように太山に陣取り、錦の御旗を浦山河を前にして、森に隠して立てて、田野陣の者を励ましてください。もし(武蔵)国中が危うくなったら、(顕定が)浦山河の切所に馬を出して旗本衆に警護させ、田野陣の衆を移動させ、高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて山中を警護させてください』と(古河公方軍対策を)十分に考えて、新しい意見として述べたところ(顕定の)承認は得られなかった。 
(そればかりか)『もっぱら道灌は、険難の地を罷り逃れたいからそう言っているのだ』と非難する者も現れてきたので、老父(道真)を呼んで屋形(顕定)に付き添わせた。
(道灌は)五月十三日に秩父へ出発し、大石両人は翌日出発したところ、東上(こう)野(ずけ)の敵(古河公方の与党)が蜂起し、方々を討ち散らした。そうしている間に、武蔵国の南方が心配になったので、道灌はにわかに江戸城へ戻り、しっかり警護するよう申しつけた。一両日してから高見へ帰り、帰宅していた味方の者を少々集めて、利根川端へ陣を寄せようと思っていたところ、凶徒は退散した。長尾忠景と、新田(岩松氏の金山城)に向かって利根川を越えることを相談したところ、(忠景は)最初は賛成していたが、すでに日程が決まったときに、『自分は行けない』と言ってきた。
(道灌は)六月十三日に秩父の御陣へ参陣し、翌日長尾孫五郎(忠景の子)と(新田へ)出陣しようとしていたところ、『秩父御陣へ出仕して先ず日野城攻略を急ぐよう』命令されたので、色々様々心を尽くして日野城を落城させた。あの城を落城させたこともまた道灌の功労ではないだろうか。何もかもご存知のとおりであるが、いかほどもなく(顕定は)そのことを忘れている。道灌の意見を妨害した人を許しているけれども、彼らにいかほどの功績があるのか聞きたく思う。ほんとうに(彼らの)自らを称えた言い分は、かえって傍若無人であろう」。

「太田道灌状」全編に流れている道灌のいらだちの一つは、彼自身と山内上杉家の家宰であった長尾忠景との不協和音です。先の引用部分の中でも道灌は、忠景に土壇場でのキャンセルを食わされています。二人の出す作戦案は常に異なり、二人の戦場での行動は常にちぐはぐでありました。そのことは、後の道灌謀殺に関わりがあると思われます。

大森御陣
私は、大森御陣の地を、秩父市上影森の諏訪神社付近と想定しました。その地は、荒川と浦山川による崖の上にある要害の地であり、境内を秩父往還道が通っていました。現在も神社の境内に樹齢700年の巨木があるので、往時は樹木が多数あって大森と呼ばれた可能性があります。また地名の大森と影森が森の字を共有していることは、その関連性を示しています。ここから熊倉城は指呼の間であるから、上杉顕定は熊倉城攻略の対城として、この地を選んだ可能性はあると思います。江戸時代の文政年間に記されたといわれる「秩父風土記」の古城跡十九か所の項に、上影森が含まれています。近くに神原(じんばら)と呼ばれる平地があり、往時は陣原であったかもしれません。
「太田道灌状」によると、大森御陣には上杉顕定の旗本衆がいて警護していました。そして顕定が、道灌にしきりに熊倉城攻めを促しているところをみると、そこには、顕定自身の大軍が駐屯してはいなかったと思われます。顕定は、大森御陣で諏訪神社に戦勝祈願をし、熊倉城の景春の動きを監視しながら指揮をとっていたと思われます。
熊倉城址・中央.JPG            
(道の駅「あらかわ」から見た熊倉城址=中央の山)
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(樹齢700年の諏訪神社の古木)

浦山河、浦山河の切所
「太田道灌状」の中で、「荒川」の名はただ一度だけ、道灌が青鳥城(川島町)から北方へ移動して荒川を越えたときに使われています。荒川が波久礼の難所をすぎて秩父盆地に入ると、両岸の様相も一変して流れる方角も違うため、道灌は荒川であるという認識を持っていなかった、と私は考えます。道灌は、秩父の荒川を浦山河と呼んだ、と考えることが私の推論のキーポイントであります。そのように考えると、「太田道灌状」の記述内容は全て整合性を持ち、すんなりと理解できます。逆に、そう考えなければ、「太田道灌状」の記述内容は実際の地勢と矛盾して、解釈不能となるのであります。
川は環境が違うと異なった名称で呼ばれることは珍しくありません。例えば今でも、神奈川県の相模川は山梨県に入ると桂川と呼ばれています。道灌の時代には、荒川は秩父で浦山河と呼ばれていた可能性もあると思います。因みに、現在の浦山川は、浦山ダムに満々と水をたたえたあと、秩父市荒川上田野で荒川へ注いでいます。浦山河が荒川であるとすると、その切所とは荒川の渡河地点すなわち皆野町親鼻(おやはな)の渡しということになります。当時は橋がなかったので、谷の底にある渡河地点が戦の勝敗を左右する修羅場となったのです。私は道灌が、錯誤あるいは当時の慣例的な呼称により、秩父盆地を流れる荒川を浦山河と呼び、釜伏峠への道に通ずる親鼻の渡しを浦山河の切所と呼んだと推定します。
国道140号線沿いの親鼻の下川原には今、親鼻橋と秩父鉄橋がかかり、夏には長瀞ライン下りの乗船場ができ、日曜日には秩父鉄道のSLが古風な鉄橋を渡ります。
親鼻橋.JPG  
(荒川の親鼻橋下河原)
一方、皆野町の浦山城址は皆野駅からバスで35分もかかる西方の山の中にあるので、釜伏峠を越えて攻め込んでくる軍勢に対する対城としては、殆んど役には立ちません。

