2013年11月02日

用土が原合戦の「次郎丸」を探す

1477年(文明9年)春4月、太田道灌が豊島一族を江古田が原で打ち破ったあと、戦場は北方へ移動しました。道灌が両上杉氏を迎えに那波荘へいくと、長尾景春は上州勢を動員して梅沢へ出撃してきました。5月14日、道灌の作戦により上杉軍は、次郎丸から出撃しました。そして用土が原で、道灌、大森氏頼等の上杉軍と長尾景春軍との激戦がありました。山内上杉家の重臣大石房重や景春方の有力な傍輩であった上州一揆の長野為兼が討ち死にするほどの激戦の末、景春軍は鉢形城へ敗走しました。
道灌が「太田道灌状」(1480年)で「大軍を打ち滅ぼし」と記しているように、用土が原の合戦は、景春方の優勢をくつがえす重要な合戦でありました。しかしながら、その合戦にかかわる場所である「梅沢」「用土が原」「次郎丸」が未だに比定されていません。私は先に、拙著「道灌紀行」において、「梅沢」が小字名梅沢により、本庄市日の出四丁目付近であることを示し、また「用土が原古戦場」が用土の古老の証言により、寄居町の用土駅近くの平原であると推定しました。さらに私は、次郎丸について、用土の領主飯塚次郎の所領であろう、と推定したものの、具体的な場所を示す事はできませんでした。今回は「次郎丸」が指す具体的場所について考察します。
用土が原.JPG      
(用土が原古戦場)     

1.次郎丸とはどこか
「太田道灌状」にいわく、「道灌存じの如くは、次郎丸より鉢形へ打ち上げ、御敵陣の間へ馬を入れるべく様の威しを成し候えば、確かに御敵は原中へ打出すべく候歟。(道灌の考えは、次郎丸より鉢形城へ攻めこみ、敵陣の中へ馬を入れようとする威しをかければ、間違いなく敵は平原へ出てくるであろう)」と。
この文面からわかることは、次郎丸とは、道灌軍が鉢形城へ攻め込むため、また用土が原で馬返しの策を実行するための駐屯地であったということです。
前島康彦氏の「太田氏の研究」には、次郎丸について「不明、但し、五十子陣中の一拠点か」とあります。
勝守すみ氏の「太田道灌」と黒田基樹氏の「太田道灌」には、次郎丸がどこであるかは、言及がありません。
「もういちど読む山川日本史」(山川出版社)の「地名が語る歴史」の項には、次のような一節があります。
「地名にはその土地の歴史がきざまれている。人がそこに生き、自然とたたかったあと、人と土地とのかかわりが、地名にみいだされる。(中略)荘園制の名残を示しているのは、荘園の境界を示すための標識である「牓示(ぼうじ)」、地味のよい領主直営地の「佃」「用作」、百姓の名や名田につけられた「次郎丸」「石丸」「久富」などの人名のような地名である。(中略)中世の人々は地名を大切にした。それは地名を聞いただけで、その土地の自然や社会についての情報がえられるからである。また土地を開発して領主権をにぎった開発領主は、その地名を苗字として、つよい愛着を示した」
インターネットで調べると、次郎丸という地名は、全国にたくさんあり、「山川日本史」の説明を裏付けています。
次郎丸について、数名の郷土史家の友人から次のような情報をえました。@寄居町用土駅の北西に次郎平とよばれる場所がある。A小川町の中城址近くの大梅寺は小河次郎館跡といわれている。B嵐山町に太郎丸があるので、その近くに次郎丸があったのではないか。
前島氏が疑問を持ちながら示した本庄市の五十子や小川町、嵐山町は、用土が原から8キロ以上離れているので、駐屯地とするには無理があると思います。そうするとやはり、次郎丸として最も可能性があるのは、寄居町用土の次郎平ということになります。

