2012年08月31日

伝・滝の御陣址と倉賀野御陣

太田道灌自らが、布陣したわけではないけれども、「太田道灌状」に登場する気になる上州の陣地名があります。それは、滝の御陣と倉賀野御陣です。1477年(文明9年)夏7月、鉢形城の長尾景春から援軍要請を受けた古河公方足利成氏が、宇都宮、結城、両那須、佐々木、岩松氏等の大軍を率いて古河を出て、滝の御陣(高崎市)に布陣して白井城攻略をもくろみました。
「太田道灌状」にいわく、「定めて滝の御陣より御勢を分けられ候か」と。またいわく、「公方様滝の御陣を御立ち」と。古河公方の軍勢は、滝の御陣から出発し、片貝、荒巻原、塩売原、広馬場とめまぐるしく動く道灌軍と対峙しながら、半年間の上州合戦を開始したのです。
東京より関越道を走って高崎ICで降り、少し南下してナビゲーションでさがすと、段丘の上に高崎市立滝川小学校がみつかります。高崎市立図書館で「新編高崎市史・資料編3」を見ると、この小学校敷地が、五左衛門原屋敷跡であり、古河公方の伝・滝の御陣跡でもあることがわかります。
滝川小学校.JPG  
(伝・滝の御陣跡)
「新編高崎市史」には、滝川小学校敷地について「足利成氏が、滝陣張りの際(文明9年)の河岸かもしれない」と記されています。滝川小学校の敷地の高台は、東半分が半円形に蛇行する滝川に囲まれ、約6メートルの崖の上にあります。滝川は今も、幅3メートルほどの小川であるけれども清水が勢いよく流れ、滝の名にふさわしい急流です。したがって、滝川にかこまれた滝の御陣は当時、要害の地であったことがわかります。「新編高崎市史」の中で、このあたりには遺構も伝承もないけれども、滝川小学校からほど遠くない下滝町前畑の下滝館跡が、古河公方の本陣跡であろうと推定しています。
滝川小学校の敷地半分を馬蹄形にかこむ滝川は、今も深く切り込み、その急こう配の地勢と柵が、多大なセキュリティ効果を小学校にもたらしています。ちょうど昼さがりに、私は滝川小学校の敷地の周囲を歩き、地勢を見て回りました。夏の終わりの高崎市は、名にしおう酷暑地域です。カンカン照りに私は、少々めまいを感じたものの樹間から聞こえる子供たちの歓声に蘇生する思いでありました。

倉賀野城址.jpg
(倉賀野城址碑)
「太田道灌状」にいわく「倉賀野の御陣より当方相分かれ候て」と。1478年(文明10年)、広馬場の合戦が相引に終わったあと道灌軍は、倉賀野御陣の上杉本隊から分かれ、川越城へ向いました。
倉賀野御陣は、その名称から考えると、現在の高崎市倉賀野町のどこかにあったと思われます。
伝・滝の御陣跡から西の方へ5キロも移動すると、烏川の崖の上に倉賀野城址があり、本丸跡に倉賀野城址碑があります。倉賀野城は、山内上杉氏与党の倉賀野氏の居城であったので、上杉軍が文明10年、ここを倉賀野御陣として駐屯したとしても不思議ではありません。しかしそのことは、確証もなく蓋然性も弱いためか、「新編高崎市史」には記されていません。
伝・滝の御陣址・滝川小学校=群馬県高崎市下滝町585‐2
下滝館=群馬県高崎市下滝町前畑
倉賀野城址=群馬県高崎市倉賀野町字上町、中町
posted by otadoukan at 16:03| Comment(15) | 伝・滝の御陣址と倉賀野御陣