2013年07月28日

稲付城址・靜勝寺の「道灌まつり」

稲付城址(いねつけじょうし)は、JR埼京線の赤羽駅南口から徒歩5分の高台すなわち道灌山にあります。「稲付城址」と彫られている石碑を見ながら、急な階段53段を登って城址に至ると、そこには曹洞宗の自得山静勝寺(じとくざんじょうしょうじ)があります。寺の境内は静かでセミが鳴き、夏の夕方には涼風が流れていてほっとします。本堂の屋根瓦には、太田家の桔梗紋が、寺紋として浮き出ています。
2013年7月26日は、太田道灌の527回目の祥月命日です。この日に、稲付城址すなわち靜勝寺では、夕方、道灌堂で道灌の法要が行われ、「道灌まつり」が始まりました。境内は色とりどりのちょうちんで飾られ、城址の下の広場では地元の町会の人たちが手作りの出店を出し、近隣の子供たちが集まってきました。   014.JPG        
(本堂屋根の桔梗紋)
 
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(ちょうちんで飾られた境内)

この近くでは、鎌倉街道下道(しもつみち)と奥州への街道が合流し、交通の要衝ができていました。室町時代には関も設けられ、岩淵の宿が発達しました。道灌は江戸城と川越城の築城後に、両城の中間地点に、江戸城の出城としてこの城を築いたと思われます。道灌没後、孫の太田資高が居城とした時期もありました。1987年(昭和62年)の発掘調査で、空堀の跡が発見されたけれども、現在では城の遺構は残っていません。
靜勝寺の由緒によると、1504年(永正元年)に道灌の禅の師匠であった雲綱俊徳(うんこうしゅんとく)が、道灌の菩提を弔うためにこの地に草庵を結び道灌寺とし、静勝寺の起源となりました。江戸時代の寛永年間(1633年〜16421年)に地元の僧麟的が、草庵を再興しました。そしてさらに、道灌の6代目の子孫太田資宗(江戸掛川系)が境内を整備し、太田家の菩提寺としました。言うまでもなく山号は、道灌の父道真の館である自得軒(じとくけん)に由来し、寺号は道灌の館である静勝軒(じょうしょうけん)に由来しているので、父子一体の寺名であります
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(稲付城址下の祭り会場)

道灌の命日である毎月の26日には、道灌堂が開扉されて太田道灌の木像を拝観できます。この木像は、胎内の銘札により当山六世の風全恵釧が元禄時代に造ったと伝えられています。また太田資高が稲付城に在城当時、画像によって造ったとか、あるいはまた道灌生存中に自ら名工に命じて造らせたという説もあります。この木像には、造立後に6回の修復が施されました。現在の彩色は1987年(昭和62年)に行われた修復によるものです。
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(道灌堂) 
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(安置された太田道灌像)

この太田道灌像は剃髪,道服姿で立膝をして手に払子(ほっす)を持ち、傍らに脇刀が置かれています。高さは60センチで、その眼光は威あって猛からず、広い額には知略をたたえて口元には決断力をうかべています。万里集九は、道灌没後の二七日(ふたなのか)の忌日に読んだ祭文の中で、道灌の人品について「(道灌は)人の英と為るが如し(英傑であった)曖然たる和気は花の栄に就くが如し(穏やかな人柄でなにかしら華やぐところがあった)」と述べています。この木像には、静中動あり、思索則行動の道灌の雰囲気がよく表れています。この像のレプリカが、江戸東京博物館、北区立飛鳥山博物館、川越市立博物館にあります。
靜勝寺の太田道灌像は道灌の風貌を伝える木像として、道灌所持軍扇の写し図、その他の古文書とともに北区の有形文化財に指定されています。靜勝寺の道灌位牌には「香月院殿春苑靜勝道灌大居士」と記されています。
静勝寺の寺域一帯は、東京都旧跡の指定を受けています。
ちなみに、今年7月21日には、静岡県東伊豆町で「熱川道灌石曳きまつり」が行われ、巨大な石を300人で曳き動かしました。また今年10月5日、6日には、神奈川県伊勢原市で恒例の「伊勢原道灌観光まつり」が行われます。(写真の一部は、佐藤哲男氏が提供)