2012年09月25日

館林城址

群馬県館林市へは、東京都内の浅草、北千住などから東武伊勢崎線を利用すると約2時間余りでくることができます。館林駅からまっすぐに15分も歩くと、館林市役所すなわち館林城址へきます。館林城は江戸時代に、徳川四天王の一人榊原康政、松平氏など有力大名が城主をつとめました。そのため市内に、武家屋敷や古風な商家があり、落ちついた城下町の雰囲気を醸し出しています。
市役所の隣に市立図書館があり、その前方に土橋門と城の土塁が残っています。
城址の半分は、城沼に続く広い水掘りすなわち鶴生田川(つるうだかわ)で囲まれています。それらはみな江戸時代の城の遺構です。
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(館林城址) 
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(城沼に続く鶴生田川)

「松陰私語」(1500年頃)の中に、次のような一節があり、これは館林城について書かれた最古の文書です。
「その後(文明3年)佐貫庄へ向い、館林城を差し寄せ陣を取る。彼の城主は舞木方の被官赤井文三、文六是なり。彼の城の地湖水を利し、三方を押し廻し、責め口は一方なり。長尾左衛門尉父子、同舎弟忠景、太田道灌以下武上相の諸家六千余騎」。
この城の城主は、佐貫一族の赤井文三で、城は三方が湖水で囲まれていました。1471年(文明3年)上杉方の長尾景信、景春、忠景、太田道灌等六千余騎が城を取り囲みました。この城を支援する足利成氏方の結城・佐野・小山などの諸氏は、夜に湖水を渡って城を支援しました。この援軍を阻止するため、上杉方の諸家は順番で見張りを行い、夜間の舟行を阻止したので、80日余りの陣張りで館林城は落城しました。
このときの戦の原因はわからないけれども、利根川に近いところであるから、上杉方と古河公方方の勢力争いの一環であったと推測されます。またこのとき太田道灌は40歳で、ともに参戦した長尾景春は29歳であったので、二人は親しく語り合いながら戦ったと思われることが、たいへん興味深いことであります。

江戸時代になり、1728年(享保13年)、館林城には太田道灌の子孫太田資晴が五万石で入封し、6年後に資晴が大阪城代となって城は天領となりました。その後1740年(元文5年)資晴の子資俊が5万石で館林へ入封しました。これも、かつて道灌がここへ来たことの因縁かもしれません。資俊は6年後に、遠州掛川へ転封となって掛川太田氏の祖となりました。
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(館林城址説明板) 
    
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(田山花袋の胸像) 
自然主義作家の田山花袋は、1871年(明治4年)館林で生まれ、ここで少年時代を過ごしたので、城址の近くに「田山花袋記念文学館」があります。田山花袋の紀行文「日本一周」の冒頭の部分には、太田道灌の江戸城とその周辺のことが、描写されていて興味深いのでその一部を記します。
「武蔵野以前の東京、浅草の観音堂が入海の岸にある時分のことが私の頭に上って来た。その時分は日比谷公園のある辺りは、一面の海で、本町、人形町あたりの賑やかなところは、ぐちゃぐしゃした沼地であった。皇居の丘陵の上には、今、麹町の平川町にある平川天神がしょんぼり立っていて、そこからさびしい海が展開された。今の東京の繁華な部分は、そのころは全く海の中にあったのだ。道灌山の下のあたりまで波が寄せていたので、道灌舟つなぎの松などという名の残っているのがその証拠である。(中略)太田道灌のいた館、それは今の坂下門のあたりにあった。私は、太田道灌が近国の豪族を風靡した光景を想像した。英雄心緒乱如(えいゆうのしんちょみだれていとの)糸(ごとし)というような光景までも絵のようになって私の頭に浮かんできた」。
花袋がどうしてこんなに正確に、昔の江戸城のことを知っていたのか、不思議です。太田道灌の江戸城のことは、明治時代まで、東京の庶民はだれでも知っている伝承であったのかもしれません。
毎年春には、館林城址のまわりで「世界一鯉のぼりの里まつり」が行われ、鶴生田川から城沼にかけての空を、数千匹の鯉のぼりが泳ぎます。
館林城址=群馬県館林市城町3‐1
posted by otadoukan at 06:20| Comment(10) | 館林城址