2014年02月05日

国府台城址周辺・社寺と榎

      
首都圏を歩きまわってその地の郷土史家に会うと、どこへ行っても次から次と、太田道灌の史跡や伝承地を紹介されます。浜の真砂はつきるとも、関八州に太田道灌の史跡と伝承地はつきることなし、と言いたくなります。
今回は、千葉県市川市の郷土史家の案内で、国府台城址(こうのだいじょうし)とその周辺を歩きました。市川市を訪れる人はまず、JR市川駅に隣接する、45階のタワービルの展望台から周辺を俯瞰するべきです。国府台城址の起伏と江戸川が蛇行して東京湾に入るまでの様子が一望のもとに見え、国府台城が天嶮の要害であったことがよくわかります。この展望台は、市川市が管理する無料の展望台なので、観光の穴場です。
国府台城址から江戸川に沿っての南側の高台に、現在、多くの教育機関があります。それらの敷地内には、太田道灌により天満宮が建立された、法皇塚の墳頂部といわれる前方後円墳や太田道灌手植えの榎と伝えられる大木があります。そして、高台の南端には和洋女子大学の学舎がそびえ立っています。昨年(2013年)、この大学の最上階・17階の展望ロビーで「太田道灌展」が開催され、興味深い資料が展示されました。その展望ロビーから見下ろす国府台城址と江戸川の風景もまた圧巻でありました。
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(45階からの展望)
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(17階からの展望・城址と江戸川)
1478年(文明10年)太田道灌は、都鄙の和睦に反対する千葉氏を討伐するために、下総の国府台城に入り、この城を拠点として境根原(柏市)で戦い、臼井城(佐倉市)、真里谷城(木更津市)、長南城(長南町)、飯沼城(銚子市)などを攻めました。国府台城等の城址については、拙著「道灌紀行」にすでに掲載してあるので、ここでは、その周辺の、道灌有縁の社寺と榎について記します。
 
1・国府台天満宮
JR「市川駅」北口もしくは京成線の国府台駅から「松戸駅行き」バスに乗り、「国立病院前」で下車してすこし歩くと、安国山総寧寺(あんこくざんそうねいじ)という曹洞宗の古刹へきます。その寺を通りすぎるとすぐに、国府台天満宮へきます。境内にある市川市教育委員会の説明板には、次のように記されています。
この天満宮は文明11年(1479年)、当地の鎮守として、太田道灌持資が建立したと伝えています。もと法皇塚の墳頂部に祀られていましたが、明治8年(1875年)大学校設立の用地として、周辺地域が買い上げられたとき農家と共に現在地に移されました。
この地域では古くから獅子舞・辻切りといった民俗行事が行われてきました。「辻切り」とは人畜に危害を与える悪霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入口にあたる四隅の辻を、霊力によって遮断してしまうことから起こった名称です。(中略)
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(国府台天満宮) 
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(辻切りの大蛇)
辻切り行事は毎年1月17日、この天満宮境内で行われ、ワラで二メートルほどの大蛇を四体作り、お神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付けます。こうして大蛇は一年間風雨にさらされながら、町内安全のため目を光らせているのです。(後略)辻切りは、市川市指定の無形民俗文化財です

太田道灌は、1478年(文明10年)12月10日、国府台城に陣をとり、臼井城攻撃をつづける太田資忠軍の後詰めとして、約7カ月この城を拠点として方々へ出撃しました。その間道潅は、城の鎮守としてまた周辺の民衆の求心力を高めるため、国府台天満宮を勧請したと思われます。
国府台天満宮は、市川市の市指定の民俗文化財です
国府台天満宮=千葉県市川市国府台3‐11‐9  
 
2・道灌手植えの榎
総寧寺から約100メートル離れた、江戸川べりの土手の上に、みごとな枝ぶりの榎があり、太田道灌手植えと伝えられています。江戸時代には、このあたりに総寧寺の大門と下馬の石碑がありました。下馬とは、寺に入る前に馬から降りなさい、という意味です。
「江戸名所図会」(1836年)安国山総寧寺の項に、「太田道灌手植え榎と称するは、大門の通り列樹(なみき)の中、下馬の石碑に相対して右の傍にあり」と記されています。
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(道灌手植えの榎)   
この榎の場所は現在、教育機関の奥まったところになっているので、一般の人は入れません。私たちは、特別の許可を得て見せていただきました。この榎は、太田道灌手植えの榎と伝えられているものの、老齢のため幹が割れてきたので、最近枝先が切られました。高さ約14メートルのこの大木は、樹齢約300年と推定されるので、2代目の道灌手植えの榎といわれています。しかし私には、その風格と老齢振りからいって、この榎は、特別に長寿の初代道灌手植えの榎であるように思われてなりません。
  
3・弘法寺と中山法華経寺
京成線の国府台駅から国府台城址の方向へ5分も歩き、右手の坂をのぼるとすぐに、日蓮宗の真間山弘法寺(ままざんぐほうじ)があります。弘法寺は、奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされ、平安時代に空海が、伽藍を構えて弘法寺と改称したということです。その後、鎌倉時代に、時の住持、了性法印が中山法華経寺の富木常忍(ときじょうにん)との問答にやぶれ、日蓮宗に改宗しました。常忍の子の日頂が初代の貫主となりました。
寺の事務所で聞くと、この寺には長禄元年に太田道灌が寄進した茶室があったけれども、今は朽ちてしまって伝承だけになっている、とのことでした。
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(弘法寺)   
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(遠寿院の太田家墓碑)
京成線の京成中山駅で降りると、駅前から中山法華経寺への参道がはじまります。参道の途中の黒門に、掛川城主太田資順(おおたすけのぶ)が寄進した、巨大な扁額がかかっています。額にいわく「如来滅後 閻浮提内 本化菩薩 初転法輪 法華道場」と。中山法華経寺は、日蓮大聖人の有力な弟子であった富木常忍と太田乗明(おおたじょうみょう)の屋敷跡に建立されました。法華経寺の塔頭(たっちゅう)遠寿院(おんじゅいん)の太田家墓碑には太田家碑文が記されています。
太田道灌は曹洞宗であったけれども、その子孫にはなぜか、日連宗系がたくさんいます。道灌から5代目の於勝の方・英勝院や大名となった掛川太田氏は法華経寺の大檀那です。
鎌倉時代に、日蓮大聖人の有力な弟子であった、領主の富木常忍の家紋が土岐桔梗で鎌倉御家人の太田乗明の家紋が太田細桔梗であったことにちなみ、法華経寺の寺紋も桔梗です。太田乗明と太田道灌は家紋が共通なので、何か関係があるのではないか、と市川市の郷土史家は推測しています。それは、今後の研究課題です。
弘法寺=千葉県市川市真間4ー9(中山)
法華経寺・遠寿院=千葉県市川市中山2‐10‐1
posted by otadoukan at 10:49| Comment(6) | 国府台城址周辺・社寺と榎