2013年09月20日

川越の太田道灌屋敷跡

1456年(康正2)、上杉持朝の命により太田道真、道灌父子が河越城の縄張りをはじめ、翌1457年(長禄元年)に城は完成しました。江戸城と河越城は、利根川のむこうで攻勢を強める古河公方に対抗して築城されたといわれています。当時の河越城の地図等は、全く残っていません。現存する川越城の最古の地図は、江戸期元禄時代の古地図です。それらを参考にして、現在の地形から推測すると、道灌時代の河越城の城域は、現在の三芳野神社境内と本丸御殿のあたりであったと考えられます。
道灌銅像.JPG
(太田道灌像・川越市役所前)
太田道灌屋敷.JPG     
(「新編武蔵風土記稿」の図、中央に東名寺、その左下に太田道灌屋敷と多谷寺)

河越城は、新河岸川と沼沢地の水により、三方をやや開いた馬蹄形で囲まれた、高さ十数メートルの舌状の微高地に築城されました。したがって基本的には、江戸城と同じ設計思想に基づいていました。同時代に活躍した、金山城の陣僧松陰は、「江戸河越両城堅固なり、彼の城は道真道灌父子・上田・三戸・萩野谷関東巧者の面々、数年秘曲を尽して相構え」(松陰私語)と記しています。

この頃、太田道灌が居住した「太田道灌屋敷跡」が「新編武蔵風土記稿」(1830年)入間郡巻十、「河越城下町図」に記されています。下町とは現在の川越市志多町を指します。川越市の蔵造りの町並みを北へ進み、札の辻を過ぎてやや歩くと志多町となり、そこには、川越夜戦の激戦地跡と伝えられる東名寺があります。ちなみに、中世では多く「河越」と記され、近世から「川越」と記されることが多くなってきました。

さてこの「新編武蔵風土記稿」の図では、東明寺と入間川(赤間川・新河岸川)の間の多谷寺隣に、「太田道灌屋舗」と記されています。その場所は現在、新河岸川(赤間川)湾曲部分の内側の志多町北端であり、田谷堰・田谷橋があります。図中の多谷寺の多谷と現在の田谷橋の田谷が同じ地域を指しています。
したがって、太田道灌屋敷跡は、新河岸川(赤間川)の湾曲部分の内側の突端、すなわち志多町8番地と推定されます。道灌が築城する場所はいつも、馬蹄形で水に囲まれた舌状地でありました。この場所も、小規模ではあるけれども、そのような道灌好みの地形であったことが分かります。
田谷橋.JPG     
(志多町新河岸川の田谷橋) 
彼岸花.JPG
(道灌屋敷跡近辺・彼岸花)
道灌橋.JPG
(道灌橋)

東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。
太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地
 
 
posted by otadoukan at 21:20| Comment(22) | 川越の太田道灌屋敷跡