2.次郎平を探す
台風も去った秋晴れの日に、私は例によって、越生経由の山里の道を走らせ、寄居町役場を訪れました。案内所で次郎平を尋ねるとわからず、課税課へ案内されました。課税用の土地台帳でさがしてもらうと、たしかに次郎平という小字がありました。そこは、JR八高線用土駅の北西の、線路と美里町との境界線にはさまれた狭い地域です。先に用土の古老が教えてくれた用土が原古戦場に隣接するところです。埼玉県道175号線で用土駅を過ぎ、美里町境界の道を右へまがると、すぐわかります。
用土駅.JPG013.JPG 
(起伏ある次郎平)
そこは、やや起伏がある地勢で大部分が畑であり、比較的あたらしい数軒の家が点在するだけです。私はそれらの家を訪ねて、土地の歴史を尋ねました。しかしどの家も、せいぜい数十年の居住歴があるだけで、昔のことはわかりませんでした、わかったことは、土地の人が、次郎平を「じろべえ」とか「じろへい」と呼んでいることです。
この土地が次郎平という地名をもっていること、用土が原の隣接地であること、地勢に起伏があって足軽隊をかくすことができたなどからして、次郎平とは「太田道灌状」のなかで次郎丸とよばれた場所であると、私は推定します。

3.飯塚次郎と次郎平
用土駅から、国道254号線を南方へ約1.5キロ行くと、真言宗智山派八幡山萬福寺があります。現在このあたりは、畑と民家が混在して地名は深谷市の武蔵野であるけれども、かつては飯塚という場所でありました。萬福寺境内に深谷市教育委員会の説明板があり次のように記されています。
「(前略)現在の萬福寺のある場所は、中世武蔵武士猪俣党の流れをくむ飯塚掃部(かもん)氏行の館があったと言われ、本堂裏に当時の空掘りの一部が残っています」
飯塚館説明板.JPG  
(飯塚館跡の説明板)

太田道灌状」に「彼れ仕度の趣きやがて飯塚次郎左衛門尉に相知らす」(景春の企みをすぐに飯塚次郎左衛門尉に知らせた)とあります。長尾景春は飯塚次郎左衛門尉と親しく、乱を起こす前に、飯塚館から道灌の宿営地にきて加勢を頼みました。その飯塚次郎左衛門尉とは、飯塚掃部左衛門尉氏行あるいはその係累である、と私は思います その飯塚次郎左衛門尉が武蔵武士猪俣党に属していたとすると、私にははっと思い当ることがあります。それは、次郎丸とおぼしき次郎平と隣接する美里町の大字名が猪俣であることです。山川日本史が記すように、地名をしてその歴史を語らしめると、次郎平は猪俣党の飯塚次郎左衛門尉の開発領地で、開発者の名をつけて、当時次郎丸と呼ばれていた蓋然性は、限りなく強くなるのであります。「丸」の一字は当時、子供、犬、刀、土地などにつけた、愛着を示す語です。
当時の国人の常として、その政治的立ち位置は流動的であったので、用土が原の合戦で、飯塚次郎左衛門尉は道灌側に味方したと思われます。

4.用土城址
用土駅の南方約2キロのところに、藤田院蓮光寺があり、その西約300メートルのところに、用土城址があります。猪俣党から分かれた、この地の豪族藤田氏は、山内上杉方の与党となったけれども、用土が原合戦での動静は明らかではありません。川越夜戦後に藤田重利は北条氏邦を婿として藤田康邦と改名し、さらに保身のため、あえて無防備の用土城に引き籠って用土新左衛門を名のりました。
用土城址.JPG  
(用土城址碑)

用土城址の詩碑にいわく
「 用土城懐古
赤城妙榛三山雄たり
瓊(けい)たり枝垂桜城址融(と)く
戦国の生き残り 強食の里
藤田三代 美しき民の衷(まこと)
(藤田康邦=用土新左衛門父子三代)」
群雄が割拠する北武蔵で、佳景と良民があるとはいえ、必死になって生き延びざるを得なかった藤田氏の苦渋が伝わってくる詩です。

用土が原古戦場=(推定)埼玉県大里郡寄居町用土
次郎丸=(推定)埼玉県大里郡寄居町用土字次郎平
飯塚館跡・萬福寺=埼玉県深谷市武蔵野四五五
用土城址=埼玉県大里郡寄居町用土