2013年07月02日

「道灌紀行」200か所探訪を終えて

 太田道灌の関連史跡と伝承地200か所の探訪を終え、あたかも道灌の祥月命日を迎える時となりました。この時にちなみ、「道灌紀行」(増補版)を発刊しました。その本のはしがきの一部を掲載させていただき、ひと区切りとします。

 この紀行は、太田道灌を現代によみがえらせるための探訪です。訪ねた太田道灌関連の史跡や伝承地は、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県、群馬県、栃木県、静岡県などの二百か所です。道灌は、江戸の庶民から「道灌びいき」ともいうべき親愛を寄せられ、そのため各地に道灌の名前がつけられました。首都圏には今も道灌山、道灌通り、道灌橋、道灌坂、道灌濠、道灌公園などがたくさんあります。また江戸落語で語られ、画にえがかれ、各地の祭りで山車に乗せられ、方々に山吹伝説の地が生じました。太田道灌は今も各地で愛好家の熱い支持を受け、首都圏にはたくさんの銅像がつくられました。道灌の銅像は、東京都に三体、埼玉県に五体、神奈川県に一体、静岡県に一体、長野県に一体、合計十一体あります。先の大戦の最中には、東京市庁舎の正面にあった太田道灌像が撤去されて供出され、戦場に消えました。

 太田道灌が生きた中世の関東は、地方分権が乱立した複雑な時代でありました。その複雑で先行き不透明な時代と場所での、太田道灌の劇的な生きざまは、ひときわ鮮烈な光彩を放っていました。道灌は、混乱の時代に「関東(かんとう)御静謐(ごせいひつ)」すなわち関東の平穏と民生の安定という大義をかかげ、「道灌がかり」といわれる縄張り(設計)で江戸城を築き、現在の東京の基礎を築きました。彼はまた「足軽戦法」という新戦術を駆使して関八州を駆けぬけました。道灌が武人でありながらみずから歌を詠み、連歌師の心敬や詩人の万里集九など当代一流の文人と深い心の交流をもっていたことは、彼が通常の武人とは違う感性をもっていたことを示しています。その人間的な器量は実に広く多彩であり、世に喧伝された「山吹伝説」は、激動の中の一場の劇中劇のごときであります。 

 道灌の生涯には、たくさんの謎があります。各地を歩きながら、山吹の里の謎、道灌三十連勝の謎、道灌非業の最期の謎等を考えます。この紀行の主役は、言うまでもなく太田道灌その人と、彼が息づき駆けぬけた山谷広野そのものです。人間の人生は、生命と環境が表裏一体となって発現する現象であるので、道灌ゆかりの土地に立って記念碑を見つめ、地勢を眺めて風にあたると、道灌の志操や心意気がよみがえってきて、歴史の真実が見えてきます。とりわけ太田道灌は「地形肝要」を戦略の基本としていたので、各地の城址を調べて古戦場を歩くと、彼の戦略と作戦が見えてきて興味がつきません。それがこの紀行の最もおもしろいところです。

 道灌が今日の我々に残した重要なメッセージは、彼が身を賭して記した「太田道灌状」(一四八〇年)の最終条にあります。「古来、国家を鎮め大乱を治める事は、人を得るに候。古人曰く、国に三不祥有り。賢人有るを知らず一不詳、知って用いざる二不詳、用いるも任せざる三不祥」と。そしてその言葉の通りの悲劇的な彼の生涯の結末には、現代にも通ずる人の世の危うさや不条理があって、深い感慨を覚えます。

 道灌の史跡と伝承の地二百か所を踏査し、彼の人生終焉の地である伊勢原市の道灌墓所に立ち、しみじみと感ずることは、太田道灌が現代の日本人には少なくなった、ストイックな志操と強い意志を持った行動者であったということです。彼は大義のために、自己保身の道を去り、大きなリスクを取ってロマンを追う道を敢えて進んだのでした。そのことにより道灌は、足軽から国人衆に至るまでの幅広い支持を集め、急速に勢力を拡大しました。そういう道灌の生きざまが、行き詰っている現代を打開するための示唆を与えてくれます。また道灌の心友万里集九が、道灌の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中で述べた「訴える所なしといえども、天鑑これ明らかなり」という言葉は、リスクを避けずに生き抜く人間が持つ、究極のキーワードであることがわかります。

 太田道灌の生涯を辿ると、いつどこででも登場するのは、道灌の親類でありかつ好敵手でもあった長尾景春であります。当時関東で長尾家は、太田家をはるかに凌ぐ所領と人的ネットワークを誇っていました。したがって、関八州を駆け抜けた太田道灌と長尾景春はちょうど団扇の表裏のように離すことができない関係であり、「道灌紀行」はおのずと「景春紀行」をも含むことになりました。

 伝説や伝承は、民俗学的に当時の雰囲気を伝えるものとして、またエンターテインメントとして、それなりに価値を認め、そのゆかりの地を訪問しました。伝承の中に、歴史の事実が秘められていることも少なくないと思います。五百年以上も前の一武将であった太田道灌の伝承が、関八州全体の処々方々にかくもたくさん生きつづけ、それらは相互にほとんどつながりがないということも驚きです。それはおそらく、道灌の動きが速く激しく広かったことと、民衆が道灌に強い愛着を持ってその伝承を地元で大切に伝えつづけていることによると思います。(「道灌紀行」【増補版】はネット販売中)