太山
太山(ふとさん)とは長瀞町の宝登山(ほどさん)と考えるのが妥当です。宝登山神社の説明によると、宝登山はその縁起伝説から火止山(ほどさん)とも書かれました。一般的に、音による言葉の連鎖は相当高い確率で事実の連鎖を伴うので、宝登山(ほどさん)が太山(ふとさん)である確率は高いと思います。当時、軍勢が社寺で戦勝祈願をし、境内に駐屯することはよくあることでした。したがって道灌は、古河公方の軍勢が秩父往還すなわち釜伏峠を越えて攻め込んでくることに備えて、上杉軍の前進基地を宝登山・太山につくることを提案したのです。宝登山から親鼻の渡しまでは約1キロであるから、ちょうどよい距離といえます。
宝登山.JPG  
(宝登山)
荒川久那の城山(室山城址)を太山と考えることには、少々無理があると思います。地名の音が一致しないこと、秩父往還を越えて攻め入る敵に対する陣地の位置としては、戦略的に有効ではないことなどの理由があります。

田野陣、峠
田野陣とは現在の皆野町下田野にあった、急造りの陣地を指すと私は思います。そこでは、駆り出された田野陣衆が釜伏峠への道を警護していたのでしょう。
皆野町に下田野、隣の秩父市に荒川上田野という地名があるので、話が厄介です。上杉方が、宝登山・太山に陣を構えたとすると、陣地から皆野町の下田野まで約一キロであるのに対して、秩父市の荒川上田野までは十キロもあります。したがって敵来襲のとき、上田野の田野陣衆を呼んで緊急配備することは、戦略的に無理があります。
そして峠とは、先に述べたように釜伏峠を指すと思います。当時の兵士とりわけ道灌の足軽隊は健脚であったので、高見から釜伏峠のうえまで、半日もあれば悠々と移動でき、「高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて、山中を警護させる」という道灌の提案は決して、現実離れした話でなかったのです。
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(釜伏峠の上・釜山神社の碑)

以上のように考えると、高見、竹沢、秩父口表、(釜伏)峠、田野陣、浦山河の切所、太山などは、鉢形城の隣接地域の連鎖的地点であるから、道灌の提案はにわかに現実味を帯びてきます、道灌の提案は、古河公方の軍勢が釜伏峠を越えて長尾景春救援に秩父盆地へ来襲することを前提にした案であったのです。

また「太田道灌状」の文意から考えると、上杉顕定は一貫して、熊倉城(日野城)攻撃を優先しようとしていました。一方、太田道灌は武蔵の古河公方方の動きを理由にして、秩父往還の要すなわち釜伏峠で、古河公方軍を阻止する作戦を顕定に提案したけれども、顕定はその提案をあっさり拒否しました。道灌は心中で、親類である長尾景春を滅ぼしたくなかったので熊倉城(日野城)の攻激を引き延ばそうとしてこの提案をしたと思われます。一部の人々(顕定も含み)は、道灌の心底を読んで、「道灌は険難の地を避けている」と非難したのでありましょう。道灌はその非難に耐えられなくなり、やがて熊倉城攻撃を決行したのであります。

皆野町の下田野のとなりに戦場という地名があり、下田野では毎年3月に「下田野行灯まつり」が行われ、あぜ道にある300余の行灯に灯がともされます。戦国時代に鉢形攻防戦ではてた武士や百姓すなわち田野陣衆を追善する行事だそうです。
私は、道灌の提案の中の太山、浦山河、田野陣、峠などの地点特定のために、方々を駆けずりまわってたいへんな苦労をしたけれども、この提案は実行されなかった机上プランであったのでなんだか虚しい感じもします。しかし、地形肝要を根本に孫子の兵法を用いた道灌の思考を理解するためには意味のあることであります。
そして、「太田道灌状」に記された秩父御陣の全貌が、かくも混沌としていることに、私には少々の感慨があります。それは、秩父には余りに多くの峠と沢があるため、景春一統は沢にかくれ峠を越えて、多くの伝説につつまれてしまったという心地よさです。
そしてまた、秩父の道灌軍と景春軍の攻防については、多くの熱心な郷土史家の、百花繚乱ともいうべきたくさんの見解があるのに、秩父の歴史にも地理にも疎い私がその中に割り込んで恐縮しています。したがって以上の見解は、一試論としておきます。
釜伏峠=埼玉県大里郡寄居町風布1969
諏訪神社=埼玉県秩父市上影森255‐1
宝登山・宝登山神社=埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
親鼻橋=埼玉県秩父郡皆野町皆野